夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【下】

2016-01-19 18:15:12 | ささやかな古稀からの思い

2月12日
私たち夫婦は、紋別の市内に3連泊した後は、
次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動する為、
『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスを利用し、
やがてサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着した。

確か20数年前の頃の私は、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』のような処で、
数日のんびりと滞在することが夢のひとつであった。

しかしながらこの当時の私は、民間会社の中小業に勤めるサラリーマンであり、
多くの人と同様に多忙であり、とても静寂な地のリゾートホテルで数日のんびりと滞在することが、
叶(かな)わないことであった。

今回の旅路は、家内は紋別で3連泊して、流氷観光船に幾たびか乗船し流氷を満喫したい、
私は静寂なサロマ湖畔のリゾートホテルで3連泊したい、
このような発想が根源であった。

そして過ぎし年、サロマ湖の東岸にある『サロマ湖東急リゾート』は、
北海道の有力観光グループの鶴雅(つるが)グループに経営権は委譲されたが、
いつの日にか宿泊したい、あこがれを秘めた処でもあった。
       

予約した旅行代理店から、この『サロマ湖鶴雅リゾート』パンフレットを頂いた表紙には、
《、なにもない静寂
     なにもしない贅沢 (略)》
このようなフレーズが綴られ、私が念願していた思いと、ピツタリと微笑んだりした。

チエックインは午後3時過ぎであったので、予定通り家内と未知の周辺を散策したりした。
そして湖岸を少し眺めたりした。
       

やがてホテルの裏側は道路があり、奥地は山林となっていた。
       

この道路沿いを10分ぐらい歩き、左折した道路の前方には大きな橋があり、小さな漁港が視えたりした。
       
そして彼方にはワツカ原生花園にように思えたりした。
      

やがてホテルに帰還すると、早めの午後2時にチェックインして頂いた後、
指定された部屋は、昼下がりの陽射しで眩しく、
窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪していた・・。
       

やがて夕暮れ時には、落日の光景を窓辺の椅子から、私たちは鑑賞したりした。
       

2月13日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に初めて宿泊した私たち夫婦は、
私は朝の5時半過ぎに目覚めて、やがて窓辺のカーテンを少し開いた。
       

窓辺からの前方は湖面は氷結した上に、粉雪が積雪し、彼方の対岸は霧のようにぼんやりとしていた・・。

もとよりサロマ湖は、琵琶湖、そして霞ヶ浦に次いで3番目の大きな湖(みずうみ)であり、
北海道としては第一の広さとなっている。

広大なオーホーツク海とは細長い砂州によって境界となっているが、
二つばかりの小さな湾口を通じて、周囲72キロの広さオーホーツク海につながっている稀な湖(みずうみ)となっている。

そしてサロマ湖はこうした稀な形状の為か、カキ、ホタテ、ノリなどが養殖され、
湖岸に生息するサンゴソウは天然記念物として名高い。

数多くの訪れた人たちからは、サロマ湖の落日は美しく、
北国の清澄な空気を茜色(あかねいろ)に染めながら、金色の太陽が光を弱めて水平線に落ちてゆく、
情景が絶賛されてきた。

このようなことを思い浮かべたりしたが、冬のおだやかな晴れた朝、ものみな静寂・・、
と微苦笑したりした。
       

この後、私は10時過ぎに独りで湖岸を散策したりした・・。
       

       

       

やがて昼下がりになると、窓辺の左前方の空は暗くなり、右前方の空は明るさを残していた・・。
私は、まもなく雪雲(ゆきぐも)が到来して、粉雪が降るかしら、と思ったりした。

この後、まもなくして上空は暗さを増す中、風が吹き粉雪(こなゆき)が舞い降りてきた・・。
       

このような情景を眺めていた私は、館内の売店に行き、雪見酒とした。
           

私はぼんやりと茶碗酒を呑みながら、
雪が降りそうな暗い空は、確か雪気(ゆきげ)と称したよなぁ、と思いだしたり、
粉雪(こなゆき)は粉のように細かくさらさらと降る雪だった、
昨今の若き男女はパウダースノーとおしゃれに命名していたよなぁ、
とせんなきことを思い重ねたりしていた。

