1953年4月。
オレもいよいよ中学生。ついてこなくてもよかったのに入学式にはお母ァがついてきた。小学校の同級生の親に、「この子は人見知りするので、よろしく…」などと余計なあいさつをしていた。
この中学校の場所は、戦時中に「連隊」があったところで、校舎の半分くらいは元の兵舎をそのまま使っていた。
また、この中学校は市内で一番生徒数が多く、オレらの学年が少なくて9クラス、2年、3年はそれぞれ11クラスもあって全部で生徒は1500人もいた。
1クラス50人で教室内は席が一番後ろまで並んでいた。机と机の間も人一人がやっと通れるほどのぎゅーぎゅー詰めだった。
オレのクラスには、小学校の同級生が4~5人いたが、多くは他の小学校から来たやつらで、町育ち?の垢抜けしたやつが多かった。ちょっと肌が合わんなという感じがした。
歩いたら、学校までは一時間くらいかかるので、自転車で行くことになった。
中学生になったからといって、あれをやりたいとかこれをやってみようとかの目標も特になかった。そんな、オレの詰襟生活がスタートした。13歳の春だった。
オレもいよいよ中学生。ついてこなくてもよかったのに入学式にはお母ァがついてきた。小学校の同級生の親に、「この子は人見知りするので、よろしく…」などと余計なあいさつをしていた。
この中学校の場所は、戦時中に「連隊」があったところで、校舎の半分くらいは元の兵舎をそのまま使っていた。
また、この中学校は市内で一番生徒数が多く、オレらの学年が少なくて9クラス、2年、3年はそれぞれ11クラスもあって全部で生徒は1500人もいた。
1クラス50人で教室内は席が一番後ろまで並んでいた。机と机の間も人一人がやっと通れるほどのぎゅーぎゅー詰めだった。
オレのクラスには、小学校の同級生が4~5人いたが、多くは他の小学校から来たやつらで、町育ち?の垢抜けしたやつが多かった。ちょっと肌が合わんなという感じがした。
歩いたら、学校までは一時間くらいかかるので、自転車で行くことになった。
中学生になったからといって、あれをやりたいとかこれをやってみようとかの目標も特になかった。そんな、オレの詰襟生活がスタートした。13歳の春だった。