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切り通しというのは、山などを削って道を通すことである。
ところが鎌倉に残っている切り通しは、ただの道ではない。
ご存知、鎌倉は三方を小高い丘に囲まれて、もう一方は海(相模湾…材木座海岸)に開いている。鎌倉幕府は、交通の便として切り通しを作らせたが、これは敵に対する防波堤の役目も果たしていたようである。
今を去ること3年半前、2004年6月末の休日に朝早く目が覚めてしまった。何かをしたい。以前スケジュールの都合で見ることができなかった鎌倉の切り通しを見たい。
思い立ったが、すぐ車を走らせて7時くらいに鎌倉に着いてしまった。そこからはゆっくりと見てまわったのだが、なぜか七切り通しに選ばれなかった「釈迦堂の切り通し」が気になった。
調べてみると、地図上に存在する道路隧道としては日本で最古のようである。
鎌倉時代、今から約800年前に掘られ、つい最近までは現役の道路隧道であった。あったと書いたのは、これが目に飛び込んできたからである。
切り通し前の落石注意の札…
奥にはかっこいい「釈迦堂の切り通し」が隠れている。「うう、写真を撮りた~い。」のだが、先に進んで落石に潰されてもつまらない。それにしてもこんなに楽に通れる切り通しでいいのかなと思っていた。鎌倉は海と山に囲まれ地形である。そこに源頼朝が流されてきてその後政権を握ってしまったのは史実が示す通りである。政治の中心地となった鎌倉に通じる道路網を整備しようとした際に、周辺の険しい地形から切り通しを造らざるをえなかったのであろう。結果的ではあるが、険しい地形は防御には非常に適しており、切り通しは正に鎌倉の守りの要であったはずだ。
『鎌倉の七切り通し』とは、意図的に幅を狭く造ったので、敵が進入し難くしている。
ここは敵が侵入しやすいではないか。普通の通路のようでもある。だから七切り通しとは別扱いなのだろうか。そんなことはどうでもいい。せっかくここまで来たのに見ることが叶わないのだろうか。
切り通しの全景が見える位置まで移動する。落石注意の札の脇を少し越える。そして近づく。そう、少しずつ、少しずつ、少しず、少し、少・・・・
そしてついに真下まで来てしまった。フラッシュを焚いて撮影である。
切り通し真下天井部分
そして撮れた写真がこれである。大きな亀裂が走り、そのうちの1本からは水が染み出ている。崩落する時には、ここからだろうか。前を見て、「向こう側へ行きたい。」という欲求が湧き出てくる。
切り通しの向こう側の景色(大町方面)
とりあえずこの日は、ここで引き返すことにした。落石が怖いからではなく、ここで事故にあったら、他の切り通しを見ることができないからという欲張った感覚からであった。