しかしながら、この後の旅先で私たち夫婦は、粉雪(こなゆき)に風が強く吹けば、
視界は遮(さえぎ)られて翻弄され、困苦することは、この時は予感もできなかった。


2月14日
サロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に滞在している夫婦は、
昨日の午後時過ぎより、粉雪(こなゆき)が舞い降り、やがて風も伴い視界も悪くなった・・。

こうした時の私たち夫婦は、指定された部屋でのんびり過ごしたり、
朝、昼下がり、夕方などは大浴場、露天風呂に行ったりし、
ときには館内の遊びの広場と称せられた体育館のような処で、
10数年ぶりに卓球の真似事をしたりした。

こうした中で私は独りで館内のロビーに、12日より滞在する中で、幾たびか通ったりした。

私は年金生活11年生であるが、午前中に買物専任者の責務を終えると、
やはり独りで自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩き廻ったりしている。

この後の大半は居間で過ごしたりすることが多く、
何かと随筆、ノンフィクション、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多い。

ときおり映画に関しては、20世紀の私の愛してやまい作品を居間にある映画棚から、
DVD、ビデオテープなどを取りだして、テレビを通して鑑賞したりしている。

或いは音楽を聴きたい時は、やはり居間にある音楽棚からCD、DVDなどを取りだして、聴いたりしている。
       
このような生活をしている私は、旅先の『サロマ湖鶴雅リゾート』のロビーに瞬時に魅せられた・・。


チェックインの時に気付いたのであるが、ロビーの一面に大きなスピーカーが置かれていたので、
スピーカーの名門のJBLの美しいフォルムと名高く、アンティークな大きなパラコンが置かれていたことに、驚いた。
       

そして私は、オーディオファンの誰しもが知っているマッキントッシュの構成で、
それぞれの音楽が奏(かな)でられていたことに魅せられた・・。
       

       

たまたま私は、現役サラリーマン時代はあるレコード会社に35年近く勤めた為か、
知人にはオーディオファンの方も多く、私は勤めて6年間の頃まではオーディオの初級まで熱意したが、
この後は家のローンの返済であえなく敗退し、昨今はCDラジカセで聴いたりしている身となっている。

そして所有しているレコード、CDを知れば、本と同様にそのお方の思考が解ると思っている私は、
私はこの突出したオーディオ装置の壁面の一面のソフトを拝見したりした。

この後、フロントのスタッフから、このオーディオ装置は、
このリゾートホテルを含め道内に多くの観光ホテルを経営している鶴雅(つるが)グループのオーナが、
ご自身のあふれる熱意で購入された、と教えて頂き、良きご趣味ですねぇ、と私は微笑みながら言ったりした。

このロビーには、大きな薪ストーブが設置され、幾たびか薪が燃やされている状況を私は見たりした。
もとより館内は大型の冷暖房完備しているが、特に薪の爆(はぜ)る音は、羨望させられたり、
この世の最上な贅沢なひとときを享受したりした。
       

       


そしてロビーには幾つかの彫刻作品が置かれていた。
私は彫刻の世界は全く無知であるが、この中のひとつに瞬時魅了させられた・・。
            

うつむく少女、と私は勝手に名づけてしまったが、近寄って見たら『少女』と命名され、
私は微苦笑させられたりした。


2月15日
私たち夫婦はサロマ湖の東岸にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に3連泊した朝、
次の宿泊地の網走湖の湖畔にある観光ホテル『網走湖荘』に向かう準備を終えた。

そして朝食前に館内にある売店で、大きな旅行ケースを宅配便で自宅に送付する為に手続きをしたりした。

次の網走までは、私たちがこのサロマ湖まで来た『エクスプレスバス』を活用すれば、
『サロマ湖鶴雅リゾート』13時45分・発に乗車し、やがて網走の『おーろらターミナル』14時35分・着で、
わずか50分たらず近い道のりである。

しかしながら私たちは早めに網走に行って、網走湖の湖畔にある『網走湖荘』の付近で、
冬のイベントのひとつの『あったか網走』で、熱気球などに乗って体験したい為に、
当初よりコースを改定していた。

『サロマ湖鶴雅リゾート』よりホテルの送迎車でJRの『北見』駅まで行き、
その後は10時45分・発の各駅列車で『網走』駅に11時46分・着、
そして駅前より網走湖荘』まで路線バスで行く、予定を立てていた。


