最近、練習についてよく考える。
個人練習にしろ教室での練習にしろ、
体を動かしているのは自身でありながら
自己責任を感じているのだろうかと。
先生が常に「無理をしないでください」というのは、
無理が無用な力となって
緊張を生むばかりではなく、
運動そのものが故障や命にかかわるような
(極端な場合だけど)危険性を常に秘めていることを
承知しているからではなかろうか。
一方で練習生は
こういうリスクには案外と無頓着なものだ。
たとえどんなに先生が注意を払って指導していても、
体を動かしているのは先生ではなくて自分だ。
違和感や危険性を真っ先に感じるのは
自分でありそうでいながら
実際は危険ゾーンの手前で
先生が予め指摘してくださっているのが現実。
その注意を喚起する呼びかけが
「無理をしないでください」であるのかもしれない。
これは初心者よりも
自分でいろいろわかり始めてきた頃からの方が
かえって危なくなる気がする。
自分もそうだからだ。
練習を手加減することとは違うのに、
何らかの充足感がないと
気がおさまらない“手応えの誘惑”に
ついつい負けてしまう。
なぜなら覚える喜びや動ける感動があり、
動きそのものに変化があって
楽しいから。
自分なりに“おいしさ”を味わい、
その魅力を知ってしまったら
もっと味わいたくなるのが人情だ。
満腹中枢が働かない→肥満への道と、
どこか似ているカモ。
太極導引は誰でも無理なくできる健康運動
というのは事実。
でもそれは正しく運用した場合に限るのだ。
やり方を間違えれば
故障もする可能性がないというわけではない。
運動とは本来がそういうものなのだ。
必ずしも「健康運動=安全な運動」
ということではないのに、
一般的にこの点の認識が甘くなるのはどうしてだろう。
健康を損なうことは簡単だけれど、
健康を保持し増進するには
それなりの努力が必要なのだ。
ラクして手に入れられるものなど
一切ないということか。
だからこそ“まずはできるところから”なのだろう。
自分の身は自分で守るのが鉄則だ。
無理のある状態は
不測の事態に対応できない脆さがある。
まさに「無理すればどうり(道理)で苦しい」
ということなのかもしれない。
そのためにも
自分の体の状態が今どうなっているのかを
知ろうとする意識感覚は
大事なのではないかなと思う。
それが紙一重の誘惑から身を守る
手だてにもなるのかな。
個人練習にしろ教室での練習にしろ、
体を動かしているのは自身でありながら
自己責任を感じているのだろうかと。
先生が常に「無理をしないでください」というのは、
無理が無用な力となって
緊張を生むばかりではなく、
運動そのものが故障や命にかかわるような
(極端な場合だけど)危険性を常に秘めていることを
承知しているからではなかろうか。
一方で練習生は
こういうリスクには案外と無頓着なものだ。
たとえどんなに先生が注意を払って指導していても、
体を動かしているのは先生ではなくて自分だ。
違和感や危険性を真っ先に感じるのは
自分でありそうでいながら
実際は危険ゾーンの手前で
先生が予め指摘してくださっているのが現実。
その注意を喚起する呼びかけが
「無理をしないでください」であるのかもしれない。
これは初心者よりも
自分でいろいろわかり始めてきた頃からの方が
かえって危なくなる気がする。
自分もそうだからだ。
練習を手加減することとは違うのに、
何らかの充足感がないと
気がおさまらない“手応えの誘惑”に
ついつい負けてしまう。
なぜなら覚える喜びや動ける感動があり、
動きそのものに変化があって
楽しいから。
自分なりに“おいしさ”を味わい、
その魅力を知ってしまったら
もっと味わいたくなるのが人情だ。
満腹中枢が働かない→肥満への道と、
どこか似ているカモ。
太極導引は誰でも無理なくできる健康運動
というのは事実。
でもそれは正しく運用した場合に限るのだ。
やり方を間違えれば
故障もする可能性がないというわけではない。
運動とは本来がそういうものなのだ。
必ずしも「健康運動=安全な運動」
ということではないのに、
一般的にこの点の認識が甘くなるのはどうしてだろう。
健康を損なうことは簡単だけれど、
健康を保持し増進するには
それなりの努力が必要なのだ。
ラクして手に入れられるものなど
一切ないということか。
だからこそ“まずはできるところから”なのだろう。
自分の身は自分で守るのが鉄則だ。
無理のある状態は
不測の事態に対応できない脆さがある。
まさに「無理すればどうり(道理)で苦しい」
ということなのかもしれない。
そのためにも
自分の体の状態が今どうなっているのかを
知ろうとする意識感覚は
大事なのではないかなと思う。
それが紙一重の誘惑から身を守る
手だてにもなるのかな。