松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

ヨチヨチ歩きから思ったこと

2005-06-14 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
練習場にしている公園では
子供達の動きをウォッチングすることもあります。
子供達はバランスの研究には最適です。
ことに幼児などは体の中心線は
きれいに見てとれますし歪みがありませんから、
自然体の美しさをしみじみと感じます。
こんなにも見事なものが、成長するにつれて
歪んでいってしまうのはどうしてでしょう。

ヨチヨチ歩きの子とハイハイしながら立ち歩きもする子の
2人を観察する機会がありました。
おもしろいことに体の使い方がどうもナンバっぽいんです。

ナンバというのは単純な同側歩行ではありません。
例えば馬の歩き方(“ナミアシ”というのかしらん)に
似てるのかもしれません。
同時に動くのではなく、後足(足)と前足(手)の動きに
ちょっとしたタイムラグがあるんです。
このラグが体重の移動によるものであったりするのではないかと。
つまり体感として存在する中心軸一本というよりも
体重をかけ移す左右両側の二本軸みたいな感じがするんです。
体重移動で微妙に軸を切り替えながら
動いているみたいなんです。
ビデオとか写真なんて撮ってないですから
その印象は曖昧になってきているのですが…。

ヨチヨチ歩きは二軸の存在をもっと感じたように思います。
上体を捻ったりしませんから
体重をかけ移す側の足と手の動きで前へと進む。
ヨチヨチに見えるのにはワケがあったのかも。
そういえば地面を蹴っている様子もなかったかもしれません。
膝を抜くことで前に進んでいたみたい。
導引はゆっくり動くので
地面を蹴って進む方式とは違うと思いますが、
膝の使い方がポイントになります。
腰をいためたときなんか利用できそうですよね。
幼児の歩み、ちょっと気になりました。

弱点克服のカギは

2005-06-12 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
動的ストレッチで移動練習を繰り返していると、
最後の頃には
ほぼ左半身が緊張で硬くなってくる。
たぶん左腰をかばっているのだろうと思う。
坐骨神経痛も左足の方が重いので、
緊張で硬くなった筋肉が
神経を圧迫しているのだろう。

欠点もしくは注意すべき点を
意識すればするほど
思うように動けなくなってくる。
それは意識が偏ることで
全体の動きの連関が崩れてしまうからだと思う。
全体のバランスを統括する意識が
薄れてしまうのだ。
修正すべき点を直に意識するのは
逆効果になってしまうこともあるということか。

緊張している部分をゆるめようとしても、
動きながらでは
なかなかゆるめられないと感じている。
意識してゆるめようとすると
動作姿勢やバランスが崩れる。
他の部分まで影響がでてきてしまう。
なるようになれとばかりに
開き直ってやってしまったときに
「いまのは良いです」と言われてしまうと、
もうどうしていいのかわからなくなる。

自分の場合は、直に問題点を意識するのは
適当ではないのかもしれない
と思い始めたところ。

俗にいう「意識をそらす」方法で
対処してみたらどうだろう。
動作がバランスに支えられているとすれば、
左半身の緊張と対になる状態が
どこかにあるはず。
そしてそこにも同じような弱点が
あるのではないか。

今はまだハッキリと絞り込めなくて
手探りの状態。
緊張をいちばん強く感じるのは腰で、
下腹に力を入ると
自分では腹筋に力を入れているつもりだけれど、
実は弱っている第4腰椎近辺から
骨盤あたりの周囲の筋肉が腰を支えようとして
過剰に力を入れているのかもしれない。

このあたりの内部の筋肉が
いつも硬くてゆるまないような気がしている。
実際には股関節を中心に回している動きでも
つい腰を庇おうとする
意識が働いているのはどうやら否めない。

左足を回す動きにしても慣性を利用しているので、
実際に力を使うのはほんの一瞬のはず。
重心移動を含む右側の働きが足りないのだろうか
とも思ったり、
反対に左の弱さを補おうとして
右側が強すぎてしまい、
かえって左側に無理させているのかもしれない
とも思ったり。
動きが速い場合は予め意思決定してから
動作に望まなければならない。
動きながらの調整は難しいと思う。
こういう点でも太極拳の動きは
自分の思考体系には合っているのかなあとも思う。