やがて8時半過ぎにチェックアウトをして、お世話になったホテルに別れを告げた。
       


そしてホテルのご厚意の送迎車に私たち夫婦は乗車し、たまたま同乗したは若き20代のご夫婦であった。
湖畔は粉雪(こなゆき)が降り続け、ときおり風も伴い視界も悪くなった・・。

まもなく9時にホテルを出発し、同乗した若きご夫婦と談笑する中、
北見市にお住まいで、平素は自動車を利用しているが、このような暴風雪は怖くて・・
と若き男性は私たちに言ったりした。
       

送迎車を運転して下さる方は、50代年配の男性で、大半は除雪されていた道路を疾走してくれたが、
路肩に除雪された粉雪がうず高く小山となり、この除雪された粉雪は風が吹くと舞い上がり、
前方の道路の視界を遮(さえぎ)ったりする。

或いは付近の平地の積雪している粉雪も、風で舞い上がり、道路の視界を遮(さえぎ)ったりしている。

私は運転して下さる方は、『暴風雪のようで、運転するも大変ですね』
と言ったりした。

『このような悪天候は慣れていますが・・怖いは道路に人が突然に出てくることです・・視界ゼロに近いですから』
と運転して下さる方は、私に言ったりした。

私たち夫婦は北海道の冬の旅路は幾たびもしてきたが、このような長く視界ゼロのような状況は、
初めて経験した。

やがて運転して下さる方の技量で、予定通り10時にJRの『北見』駅前に到着した。
そしてそれぞれお互いに、お気を付けて・・と別れを告げたりした。


『北見』駅の待合所の告知には、石北本線の各駅列車は全面運休、と表示されたりした。
もとより石北本線は道内の北の中心地の旭川市、そしてオホーツク海の玄関口の網走市を結ぶ幹線である。

私たちが乗車する10時45分・発~網走駅・11時36分・着も、もとより運休となり、
『札幌』発、『旭川』経由『網走』まで疾走する『特急オホーツク』列車だけが運行となっていた。

そして私たちは、『北見』11時57分・発の『特急オホーツク』で、『網走』12時46分・着、
このように切り替えた。

そして私は構内、待合所をうろついたりして、『特急オホーツク』の到着を待ちわびた。
       
        ☆駅構内にあったボスターを記念に撮ったりした☆

やがて20分近く遅れて、『特急オホーツク』は、『北見』に到着した。
この少し前に改札となり、私は『北見』駅のプラットフォームを撮ったりした。
       

       

そして『特急オホーツク』は入ってきたが、前面は積雪がビッシリと付着していたので、
特に『旭川』から山間部の多く、更に暴風雪の中を奮闘した結果だった、と私は理解できたりした。

やがて『特急オホーツク』は、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、『美瑛(びえい)』そして『女満別』を停車した時、
運転席の前はワイパーが暴風雪で故障しまして、修理でお時間を下さい、
このような意味合いが車内放送に流れたりした。

『この特急は『札幌』を7時半近く発車して、悪天候の中、よくぞ力走してくれているょ・・
ワイパーだって・・壊れてもおかしくない暴風雪だもん・・』
と私は特急オホーツクの健闘をたたえて、家内に言ったりした。

やがて『特急オホーツク』は、遅延しながらも『網走』駅に到着した。

『網走』駅の構内は、数多く人出の中を私たち夫婦は通り抜けた後、
駅前の路線バス乗り場、或いはタクシー乗り場を探したりした。

しかしながら積雪があり、粉雪が降り続け、ときおり強風が吹く中、
一般自動車、路線バス、そしてタクシーも混乱している状況であった。

やむなくタクシー乗り場で待機していたが、肝心のタクシーが積雪15センチ前後の中、
スリップして動けず、私の前にタクシー待ちをしていた男性の掛け声で、
私たち男性6名がスリップしたタクシーの後部を、数分に及び何とか押し出したりした・・。

やがて私たち夫婦は、何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

結果としては、サロマ湖から網走まで近くて、遠い5時間の長い道のりとなってしまったねぇ、
と私は苦笑しながら家内に言ったりした。                             

しかしながら暴風雪に翻弄された私たち夫婦だったが、この後の翌日は更に大きく影響されるのである。


2月16日
私たち夫婦は昨日の15日には、網走駅前より暴風雪の中で何とかタクシーに乗れて、
積雪20センチ前後の中、網走湖の湖畔にある観光ホテルの『網走湖荘』に到着したのは午後2時過ぎであった。

