夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

金木犀(キンモクセイ) の芳香の時節を迎え、亡き家内の父に、私は思いを重ねて・・。

2013-10-04 13:58:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む69歳の身であるが、
今朝目覚めた後、やがて玄関の軒下に下り立つと、どんよりとした曇り空を眺めたりし、
少し寒いじゃないの、と夏用の長袖のスポーツシャツを着ていた私は呟(つぶや)いたりした。

そして居間に戻り、地元の天気を見ると、
朝の6時は17度、昼下がりは18度前後、夜の6時は17度前後、
10月下旬のような肌寒い曇りの一日となります、
と報じられ、気温は日中横並びの日かょ、と私は微苦笑したりした。

そして昨日は9月上旬のような晩夏のように熱い日中であったので、
10度ばかり急激に下がり、私は天上の気候の神々の采配に戸惑いながら、
いくら暑さに苦手な私でも、どうしてなのょ、と空を見上げたりした。
          
朝食後、私は家内の援軍を借りて、昨日の続きの居間の本、映画、音楽の作品を
断捨離(だんしゃり)と称された《・・不要なものを断ち、捨て、執着から離れることを目指す整理法・・》に、
これも破棄しょう、と専念した。

そして私は一時間ぐらいすると、あぐらの姿勢で膝(ひざ)、背筋を伸ばす為に、
小庭のテラスに下り立ち、NHKの体操の真似事をしていると、
微(かす)かなかぐわしい匂いが漂〈ただよ〉ってきて、やがて金木犀(キンモクセイ)からの香りと気付き、
私は我が家の建物に一番近い金木犀(キンモクセイ)の樹に近づいた・・。

そして小さな莟〈つぼみ〉が数多くあり、見惚(みと)れたりした。

この後、私は居間に戻ると、
『おとう〈義父〉さんの・・命日まもなくだねぇ』
と家内に言ったりした。

私は無念ながら俳句の素養もないつたない身であるが、確か4年前のこの時節に、
   金木犀(キンモクセイ) 想い残し 彩(いろ)どられ
と詠んだりしたのである。
          
家内の父が2004〈平成16〉年のこの時節に死去したのであるが、
亡くなったと病院にいた家内から知らせを私が聞いた時、
我が家の金木犀は満開となり、初七日を終えて私たち夫婦が帰宅した時、
金木犀の枝に橙黄色の小花が残っているが、大半は地上の黒土に絨毯のように敷き占め、
沈香の香りを残していた・・。

私は金木犀のまもなく橙黄色の小花を眺めたり、匂いが漂ってきた時、
家内の父との25年ばかりの交情が重ねることが、習性のようになっている。

そして過ぎし日の春の桜見、旅先のひととき、年末年始に我が家でお歳取りで泊まって頂いた時、
入退院のお見舞などが、走馬灯のように想いが去来する。

家内の父は、私が定年退職であった2004(平成16)年の秋の直前に亡くなり、
早くも10年目を向えることとなる・・。

確か15年前、家内の父は体調の不良で精密検査した結果、腎臓のガンが発見され、
家内の母の要望で、当人には悪性の腫瘍と伝えながら、
片方の腎臓を摘出した後、5年間は入退院を繰り返していた・・。

私たち夫婦は、家内の父、母と4人で、
家内の父が初めて入院する以前から、私は現役のサラリーマンの多忙の合間に、
ときおり代休を頂き、2泊3日前後の旅行に誘ったり、花見などに行ったりしていた。

その後の入退院を繰りかえしていたが、体調が良かった時、
やはり温泉滞在の旅行を幾たびか重ねてきた。

私の心底の思いのひとつとして、家内の父、母が万一寝たきりになった時、
のちの思いに、と思って頂ければ良いかなぁ、
と思いながら旅先のひとときを私たち夫婦は楽しんだりした。
          
そして私は小学2年の時に父に病死されたこともあり、家内の父には親愛を深めたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、世の中の父親と息子の関係に於いて、
一部の息子が特に成人した頃からは、父親が現役で奮闘している場合は、
何かとライバル視する傾向が多く、素直な親子の心情のふるまいや会話ができなく、
と私は友人から教えて貰ったりした。