「目標イメージの動きになるには、
その動きをどういう感覚で行うといいのか」。
まだ解決は先の話だけれども、
今はこれだけでも由としておこうかな…。
ちょっと弱気な今日この頃。

W杯3大会連続出場決定

2005-06-08 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
太極導引の練習を終えて駅に向かって
歩いていると、大歓声が聞こえてきました。
おそらく日本のゴールが決まったのでしょう
(大黒選手のゴールだったんですね)。
北朝鮮に勝利してスカッと出場を決めたいのは
選手達もサポーターも同じ気持ちですからね。
ああ、コレで決まったんだろうなあ
と思いながら戻ってきました。

何だかんだと騒がれながらも、
フランス大会から連続出場しているんですから
たいしたものです。
ひとりひとりの成長がどのようにかみ合わさって
チームプレイにいかされていくのか。
こうしてまたひとつ結果を導き出したことによって
自信と成長につながることでしょう。

個人的にはやはり中田選手が気になっています。
彼の気持ちの問題に対する処し方などは
とても参考になります。
遥かに年下の彼ですが教わることが多いです。
大黒選手もいいですね。
気持ちのあり方は人生をも左右するくらいの
力があるのかもしれません。

自分が自分であるために

2005-06-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
太極導引を知ったときの感動は
今でもはっきり覚えています。
スタートは一緒でも
辿る経路はひとりひとり異なっていますが、
目指すところが尽きることのなさそうな点で、
また一緒なのかもしれません。
他者と関わり合いながらも我が道を往く
というような?
孤独ではないけれど、ひとりであることの心地よさ
みたいなものがあるのかもしれません。

陳沛山さん(陳氏太極拳)が対談などで
「現代はストレスの多い社会だからこそ、
せめて太極拳を練習しているときだけは
自分だけの時間と空間を持ってもらいたい」と話されているのを
よく目にしますが、
太極拳は自分が支配する時間と空間をつくり出すというのです。
自分だけの時間と空間を支配するって
どういうことなのかしらん?

教室で練習しているときと
ひとりで練習しているときとでは、明らかに違います。
ひとりの時はそれこそ自分のペースで
時間の許す範囲で好きなだけ練習しています。
でも、それが自分だけの時間と空間を支配している
ということだとも思えません。
やはりコントロールだということなのでしょう。

太極拳は全身運動です。
全身をくまなく使うためには
理にかなった動きをする必要があります。
理にかなうということは、洗練された動きと
それを可能にする内面の繊細な操作機能が
滞ることなく協調することなのだろうと思います。

動作練習は動きを練習しているだけでは不十分で、
そこに意念が働くことが必要なのでしょう。
日常生活では他人と協調することを
余儀なくされているからこそ、
自分を取り戻すための時間と空間を確保する。
そのためのひとつの方法が導引でもあるのです。
はじめた頃の新鮮な感動は、
この体験をしたからに他ならないのかもしれません。

先生がよく「うまく動こうと思うことも緊張です」
とおっしゃるのですが、
この意味も最近になってわかってきました。
意識するのは内面との協調状態で、
動きは自然であるべきです。
うまく動けたかどうかは結果です。
動作中に意識することではないのです。
おそらく自分だけの時間と空間は
意念と呼吸から生まれるのではないかと思います。
それは自身の内面を探っていくことでもあるような気がします。

太極導引は呼吸と運動のバランスを重視しますから、
はじめたときのその人のバランス状態に応じて
足りない部分を補いながら
徐々にバランスのとれた状態を作っていくことができます。
ちょうど一滴のしずくが大きな岩に窪みを作るように、
なだらかな変動でも大きな変化を生み出すことを
身をもって実感できます。
体は自然と同じ力を秘めています。
文字通り大自然のふところに抱かれている自己
というイメージですね。
何となくミクロ思考とマクロ思考の両方が
無理なく展開できるようになってきているような気がします。
頭の方も柔軟になってきたのかな?
これも導引効果といったら大げさなんでしょうか。