やがてチェックイン後、予想したより大きな部屋に通されて、
私は煎茶を淹れながら、サロマ湖からの道のりには予想外のことが多くて、疲れたょ、と家内に言ったりした。

そして私は、家内の座っている前に煎茶の入った茶碗を置き、
『XXちゃんの楽しみにしていた『あったか網走』のイベントも中止になり・・熱気球も乗れなくて・・』
と私は家内に言ったりした。

家内は煎茶を飲みながら、このような悪天候になってしまって・・やむえないわ、と私に言いながら、
お互いに微苦笑したりした。

翌日の16日の朝の6時過ぎ、私は部屋の窓辺のカーテンを開けると、
網走湖は粉雪が降る中、風が吹き、粉雪は舞うような視界をさえぎったりしていた・・。
       

やがて8時半過ぎに、チェックアウトした時、予約していた9時発の網走行の送迎バス・・大丈夫ですよねぇ、
とフロントの方に私は確認したりしたが、明確な返答はなく、私は少し不安を増した。

私たち夫婦の予定は、このホテルからの9時発の網走行の送迎バスで、市内の道の駅『流氷街道網走』まで行き、
この館に併設されている流氷観光砕氷船の『おーろら号』11時・発のクルーズを1時間ほど乗船した後、
この道の駅『流氷街道網走』12時20分・発の路線バスで女満別空港に13時・着を予定している。

そして女満別空港15時・発の日本航空1188便に搭乗して、羽田空港16時55分・着を予約していた。


やがてホテルの9時発の網走行の送迎バスは、30分近く遅れて乗車でき、
市内の道の駅『流氷街道網走』に到着したのは10時少し前であった。

そして併設されている『おーろら号』の乗船売り場で、『おーろら号』は欠航と知った。
       

この後、観光案内所を見つけて、女満別空港・発の航空状況を確認して頂いた・・。
まもなく女満別空港の昨日は欠航便が多く、キャンセン待ちなどで130名前後の方たちが、
空港の待合所で一晩過ごされ待機されていた、と知ったりした。

そして私たちが搭乗する便が『欠航』が確定している、と教示されて、
私たちは困惑した。

私たちは幾たびに旅路をしてきた中で、搭乗予約している航空便が『欠航』は、初めて体験であり、
やはり女満別空港の日本航空の受付センターで、振替の依頼をしょう、と公衆電話で幾たびもしたが、
問い合わせが殺到しているらしく、連絡ができなかった。

その上に、女満別空港までの路線バスも『運休』と知り、
とりあえず館内の休息場でコーヒーを飲んだり、女満別空港の日本航空の受付センターに電話連絡したり、
或いは港から海を眺めたりしていた。
       

やがて女満別空港行きの路線バスは、運行を始められ、
私たちは乗車して、何とか女満別空港の日本航空の受付センターに着いたは13時半過ぎであった。

そして家内は受付センターで予約していた搭乗券(J席)を提出し、欠航の振替の依頼をした・・。
やがて満席続きで、搭乗できそうなプランは、2日後、と提示された。

私はこの後、網走湖畔の観光ホテルに連泊しても、必ず確約ができなければ・・、
と受付センターの方に言ったりした。

やがて数分した後、旭川空港・発の明日の午後便でしたら、確約できます、と私たちは説明を受けた。

この女満別空港のJR最寄駅の『美瑛』駅に行き、やがて特急オホーツク号で『旭川』駅・着。
たとえば『美瑛』13時55分・発の場合は、『旭川』17時12分・着。
或いは『美瑛』14時44分・発の場合は、『旭川』18時04分・着。
このような意味合い表を頂き、やむえなく了承した。

そして旭川空港・発の明日の午後便の仮搭乗券を受け取り、
迅速に私たちは未知のJRの『美瑛』駅までタクシーに乗車した。

私は車内で、旭川の市内ホテルに一泊して、明日の昼まで旭川空港に着けば、夕方には羽田に帰れるょ、
と家内を慰めるように言ったりした。
タクシーは積雪のある道を疾走し、ときおり粉雪が舞う中、やがてJRの『美瑛』駅に到着した。


しかしながら駅の構内の告知板では、『全面運休』と表示されていた。
家内は驚きながら窓口の担当者に、特急も運休ですか、と訊(たず)ねたりした。
そして窓口の担当者は、お詫びの言葉を重ねたりした。
       

