この2カ月くらいの間、
いろいろ考えることが多かった。
それは身体的なことや
心のあり方のようなものなど、
さまざまな角度から
自身の現在地点を
再確認したようなものかもしれない。
身体の仕組み的なことでいえば
「骨を知る」ことによって
骨で動く感覚を意識し出したこと。
時として筋肉が意思に反して
動きの邪魔をすることがあることを知ったのは収穫。
自分の思い通りに動けるようになるには、
動きの邪魔になりそうな状態を
なるべく排除する必要がある。
骨を動かすのは筋肉だけれど、
主体は骨で筋肉は補助的なもの。
骨がうまく動くためには
関節を上手に使いこなすことも必要。
関節をゆるめの状態に保つのはそのためでもある。
骨と骨との接点であり、
動きの方向や質を変換する役目も果たす。
例えば上体を回すにしても、
骨を意識しなければ
筋肉に力を入れて捻る動きとなるが、
骨から回そうとすると、
まず筋肉を一端ゆるめないと
背骨を意識できないことに気づく。
背骨に意識を集めたら
ゆっくり背骨を回してみると、
意外なほど軽く回ることに驚く
(私の場合はある関節の存在を知ったことで
さらに強く感じるようになった)。
だったら今までの上体を回す動きは何だったのか?
こんな感じで、今までの動作が
いかに力任せに動いていたのかを確認していった。
心のあり方でいえば、
これまでずっと事あるごとに
先生が言われてきた言葉が
徐々に身にしみてきたことかなと思う。
我々は健康のために運動している。
別に選手になるためや大会で好成績をとるために
練習しているわけではないし、
道を極めるための練習をしているわけでもない。
年に一回参加している交流大会にしても、
たとえ採点種目であっても
ことさらに採点を気にするような要求はされない。
どちらかといえば、“もっともっと”と
頑張ろうとする我々を、
先生がコントロールしておさえているようなものだ。
自分なりにいろいろな立場で
太極拳をはじめ
さまざまな武術にかかわっている方達の考えに
触れる機会を得て、
自分の立っている位置が
どういう所であるのかをようやく理解したところ。
健康のための運動には
それなりに適した程があるということだ。
例えば足を高くあげられなければ
健康ではないのだろうか。
自分の上がる範囲で十分ではないのか。
より高くという目標設定が
腰や膝に負担をかけることになれば、
不健康というリスクが増してくる。
本来の健康のための運動が
不健康を招くかもしれないのだ。
向上をもたらすものは
正しい理解と方法があればこそのもの。
最近、先生が動作の意味を
丁寧に説明してくださるのも、
正しく理解することが故障を防ぎ、
健康づくりにつながると
考えているからではなかろうか。
この頃の、やや武術的興味に
傾きつつある教室の雰囲気を察してか、
先生の教育的指導も多様化してきている模様。
確かに高く伸びた足や
低い姿勢で表演する姿は美しく感じる。
でも美しいばかりで
何となく物足りないものも少なくない。
周りに左右されることなく、
自分が何を望みどうありたいと思っているのか。
今も問いかけ続けているところ。
いろいろ考えることが多かった。
それは身体的なことや
心のあり方のようなものなど、
さまざまな角度から
自身の現在地点を
再確認したようなものかもしれない。
身体の仕組み的なことでいえば
「骨を知る」ことによって
骨で動く感覚を意識し出したこと。
時として筋肉が意思に反して
動きの邪魔をすることがあることを知ったのは収穫。
自分の思い通りに動けるようになるには、
動きの邪魔になりそうな状態を
なるべく排除する必要がある。
骨を動かすのは筋肉だけれど、
主体は骨で筋肉は補助的なもの。
骨がうまく動くためには
関節を上手に使いこなすことも必要。
関節をゆるめの状態に保つのはそのためでもある。
骨と骨との接点であり、
動きの方向や質を変換する役目も果たす。
例えば上体を回すにしても、
骨を意識しなければ
筋肉に力を入れて捻る動きとなるが、
骨から回そうとすると、
まず筋肉を一端ゆるめないと
背骨を意識できないことに気づく。
背骨に意識を集めたら
ゆっくり背骨を回してみると、
意外なほど軽く回ることに驚く
(私の場合はある関節の存在を知ったことで
さらに強く感じるようになった)。
だったら今までの上体を回す動きは何だったのか?
こんな感じで、今までの動作が
いかに力任せに動いていたのかを確認していった。
心のあり方でいえば、
これまでずっと事あるごとに
先生が言われてきた言葉が
徐々に身にしみてきたことかなと思う。
我々は健康のために運動している。
別に選手になるためや大会で好成績をとるために
練習しているわけではないし、
道を極めるための練習をしているわけでもない。
年に一回参加している交流大会にしても、
たとえ採点種目であっても
ことさらに採点を気にするような要求はされない。
どちらかといえば、“もっともっと”と
頑張ろうとする我々を、
先生がコントロールしておさえているようなものだ。
自分なりにいろいろな立場で
太極拳をはじめ
さまざまな武術にかかわっている方達の考えに
触れる機会を得て、
自分の立っている位置が
どういう所であるのかをようやく理解したところ。
健康のための運動には
それなりに適した程があるということだ。
例えば足を高くあげられなければ
健康ではないのだろうか。
自分の上がる範囲で十分ではないのか。
より高くという目標設定が
腰や膝に負担をかけることになれば、
不健康というリスクが増してくる。
本来の健康のための運動が
不健康を招くかもしれないのだ。
向上をもたらすものは
正しい理解と方法があればこそのもの。
最近、先生が動作の意味を
丁寧に説明してくださるのも、
正しく理解することが故障を防ぎ、
健康づくりにつながると
考えているからではなかろうか。
この頃の、やや武術的興味に
傾きつつある教室の雰囲気を察してか、
先生の教育的指導も多様化してきている模様。
確かに高く伸びた足や
低い姿勢で表演する姿は美しく感じる。
でも美しいばかりで
何となく物足りないものも少なくない。
周りに左右されることなく、
自分が何を望みどうありたいと思っているのか。
今も問いかけ続けているところ。