もっとやさしく-その2-

2005-06-05 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
気持ちと体が同調していないというのでしょうか、
何となくチグハグな感じになってしまう
ときがあります。
体は休みたがっているのに
ハイテンションでどうにも落ち着かない。
あるいは気分的にトーンダウンしているにもかかわらず
体の中ではエネルギーがくすぶっているような感じ。
いずれにしてもあまり心地のよい状態ではありません。

このような場合、どうやって調整すればいいのでしょうか。
私は後者の場合ならば
体を動かすことが多いかもしれません。
あまり人混みの中に出ていったりはせず、
ひとりで導引したりしていることが多いです。

前者の場合は站トウ功や呼吸導引を
していることが多いです。
私の場合は、落ち着きがないときや
体が疲れているとき、外見的には
両肩が持ち上がって首が両肩に埋まった状態となり、
体感的には胃が上に上がってきてしまって
横隔膜が下におりられずに
呼吸が浅くなってしまうような状態になっている
感じがあります。
これが俗にいう、重心が上がってしまう状態
というものではないのかと想像しています。
実際、フワフワと浮ついた感じもします。

太極導引を始めてからは、今まで以上に
自分の内面と向き合うことが増えてきています。
どうも体調がいいときよりも崩しぎみにのときの方が
内なる自分を意識するみたいです。
うまく言えないのですが、内なる自分と相談しながら
事を決めているような気がすることもあります。
自分の体を知ることは
自身から教わることでもあります。
とんがった気持ちも少しずつ丸くなっていくように、
自身に向ける目線にも
時には慈しみのこころが必要ですね。

もっとやさしく-その1-

2005-06-04 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
梅雨の時期を迎えて湿度が体に障るのかも
しれませんが、体の状態が
日々変動していることをしみじみと感じています。
体は自然の一部なんだなあと思う反面、
体調の変化にかかわらず
生活負荷(なんて言葉があるのだろうか)を
考慮することもない自分を
やさしくないなあと反省しています。

自然レベルの影響を調整するのは難しいことですが、
自分の生活リズムは自分の意志しだいで
調整できる余地があります。
太極導引を始めてから4年目ですが、
調整という意味をわかったようでいて
わかっていない一面でもあります。
まだまだ修養が足りませんね。

甘やかすことといたわることは違うのだ
とわかっているつもりなのですが、
実生活の中ではかなり曖昧になっています。
というか、心情的には
逆になっているような気もします。

例えば、腰痛が起こったとき。
症状にもよりますが、一般的には
長時間同じ姿勢をとり続けたことによる
筋肉疲労と考えられます。
ですから対処としてはまず休養することで
疲労回復をはかること。
ところが心情的には「筋肉が弱いから疲れたんだ」
というふうに思いがちです。
こうなると休養して回復をはかることが
どこかに飛んでしまって、
“筋力アップ”→筋肉トレーニングに
飛びつく思考回路にはまり込みやすいようです。

この背景には内心しまった!
という思いがあるのだと思います。
これはつまり“マズイこと”=不本意なことですから、
どうしても挽回せねば!
という焦りにもつながります。

でもここで踏み止まってよーく考えてみれば、
体が勝手につまずいたわけではなく、
自分が蒔いたタネなのです。
弱らせてしまったのは自分ですから
体をいたわることは当然です。
弱っている体に焦りを感じるのは
自分の都合を優先したがる“こころね”に対する
甘やかしです。
どんなに焦ってみたところで
体は気持ちについていけない状態です。
自分が悪かったと謙虚に反省してから
次のステップに移らなければ、
体だってひょっとしたら根に持つことが
あるかもしれません。
もちろん人の世は自分の都合ばかりが通るわけもなく
無理もやりますが、
その自覚があるだけでもかなり違ってくるように思います。
無理することに歯止めがかかるというのか、
自制するというのか。
内なるブレーキがかかるっていう感じでしょうか。

どうも自分の体に対しては
無頓着になりやすいような気がします。
他人には「体に気をつけて」なんて言うクセに…(苦笑)
これも“ウチヅラ”が悪いというやつでしょうか。