やむなく私たちは女満別空港まで引き返すこととしたが、駅前にはタクシーが一台もなく、
私は公衆電話でタクシー会社に依頼した。

結果として女満別空港とJRの『美瑛』駅をタクシーで往還し、
往復料金として6000円なってしまい、苦笑させられた。

やがて日本航空の受付センターに私たちは舞い戻ると、
先ほどの受付センターの麗(うるわ)しき女性が、恐縮した表情で待ち構えていた。

『あれからまもなくしまして、JRの石北本線は全面運休と知りまして・・大変ご迷惑をお掛け致しまして・・
遅ればせながら本日の20時20発の最終便に、何とか2名様が確保できまして・・』
とこのような意味合いの言葉を言いながら、家内に指定された搭乗券(J席))を手渡したりした。

この後、私は当初予定していた15時発が、20時20分になってしまったが、
予約していた通りの少しゆったりと座れるJ席で良かったじゃない、と家内に言ったりした。

この後、空港内の食事処で、遅い昼食を注文できたのは14時半過ぎであった。

やがて待合所の椅子に座ったのは、15時過ぎであり、この後5時間近く待たされ、
私は本を読んだりしたり、ペットボトルの煎茶を飲んだり、
或いは愛煙家の私は喫煙室に行ったりしていた、

家内は空港内の名店で買物をしたりしていたが、
やはり5時間は余りにも長く、ときおりお互いに微苦笑したりしていた。

こうした中で、もしも新千歳空港で長らく待機するだったら、
入浴、休息できるクワハウスを利用し、安楽なひとときが過ごせたのに、
と私はユーモアを含めて家内に言ったりして笑わせたりした。

或いは私は大きく掲げられた運航状況の告知電子版を観たりした。
そして私たちが搭乗する便が、確か空港測定中、という表示が消えず、私は不安を増したりした。

私は濃霧で離発着できない、或いは粉雪が暴風雪となり滑走路などで離発着できない状況を思い馳せたりし、
何かと平素はプラス思考の私は、ここ二日間の出来事を思い浮かべれば、弱気になったりした。

やがて私たちが搭乗する航空機は、予定時20時20分を30分ばかり遅れて女満別空港を離陸した。
           

そして羽田空港に23時近くに着陸し、やがて私たちは疲れ果てていたので、
タクシーに自宅に向かった。

ときおり旅路の帰路にはタクシーを利用することもあったが、
こうした帰路は環状7号より世田谷街道から帰宅したりしている。

今回は旭川のホテルに泊まったつもりで、都心の夜景見物を兼ねて、
首都高速を通ってもらい、やがて我が家に着いたのは24時の真夜中であった。


このような昨年の冬の私たち夫婦の遊学した旅路であったが、今年は家内は家内の母の介護に伴い、何かと多忙となり、
冬の私たち夫婦の旅路が定まることなく、私はうつろな思いで、のんびりと何処か旅行に行けるのは、いつごろになるかしら、
と苦笑したりしている。

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北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【中】

2016-01-19 15:23:28 | ささやかな古稀からの思い
2月9日(月曜日)

私たち夫婦は羽田空港に行き、全日空の『紋別空港』行きに搭乗手続きを終え、待合所に移動しのは午前10時であった。
しかしながら私は不安を秘めていた・・。

『羽田空港』と『紋別空港』の飛行機便は、日にたった全日空の一便の往復路だけで、
たとえば私たちが搭乗するは、『羽田空港』は10時30分発、『紋別空港』は12時20分着、
となっている。

もとより『紋別空港』は道内の空港としては、新千歳、旭川、函館、釧路、女満別、帯広よりコンパクトで、
稚内、中標津と同等の空港と私は感じたりしていたので、特に冬の天候異変多い季節に予定通り運航ができるかしら、
と危惧したりしていた。


私たち夫婦はⅠ月中旬に、クラブツーリズムの主催する北見市の郊外に温根湯温泉のある観光ホテルに4泊5日滞在する、
格安のフリープランに参加した・・。

そして私たちが搭乗する航空便は、羽田空港・12時35分・発===>女満別空港・14時20分・着、
日本航空1189便であった。

こうした中で、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返しすこともあります、
と付帯条件で、航空券を受け取ったりした。


