夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

母の日、秘かに一青窈(ひとと・よう)さんの『ハナミズキ』の歌を心の中で唄い・・。

2014-05-11 14:59:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、『母の日』と朱記されていたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなく我が家は2人だけの家庭なので、思わず微苦笑した・・。

私は小学2年の昭和28年(1953年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の叔母がこの当時は未婚で、
母と叔母の中で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。

私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。

やがて私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。

私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。
          
古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
ときおり私も母の言葉やしぐさを思い出されている。

そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
何より家内が私の母を信愛した言動をしてきたので、家内は私の母に可愛がれたりした。
そしてお互いに遠慮があったので、好循環となったのが、せめての私の救いとなっている。
          

私たち夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、ときおり国内旅行をしてきた。

私が2004年(平成16年)の秋に定年退職する直前に、入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行っていた。
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。

そして、独り住まいの家内の母は、私より14歳の齢上で後期高齢者の身であり、
平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。

しかしながら、自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服などは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、6泊7日前後で滞在し、庭の手入れを含めて、孤軍奮闘を重ねている。

こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。
そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。

そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。
          

こうした状況なので、我が家は『母の日』に関しては、
ここ10年近く特に花束とか品物のプレゼント、或いは食事会などは無縁となっている。


私は確か5年前、テレビである音楽番組を視聴していたら、
一青窈(ひとと・よう)さんが出演され、自ら作詞された『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったことがあった・・。
          

このような思いがあったので、せめて『母の日』には、
私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと思ったりした・・。

そして私は心の中で、呟(つぶ)やくように、♪・・母の日になれば ミズキの葉 贈って下さい・・、
と心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりしていている。

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