やがて父親が高齢者になり、しぐさが衰えたり、或いは死去されて、
初めて父親が家庭を守る為に、孤軍奮闘してきた長年の言動に感銘をする、
と聞いたりしている。

私たちの場合は、もとより義理の息子と父親の関係もあるが、
何よりも家内の父は私に対して、ある程度の遠慮された言葉、しぐさをされ、
こうした言動があったので、私も圧迫感を感じることが少なくなり、お互いに信愛を深めることができた、
と私は家内の死後に、改めて深く感じさせられた。

そして人生の機敏に家内の父は、私より遥かに上手な大人の人だった、と私は教示させられた。


家内の父は、長年連れ添った妻と娘が交互で、夜を徹して看病されながら、
最期となった入院の時、1ヶ月後に大学病院の個室で亡くなった。
          
そして仮通夜の日、前日の死去に伴い家内の母と共に家内は病院、葬儀の関係者など話し合った後、
家内が早朝に自宅に戻ってきた・・。

台風のような風は強く、豪雨の一日となった。

家内に2時間ばかり仮眠をしてもらった後、
私たち夫婦は、喪服を濡らすわけにいかないこともあり、タクシーで遠方の葬儀所に向かった。

『お父さんも・・お母さんに長年看病して貰ったり・・
お母さんも睡眠時間も削って、心身共々尽くしたのだから・・後悔はないと思うよ・・』
と私は疲れた顔立ちの家内に私は言ったりした。

そしてタクシーは雨が激しく降る中、我が家の調布市の外れから都心の高速道路を疾走し、
やがて千葉県の八千代台市に向かった。

それからの日々は、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と慌しいを私共は過ごした。

家内の母は、お墓を千葉県の木更津の付近に買い求めていたので、
四十九日の法要、納骨を終わった後、
家内の母と家内と私は、お寺の付近の最寄駅の延長にある亀山湖で、
温泉観光ホテルに3泊4日で滞在した。


そして家内の母は、一人住まいの生活になったので、
この時以来、年末年始は私たちの自宅に5泊前後泊まって頂き、
ときたま温泉滞在旅行に誘って行ったりしている。

こうした中で、家内は殆ど毎晩、家内の母に電話で長らく話し合ったりし、
或いは季節が変わるたびに5日前後、家内の母の宅に泊まっては、
母と娘で他愛ない話をしたり、雑事をしている。
         

私は死者には敬(うやま)うが、かといって3回忌、7回忌、13回忌と続く法事には、
生きている人の慰めと思っている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ12年ばかり言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、温泉滞在の帰りの気が向いた時、お線香の一本でも良いと思っている。
          

こうした思いもあり、家内の父の新盆の時は、
私は自宅で留守番役をして、家内の母は、独り住まいとなっているので、
こうした機会に家内と家内の妹に囲まれながら、娘の2人と他愛なくのんびり過ごすのも良いと思い、
近くの館山温泉観光ホテルに家内たちと3泊4日をして貰ったりしていた。

しかし、さすが一周忌だけは、私は家内に付いて法要にでかけた。
この時は、家内の妹は多忙の時であったので、
房総半島の白浜温泉観光ホテルで、私たち3人は4泊5日で滞在した。

これ以降は、私は家内の父の法要は、
おとう〈義父〉さんとは、生前の旅行先で楽しみを分かち合ったから、
心の思いは済んでいるので、一周忌が最後と言い、後は家内にまかせている。

そして2回忌からは、家内ひとりで参列した後は、
家内の母と家内、家内の妹の3人で命日の供養を兼ねた慰安旅行をして貰っている。

養老渓谷の滞在から始まり、その後は犬吠崎、青堀、養老渓谷などの各地に、
いずれもお墓から程近い周囲の観光温泉ホテルで宿泊している。
          
私は家内が毎年、父の命日に伴いささやかな慰安旅行に行くたびに、
私は家内をバス停まで見送ったりしているが、
家内はバスに乗り込み、車内から家内の笑顔と小さく振る手で、
私の身勝手な論理で世間をどこまで・・と思い返したが、せんなきことと思っている。

まもなく我が家のわずか3本の金木犀(キンモクセイ)はやがて満開となるが、
金木犀の香りが居間まで漂(ただよ)い、私は家内の父との会話、しぐさを思い馳せたりし、
過ごしたりしている。

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