東京の郊外は、本日、明日は冬晴れとなっるので、
数多くのお方達はお休みでご家族でのんびりと過ごされるのかしら、
と朝の陽射しを受けながら感じたりしている。
本日は『節分の日』と云われいるが、
何故この時に【福は内! 鬼は外!】と叫びながら豆を撒(ま)くの、
と思ったりした。
何より、鬼がどうして登場したのか、
齢を重ねた私は改めて、思いをめぐらしたりしている・・。
私なりに調べ上げたので、最も解かりやすかったのは、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』であった。
無断であるが、転記させて頂きます。
【
立春の前日の2月3日に行われる『節分』は、
古代の中国にあった『追儺(ついな)』という行事が、形を変えたものだと云われている。
追儺とは、熊の皮をかぶって、金色の目玉が四つも付いた面をかぶった呪者が、
手に矛(ほこ)と楯(たて)を持って、疫病や災害を表す鬼を追い出す行事だったという。
それが日本に入ってきたのは、7世紀の飛鳥時代。
日本では『鬼やらい』とも云われるようになった。
『やらい』とは、追い出すことである。
8世紀の平安時代から、新年を迎える宮廷の行事のひとつとして、
大晦日に行われるようになった。
【慶雲3年(706年)に疫病が流行ったので、宮廷で鬼やらいをした】
という記録があるので、何か特別な事情があれば、
普段でも行われていたかもしれない。
このような形の行事が、次第に神社や仏閣に広がって、
鎌倉時代が終わる14世紀前半まで、延々と600年以上に亘(わた)って続けられたのである。
室町時代になると、鬼やらいは民間でも観られるようになり、
鬼に扮装した人を追い出す芸能形式のものと、
枡(ます)に入れた『炒(い)り豆』を撒く形式のものと二分された。
干支(えと)に当たる『年男』が撒いた豆を、年の数だけ食べる様式が成立したのも室町時代からのこと。
この豆撒きもまた中国から伝来した風習だといわれているが、
『まめ(健康)になる』という語呂合わせから、豆が撒かれたという説もある。
このような行事が『節分』と呼ばれるようになったのは、
文字通り『季節を分ける』行事だったからである。
つまり、鬼を追い出す行事は立春の前日だけでなく、
立夏、立秋、立冬の前日毎に、年に4回も行われるようになった。
また、芸能形式のものは衰えて、手数のかからない豆撒き形式が中心となっていった。
・・かつての節分は、病気と災厄を逃れる為の神聖な儀式であったことが解かる。
時代が下ると、今のように立春の前日だけに行われるようになったが、
それでも室町時代と同じく『福は内、鬼は外』と叫んで豆を撒く行事は、
暗鬱(あんうつ)な季節を過ごして春を迎える、
重要な節目であり続けたのである。
】
以上、長々と転記させて頂きました。
私はこの歳になって、初めて由来を知った訳であるが、
多くの日本文化の伝統は、室町時代にほぼ完成をしているが、
この『節分』もひとつか、とも改めて教示を受けたりしている。
数多くのお方達はお休みでご家族でのんびりと過ごされるのかしら、
と朝の陽射しを受けながら感じたりしている。
本日は『節分の日』と云われいるが、
何故この時に【福は内! 鬼は外!】と叫びながら豆を撒(ま)くの、
と思ったりした。
何より、鬼がどうして登場したのか、
齢を重ねた私は改めて、思いをめぐらしたりしている・・。
私なりに調べ上げたので、最も解かりやすかったのは、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』であった。
無断であるが、転記させて頂きます。
【
立春の前日の2月3日に行われる『節分』は、
古代の中国にあった『追儺(ついな)』という行事が、形を変えたものだと云われている。
追儺とは、熊の皮をかぶって、金色の目玉が四つも付いた面をかぶった呪者が、
手に矛(ほこ)と楯(たて)を持って、疫病や災害を表す鬼を追い出す行事だったという。
それが日本に入ってきたのは、7世紀の飛鳥時代。
日本では『鬼やらい』とも云われるようになった。
『やらい』とは、追い出すことである。
8世紀の平安時代から、新年を迎える宮廷の行事のひとつとして、
大晦日に行われるようになった。
【慶雲3年(706年)に疫病が流行ったので、宮廷で鬼やらいをした】
という記録があるので、何か特別な事情があれば、
普段でも行われていたかもしれない。
このような形の行事が、次第に神社や仏閣に広がって、
鎌倉時代が終わる14世紀前半まで、延々と600年以上に亘(わた)って続けられたのである。
室町時代になると、鬼やらいは民間でも観られるようになり、
鬼に扮装した人を追い出す芸能形式のものと、
枡(ます)に入れた『炒(い)り豆』を撒く形式のものと二分された。
干支(えと)に当たる『年男』が撒いた豆を、年の数だけ食べる様式が成立したのも室町時代からのこと。
この豆撒きもまた中国から伝来した風習だといわれているが、
『まめ(健康)になる』という語呂合わせから、豆が撒かれたという説もある。
このような行事が『節分』と呼ばれるようになったのは、
文字通り『季節を分ける』行事だったからである。
つまり、鬼を追い出す行事は立春の前日だけでなく、
立夏、立秋、立冬の前日毎に、年に4回も行われるようになった。
また、芸能形式のものは衰えて、手数のかからない豆撒き形式が中心となっていった。
・・かつての節分は、病気と災厄を逃れる為の神聖な儀式であったことが解かる。
時代が下ると、今のように立春の前日だけに行われるようになったが、
それでも室町時代と同じく『福は内、鬼は外』と叫んで豆を撒く行事は、
暗鬱(あんうつ)な季節を過ごして春を迎える、
重要な節目であり続けたのである。
】
以上、長々と転記させて頂きました。
私はこの歳になって、初めて由来を知った訳であるが、
多くの日本文化の伝統は、室町時代にほぼ完成をしているが、
この『節分』もひとつか、とも改めて教示を受けたりしている。