こうした付帯条件を聞いたりした後、
私たち夫婦は昨年の函館市の郊外にある湯の川温泉の旅路の出発日の時を思い重ねたりした・・。

航空券を受け取る時、何かしら前日の函館空港の風雪により、欠航便、遅延便の影響もあり、
羽田空港・発10時35分で函館空港・着11時55分の全日空853便は、
3つのフライトプランを提示されたりした。

①函館空港・着陸が不可能で、羽田空港に引き返し、改めて函館空港行きの航空便を検討します。

②やむなく新千歳空港に着陸して、その後は何らかの方法で函館市に行きます。

③予定通り、函館空港・着陸します。

この3つのフライトプランの説明を受けた私たち夫婦は、
このようなことは初めてだよねぇ、と私は戸惑いながら家内と話し合ったりした・・。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を離陸できたが、
機内でも、3つのフライトプランが客室乗務員の方から報じられ、
この中のひとつの羽田空港に引き返した場合、
旅行気分の高揚感は吹き飛ばされ、余りにも惨(みじ)めだよなぁ、と私は不安が増したりした。

その後、函館空港に予定着陸時間の20分前頃に、
機長、そして客室乗務員の方から、
予定通り函館空港に着陸します・・お客さまには大変ご心配をお掛けしました、
と告知されて、私を含めて周囲の方たちも安堵の表情と言葉を重ねたりした。

やがて白い大地が観えて、函館空港に着陸態勢となった。

          
            この後、食事処の窓辺から観える空港の滑走路、小雪降る中で風が伴い、小雪は横殴り舞っていた・・。

          

このような体験をしてきた私たち夫婦は、今回の場合でも多少し遅れても女満別空港に着陸できるょ、
と私たちは言葉を交わしたりした。

やがて予定時に航空機に搭乗できて、羽田空港を30分ぐらい遅れて(私は寝ていて正確には不明)離陸できた。
40分過ぎた頃、機長から、女満別空港は雪が降っていて着陸が不可能の場合は、羽田空港に引き返し場合もあります、
と機内の客員に報じられたりした・・。

そして下北半島と北海道の南端が視(み)えた頃、
機長から、女満別空港の除雪はしていますが、滑走路の路面が滑りやすい状況でありますので、
残念ながら羽田空港に引き返します、と機内の客員に報じられたりした・・。

やがて機内の数多くのスクリーンには、本州の上部の下北半島から三陸海岸、そして関東地域の航路が映し出されて、
私たちが登場している航空機がユータンして、羽田空港を目指している白線が明示されたりした。

私たち夫婦はスクリーンを視(み)ながら、
『こうした出発地の羽田空港に引き返すこともあるんだぁ・・
スゴロクみたいだよねぇ・・』
と私は落胆を秘めながら、家内に小声で言ったりした。


その後、私たちが搭乗している航空機が、羽田空港に着陸した。

やがて到着ロビーの片隅に、クラブツーリズムの担当者が待機して下さり、
今回の温根湯温泉4泊5日のフリープランに参加した20数名の私たちに、
旅行の中止、そして旅費の全額を返金の連絡を受けたりした。

私たち夫婦は今回の参加されたメンバーを始めて知ったりしたが、
家内は、この中のひとりの60歳前後のご婦人と、
『飛行機が引き返して、旅行が中止になったは、初めてですわ・・』
このような意味合いの言葉を交わして、お互いに微苦笑したりしていた。

この後、私たち夫婦は食事処で、遅い昼食した。
『旅行の中止・・何かしら・・力が抜けてしまうよねぇ
今回は太平洋側の下北半島と羽田空港・・無料ご招待の往復の遊覧飛行のようになってしまったねぇ』
と私は家内に言ったりした。

やがて、今回の旅路も宿泊先に大きな旅行ケースを宅配便で送付したので、
宿泊先にお願いして、旅行ケースを到着払いで送付依頼をしょう、
と私たちは話し合ったりした。
            

このような苦い体験をしたりしたので、今回の『紋別空港』は何とか着陸して欲しい、と念願したりした。


幸いにも機長、客室乗務員の行いが良かったらしく、私たちが搭乗した全日空の飛行機は、
『紋別空港』に着陸体制し、やがて予定時に着陸した。

そして到着ロビーの混雑する中で、空港から紋別市内まで無料送迎バスを見つけて、
私たちは乗車した。

この無料送迎バスは、飛行機の到着に合わせて、『海洋交流館』にあるガリンコ乗場、有力な宿泊『プリンスホテル』、
私たちが宿泊する『セントラルホテル』などを利便性のある運行路と解ったりした。

