私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、家内と共に銀行の貸金庫で用を済ませた後、
買物で最寄りのスーパーに立ち寄ったが、平日なのに私たちのような買物客で混雑していた・・。
私は家を出る前の朝、地元の天気情報によると、
関東地方は9年ぶりの大型台風となる26号が来襲して、私たちの住む地域は午後より雨が降りだし、
夕方からは風を伴う激しい雨となり、明日の16日の午前中まで続きます、と報じられていた。
このような状況であったので、雨の降り前に買い物を済ませよう、
と多くの方が入店されていた、と私は理解したりした。
やがてスーパーを出ると、小雨が降りだしていて、
『予定より少し早く降りだしたねぇ』
と私は家内に言ったりした。
そして夕食を家内と共に頂いている時、NHKのテレビの台風情報を視聴したりした。
やがて今回の台風で日本の各地で多大な被害などに伴い、各地で避難指示、避難勧告の状況を知り、
無力な私はお気の毒にと憂いたりした。
そして漁業、農業、果樹園、運送などに携わる方たちはもとより、
対策される道路、鉄道、消防、警察などの関係者は労苦が多く、
特に災害救助に対応される自衛隊の諸兄諸姉も職務といえ大変だ、と私は見たりしていた。
今朝、ときおり激しい雨脚、強く吹く風の音で、私は目覚めた・・。
やがて、NHKのテレビの台風情報を視聴すると、
伊豆大島は観測史上初めての暴風雨に伴い、多大な土砂崩れの災害に私は動揺したり、
各地の公共機関の電車の運休や大幅な遅れで混乱する中、
働いて下さる諸兄諸姉の多くが、通勤する時の困惑した表情を映しだされてたりしていた。
私は現役時代は都心にある職場に通ったサラリーマンのひとりであったので、
現役の諸兄諸姉は、通勤の最中、お気をつけて出社されるように、と願ったりした。
このような情景を見たりしたせいか、私の現役時代の台風の時、
通勤していた時の状景が思いだされた・・。
確か17年前頃、朝、目覚めると風が強く吹いて、雨は強く降っていた。
こうした時はバス、電車は通常通りの運行期待する方が無理なので、
何時もより30分早めに家を出たりした。
勤務先の最寄駅までは順調であったが、会社までの川沿いの幅広い遊歩道を歩いていた時、
風は相変わらず強く、雨は横殴りとなっていた。
会社に着いた頃は、10分足らずの道のりであったが、
スーツのズボンは膝頭から足元、靴はびっしょりと濡れた。
私は自分の席に着いて、ハンドタオルで拭いて、この後、洗面所に行き、身支度を整え、
そしてフロアーの通路にある自動販売機でお茶缶を買い求め、
窓辺に寄り、川沿いの遊歩道を見下ろした。
前方の対岸は、なだらから丘陵となっている斜面に、
数多くの小さなビル、商店街、そして住宅街から雨水が、道路際の排水溝、路上から流れていたので、
川の側面にある1メートル前後の大きな排水口は、瀧のような川になだれ込んでいた。
川べりの遊歩道の樹木の枝葉は、強く風を受けて、しなっていた。
私は、台風の直撃かしら、と感じながら、やがて席に座り、業界紙を読み始めた。
始業時の25分前だった。
この当時の17年前頃は、私の勤めた職場の状景としては、私のように振舞う人が、各部署で数人はいた。
退社後の台風の時、鮮烈な記憶のひとつとして、私が31歳の時であった。
この当時は私たち夫婦は新婚生活を始めた年で、
東京都と千葉県の間に江戸川が流れ、川沿いの千葉県側の京成線の国府台駅の近くの賃貸マンションに住んでいた。
この当時は会社の最寄駅は六本木であり、
地下鉄で『六本木』から『東銀座』、その後は『押上』から『青砥』、そして『国府台』まで、
通勤時間は自宅から45分ぐらいであった。
そして台風が来襲した時、夜9時過ぎに退社後、
京成線の『青砥』駅までは平素より多少は混む程度であったが、
この先の千葉県のある箇所の線路に倒木があり、『新小岩』駅まで行けるが、その先は不通となった。
やむなく私は、『新小岩』駅で下車して、
JRの『小岩』駅までの未知の歩道を、雨が激しく降る夜道を15分ばかり歩いた。
そしてJRの『市川』駅で下車した後、風が強く吹く豪雨の中、
傘を差しても余り効果がないねぇ、と零〈こぼ〉しながらも、新妻の待つ我が家に20分ばかり歩いた。
もとよりスーツ、靴、そしてビジネス・バックはズブ濡れとなり、
何とか自宅にたどりついたが、
家内は、私の全身シャワーを浴びたような容姿に、驚きながらも笑いだした・・。
このような台風の通勤、退社後、ささやかな思いでを私は秘めている。
