私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、『母の日』と朱記されていたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなく我が家は2人だけの家庭なので、思わず微苦笑した・・。
私は小学2年の昭和28年(1953年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の叔母がこの当時は未婚で、
母と叔母の中で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。
やがて私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。
私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。
古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
ときおり私も母の言葉やしぐさを思い出されている。
そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
何より家内が私の母を信愛した言動をしてきたので、家内は私の母に可愛がれたりした。
そしてお互いに遠慮があったので、好循環となったのが、せめての私の救いとなっている。
私たち夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、ときおり国内旅行をしてきた。
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職する直前に、入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行っていた。
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。
そして、独り住まいの家内の母は、私より14歳の齢上で後期高齢者の身であり、
平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。
しかしながら、自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服などは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、6泊7日前後で滞在し、庭の手入れを含めて、孤軍奮闘を重ねている。
こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。
そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。
こうした状況なので、我が家は『母の日』に関しては、
ここ10年近く特に花束とか品物のプレゼント、或いは食事会などは無縁となっている。
私は確か5年前、テレビである音楽番組を視聴していたら、
一青窈(ひとと・よう)さんが出演され、自ら作詞された『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったことがあった・・。
このような思いがあったので、せめて『母の日』には、
私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと思ったりした・・。
そして私は心の中で、呟(つぶ)やくように、♪・・母の日になれば ミズキの葉 贈って下さい・・、
と心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりしていている。
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今朝、ぼんやりとカレンダーを見つめると、『母の日』と朱記されていたが、
私たち夫婦は子どもに恵まれなく我が家は2人だけの家庭なので、思わず微苦笑した・・。
私は小学2年の昭和28年(1953年)の春に父に病死され、
母の保護下のもとで、父の妹の叔母がこの当時は未婚で、
母と叔母の中で、兄ふたり、妹ふたりの中で、サンドイッチのような挟(はさ)まれながら育った。
私が25歳を過ぎ、遅ればせながら民間会社に中途入社できた後、
『母の日』の前日には、何か洋服を買い求める時に足しにして下さい、といくばくかの現金を包み、
母の好きな和菓子と共に、母に手渡したりしたりした。
やがて私は結婚して、少し遠方に住んでいたので、送金をしたりしていた。
私の50代のなかば、平成10年(1998年)に入退院を繰り返していた母に死去された。
古来より男性は、ともすれば父親に対しては忘れがちであり、
母親はいつまでも心に残る、と云われているが、
ときおり私も母の言葉やしぐさを思い出されている。
そして、母の生前の時にもう少し私は優しくしてあければよかった、
と後悔をする時もあるが、
何より家内が私の母を信愛した言動をしてきたので、家内は私の母に可愛がれたりした。
そしてお互いに遠慮があったので、好循環となったのが、せめての私の救いとなっている。
私たち夫婦は家内の両親と私の40代のなかばの頃から、ときおり国内旅行をしてきた。
私が2004年(平成16年)の秋に定年退職する直前に、入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、
そして独り住まいとなった家内の母と私たち夫婦は、年に数回は国内旅行に行っていた。
やがて、家内の母の『母の日』には、やはり温泉ね、と要望され温泉滞在旅行が多かった。
そして、独り住まいの家内の母は、私より14歳の齢上で後期高齢者の身であり、
平素は女友達のグループで小旅行をしたり、街歩きをしたり、
或いは実家の上越市に訪れたりすることが多い。
しかしながら、自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服などは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、6泊7日前後で滞在し、庭の手入れを含めて、孤軍奮闘を重ねている。
こうした中、家内の母は2年前に膝(ひざ)を悪化して、
市の福祉サービスより『要支援の2』と認定をされている。
そして私たち夫婦は、やむなく温泉滞在旅行の代わりと思いながら、
お醤油、ソースなどの調味料、洗剤、雑貨品などの重い品物と感じられる品の数々を、
積極的に宅配便を活用して送付したりしている。
そして家内は、家内の母が独り住まいとなった当時から、
安否を含めて、殆ど毎晩30分前後ぐらい電話連絡をしたりしている。
こうした状況なので、我が家は『母の日』に関しては、
ここ10年近く特に花束とか品物のプレゼント、或いは食事会などは無縁となっている。
私は確か5年前、テレビである音楽番組を視聴していたら、
一青窈(ひとと・よう)さんが出演され、自ら作詞された『ハナミズキ』の歌を唄う前に、
『・・私が10歳を過ぎてまもない時・・母が亡くなわれ・・この歌の三番は母を偲んで書き上げました・・』
このようなメッセージを発露したあとで、この『ハナミズキ』を唄われ、
私は胸が熱くなったことがあった・・。
このような思いがあったので、せめて『母の日』には、
私は『ハナミズキ』の歌を心の中で唄おうと思ったりした・・。
そして私は心の中で、呟(つぶ)やくように、♪・・母の日になれば ミズキの葉 贈って下さい・・、
と心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりしていている。
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