夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

敗残者のような半生を歩んだ私が、身に心も安らぐひとつは神代植物公園・・。

2014-05-16 13:06:23 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は若き日に映画・文學青年の真似事をして、あえなく敗退した後、
その後の中小業の民間会社でサラリーマン35年近く勤める中、幾たびのリストラ烈風の中、
何とか2004年〈平成16年〉の秋に定年を迎えることができ、敗残者のような半生を歩んできた。

そして何かと劣等感を多く秘め、屈折の多い半生だったので、
残された人生は、せめて少しばかり自由な時を・・、と念願しながら定年直後から年金生活をしてきた。
          
           ☆今回添付した全ての写真は、一昨日の14日の『神代植物公園』に訪れ時、雑木林を中心とした情景である☆

やがて昨今の私は、今年の9月に誕生日を迎えると60代を卒業して、古希と称される70歳になり、
家内も12月の誕生日を迎えると65歳となる。

我が家の生計は厚生年金、わずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして幸いにも、私たち夫婦はお互いに大病で入院することもなく、
歯だけはお互いに老化して、歯科医院で幾たびか治療を受けてきたぐらいであり、
私のこれまでの人生に於いて、60代の日々が初めて安楽な時期を過ごしている、
と深く思い重ねたりして享受してきた・・。
                   
         
私は定年した直後から自主的に平素の買物担当となった私は、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

こうした中で、一昨日の14日は市内にある都立『神代植物公園』を訪ねたりした。
そして高貴な女性のようなシャクナゲ (石楠花)、シャクヤク(芍薬)そして薔薇(バラ)などは、
下男のように見上げ、そして見惚れたりしたが、
幼年期に農家の児として育った私は、高嶺の華のような存在であり、
私が身に心も安らぐ雑木林に退散してしまったのである・・。
          

私の住む自宅の近くには野川が流れて、川沿いには遊歩道があり、
上流に向かい45分ばかり歩くと『深大寺』があり、隣接した所に都立の『神代植物公園』がある。
私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもある。

 
         
いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
入学した1958〈昭和33年〉の当時は、神代緑地として存在し、この周辺は雑木林、畑などであった。

やがて1960年(昭和35年)の春に中学校を卒業した後、
確か翌年の1961年(昭和36年)の秋に、拡大と整備され上、
神代植物園と改称して、都内唯一の植物公園として開園された・・。
          

この間の私の中学時代は、自転車で通学し、ときおり開園前の雑木林の中とか周辺を下校の時などに、
学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

          
そして私が心に迷ったりした時などは、樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。
          
          
私がこれまで生きてきたつ拙(つたな)い人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
かえで、花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思ったりしている。
                                   

過ぎ去り年、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の初秋、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、小学高学年より映画少年であった私は、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退することを決意したりした。

そしてケヤキ、コナラ、クヌギ、エゴノキ、コブシ、アカマツ等の中、下草としてアズマネ笹が、
彩(いろど)る中を彷徨(さまよ)うこともあったりした。

やがて私は結婚して2年が過ぎた33歳の頃、私の生家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物公園にも訪れたりしていた。
          

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
それぞれ花咲く時期、梅、或いは椿、そして桜などを観ながら、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、
呑んだりしたことが多かったりした。
          

やがて私が50歳代になると、会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、独りで通ったりしていた。
          

そして私は定年退職後の年金生活に於いても、独りで四季折々に訪ねてたり、
或いは家内と共に行ったりしている。
          
          

私は結婚前後の5年を除き、今住んでいる地域は65年近く過きているが、
心のふるさとの原景は家の周辺に、かすかに亡き祖父、父の知人だった旧家の周囲に残っているだけである。

私は農家の児として生を受けたのは、1944年(昭和19年)の秋であり、
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父、父を中心に小作人だった人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。

そして一角には湧水があり、生家の田んぼが拡がる中、小川が流れたり、
蓮(ハス)の専用もあったりした。
母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。

こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
          

やがて私が小学生2年に父が病死し、この翌年に祖父も死去し、
生家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、住宅街となった。
そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。

こうした中で、私が農家の児として育った原景は、殆ど消え去ってしまった・・。
          
こうした思いのある私は、愛惜を重ねるように、都立『神代植物公園』の園内を歩き廻ったり、
雑木林、かえで園の数多くのモミジ林などに身に心も安らぐひとつとなっている。
          
          
或いは近くにある『水生植物園』に行ったり、田んぼの情景、湧水を眺めたりして、
          
私が育った小学の低学年の頃までの情景を思い重ねて、見たりしている。

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