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昨日の午前中のひととき、家内と共に銀行の貸金庫で用を済ませた後、
買物で最寄りのスーパーに立ち寄ったが、平日なのに私たちのような買物客で混雑していた・・。
私は家を出る前の朝、地元の天気情報によると、
関東地方は9年ぶりの大型台風となる26号が来襲して、私たちの住む地域は午後より雨が降りだし、
夕方からは風を伴う激しい雨となり、明日の16日の午前中まで続きます、と報じられていた。
このような状況であったので、雨の降り前に買い物を済ませよう、
と多くの方が入店されていた、と私は理解したりした。
やがてスーパーを出ると、小雨が降りだしていて、
『予定より少し早く降りだしたねぇ』
と私は家内に言ったりした。
そして夕食を家内と共に頂いている時、NHKのテレビの台風情報を視聴したりした。
やがて今回の台風で日本の各地で多大な被害などに伴い、各地で避難指示、避難勧告の状況を知り、
無力な私はお気の毒にと憂いたりした。
そして漁業、農業、果樹園、運送などに携わる方たちはもとより、
対策される道路、鉄道、消防、警察などの関係者は労苦が多く、
特に災害救助に対応される自衛隊の諸兄諸姉も職務といえ大変だ、と私は見たりしていた。
今朝、ときおり激しい雨脚、強く吹く風の音で、私は目覚めた・・。
やがて、NHKのテレビの台風情報を視聴すると、
伊豆大島は観測史上初めての暴風雨に伴い、多大な土砂崩れの災害に私は動揺したり、
各地の公共機関の電車の運休や大幅な遅れで混乱する中、
働いて下さる諸兄諸姉の多くが、通勤する時の困惑した表情を映しだされてたりしていた。
私は現役時代は都心にある職場に通ったサラリーマンのひとりであったので、
現役の諸兄諸姉は、通勤の最中、お気をつけて出社されるように、と願ったりした。
このような情景を見たりしたせいか、私の現役時代の台風の時、
通勤していた時の状景が思いだされた・・。
確か17年前頃、朝、目覚めると風が強く吹いて、雨は強く降っていた。
こうした時はバス、電車は通常通りの運行期待する方が無理なので、
何時もより30分早めに家を出たりした。
勤務先の最寄駅までは順調であったが、会社までの川沿いの幅広い遊歩道を歩いていた時、
風は相変わらず強く、雨は横殴りとなっていた。
会社に着いた頃は、10分足らずの道のりであったが、
スーツのズボンは膝頭から足元、靴はびっしょりと濡れた。
私は自分の席に着いて、ハンドタオルで拭いて、この後、洗面所に行き、身支度を整え、
そしてフロアーの通路にある自動販売機でお茶缶を買い求め、
窓辺に寄り、川沿いの遊歩道を見下ろした。
前方の対岸は、なだらから丘陵となっている斜面に、
数多くの小さなビル、商店街、そして住宅街から雨水が、道路際の排水溝、路上から流れていたので、
川の側面にある1メートル前後の大きな排水口は、瀧のような川になだれ込んでいた。
川べりの遊歩道の樹木の枝葉は、強く風を受けて、しなっていた。
私は、台風の直撃かしら、と感じながら、やがて席に座り、業界紙を読み始めた。
始業時の25分前だった。
この当時の17年前頃は、私の勤めた職場の状景としては、私のように振舞う人が、各部署で数人はいた。
退社後の台風の時、鮮烈な記憶のひとつとして、私が31歳の時であった。
この当時は私たち夫婦は新婚生活を始めた年で、
東京都と千葉県の間に江戸川が流れ、川沿いの千葉県側の京成線の国府台駅の近くの賃貸マンションに住んでいた。
この当時は会社の最寄駅は六本木であり、
地下鉄で『六本木』から『東銀座』、その後は『押上』から『青砥』、そして『国府台』まで、
通勤時間は自宅から45分ぐらいであった。
そして台風が来襲した時、夜9時過ぎに退社後、
京成線の『青砥』駅までは平素より多少は混む程度であったが、
この先の千葉県のある箇所の線路に倒木があり、『新小岩』駅まで行けるが、その先は不通となった。
やむなく私は、『新小岩』駅で下車して、
JRの『小岩』駅までの未知の歩道を、雨が激しく降る夜道を15分ばかり歩いた。
そしてJRの『市川』駅で下車した後、風が強く吹く豪雨の中、
傘を差しても余り効果がないねぇ、と零〈こぼ〉しながらも、新妻の待つ我が家に20分ばかり歩いた。
もとよりスーツ、靴、そしてビジネス・バックはズブ濡れとなり、
何とか自宅にたどりついたが、
家内は、私の全身シャワーを浴びたような容姿に、驚きながらも笑いだした・・。
このような台風の通勤、退社後、ささやかな思いでを私は秘めている。
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