私達夫婦は、子供に恵まれなかったので、一代限りとなる身である。
私の実家は仏教の曹洞宗であり、私の家から程遠くない寺の墓地があり、
少なくとも年に4回ばかり、墓参している。
先祖、祖父、父、母に感謝しながら、お線香を上げたりしているが、
特に私は宗教には無知な方であり、興味がないのである。
この温暖な緑に恵まれた美しい日本の大地に生を受けた私は、
宗教に頼る精神まで柔(やわ)でない、と日頃から思っているのである。
20年前頃、家内と旅先で偶然にその地の墓地で一角で野点が行われ、
抹茶を頂いた後、付近の散策した折、
その外れに松林の中で朽(く)ちた墓石が数多くあった。
多分、人の訪れなく、淡々と歳月が過ぎて、
多く墓石は地に横たわったり、傾いたりして、苔(こけ)むしていた。
私は死者は土に還るのが相応しいと思っているひとりであるので、
この情景が私共夫婦は深く心に残った・・。
10年前の頃だったか、北東北地方の寺で付近の里山で樹木葬を執(と)り行ってくれることを知り、
家内と色々と話し合った。
墓碑もなく、好きな樹木の下で私の骨が埋もれ、歳月と共に里山の土に還る、
隣の付近に家内が眠れれば、これに越したことはない、
こうした信条を家内に託している。
私が先にあの世に行った時、初七日以降は一切無用で、
残された家内は温泉滞在の時などで、気が向いた時に散歩がてら参拝すれば、
と言ったりしている。
家内に先立たれた場合は、
数年に一度程度、この地の付近の温泉地に連泊し、
少なくとも50歳以上の仲居さんにお酌して貰い、私は地酒を呑み、
家内の想い出を語(かた)れれば、これ以上の望みはない、
と思ったりしている。
古人から天命という言葉が伝えられているが、
はたして私共のこれからの命は、天上の神々に寄るものであるから、
こればかりに委(ゆだ)ねるほかはないのである。
私の実家は仏教の曹洞宗であり、私の家から程遠くない寺の墓地があり、
少なくとも年に4回ばかり、墓参している。
先祖、祖父、父、母に感謝しながら、お線香を上げたりしているが、
特に私は宗教には無知な方であり、興味がないのである。
この温暖な緑に恵まれた美しい日本の大地に生を受けた私は、
宗教に頼る精神まで柔(やわ)でない、と日頃から思っているのである。
20年前頃、家内と旅先で偶然にその地の墓地で一角で野点が行われ、
抹茶を頂いた後、付近の散策した折、
その外れに松林の中で朽(く)ちた墓石が数多くあった。
多分、人の訪れなく、淡々と歳月が過ぎて、
多く墓石は地に横たわったり、傾いたりして、苔(こけ)むしていた。
私は死者は土に還るのが相応しいと思っているひとりであるので、
この情景が私共夫婦は深く心に残った・・。
10年前の頃だったか、北東北地方の寺で付近の里山で樹木葬を執(と)り行ってくれることを知り、
家内と色々と話し合った。
墓碑もなく、好きな樹木の下で私の骨が埋もれ、歳月と共に里山の土に還る、
隣の付近に家内が眠れれば、これに越したことはない、
こうした信条を家内に託している。
私が先にあの世に行った時、初七日以降は一切無用で、
残された家内は温泉滞在の時などで、気が向いた時に散歩がてら参拝すれば、
と言ったりしている。
家内に先立たれた場合は、
数年に一度程度、この地の付近の温泉地に連泊し、
少なくとも50歳以上の仲居さんにお酌して貰い、私は地酒を呑み、
家内の想い出を語(かた)れれば、これ以上の望みはない、
と思ったりしている。
古人から天命という言葉が伝えられているが、
はたして私共のこれからの命は、天上の神々に寄るものであるから、
こればかりに委(ゆだ)ねるほかはないのである。