やがて車窓からは海辺が視(み)えたりしたが、流氷はなく蒼い海上が広がっていた・・。

こうした中で、同乗していた女性グループのひとりが、バスのドライバーさんに、
『流氷・・全然視えませんが、明日ごろに見ることができますか?』
と訊(たず)ねられたりした。

『流氷は数週間前に観えましたが、沖に向い強い風で、20キロ先の海上に流れまして・・』
とバスのドライバーさんは、苦慮しながら大きな声で返答したりしていた。

私は流氷は気候の神々のきまぐれ采配に寄り、
時には沖合から陸地に向い、烈風が吹けば、見ることはできる、と思いながらも、
やはりオホーツク海上の流氷を視たく、この紋別に滞在する3日間で、4回ばかりガリンコ号の乗船予約をしたりしていた。

やがて市内にバスは入り、私たちは宿泊する『セントラルホテル』前で下車した。

そしてフロントでチェックインした後、4日前に自宅から宅配便で送付した大きな旅行ケースを受け取り、
私たち夫婦が指定された部屋は、最上階の客室だった為か、海上の視界に恵まれた・・。

過ぎし日に家内は、紋別の市内の『プリンスホテル』か『セントラルホテル』と懸案した結果、
海上の景観が良いと思えて選定してきた上、部屋も程ほど広く、私たちは思ったよりもよかったねぇ、と微笑んだりした。
          


この後、私たちは『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かった。


私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』で少し休息した後、
『海洋交流館』にあるガリンコ号の『サンセット・クルーズ』に乗船する為に、
ホテル前で乗車できる路線バスに乗り、向かったのは午後2時半過ぎであった。

紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』は、流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、
流氷観光ができる砕氷船として名高い。

深紅の船体とアルキメディアンス・スクリューと称せられる巨大な2本のドリルで、
現代は二代目で、数多くの流氷を観光する人々に好評されている砕氷船でもある。
       
       ☆ 初代のガリンコ号は、『海洋交流館』の前の広場に公開されていたので、
         翌日の10日に私は撮った ☆

そして現代のガリンコ号は、『ガリンコ号Ⅱ』として命名され、砕氷能力も向上させ、
観光客も多く乗船できる砕氷の観光船として、この2月には朝のサンライズ・クルーズとして午前6時より、
夕暮れにはサンセット・クルーズとして午後4時10分より、出港されて、45分前後流氷観光ができる。

この間の日中には、5便が流氷クルーズとして活躍されている。
       
       ☆ 現代の『ガリンコ号Ⅱ』は、翌日の10日に私は撮った ☆


こうした中、私たち夫婦は紋別市に着いた初めて夕暮れに、サンセット・クルーズに乗船した。

そして流氷の大群は沖合の彼方に遠ざかってしまっていたが、防波堤の一面には残っていた所もあったりした・・。
       


このオホーツク海の流氷は、流氷が発生するロシアの沿岸に於いて、
真冬に大陸から北西風の烈風下でマイナス40度以下になり、
更にシベリア大陸の4350キロに及ぶ大河のアムール川から大量の真水がオホーツク海に流れる。

そしてオホーツク海の表面から50メートルの深さに、塩分の薄い水の層ができ、
これにシベリアおろしの寒風にさらされて氷結される。

やがて3月にはオホーツク海の80%前後が凍てつく、
こうした中で知床半島の岬からウトロ、斜里、網走、湧別、紋別、果ては枝幸、宗谷岬まで、
一月の中旬から3月初旬まで流氷が到来することもある。

しかしながら寒気、烈風で飛ばされたり、寄せあったりするので、
このように学んできた私は、流水は天上の気候の神々に寄るきまぐれな采配に寄る、と思い深めたりしてきた。

このように思いながらも海面に残る夕陽を受けた流氷を眺めたりした・・。
               

やがて夕暮れは終わり、私は彼方の山なみを眺めたりした。
       

そして海面に照らす陽の残照を長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちが乗船した『ガリンコ号Ⅱ』は、帰港に向かった。

下船した私たちは、海洋交流館の隣接した所に、この時節には『流氷まつり』が開催され、
イベント時間が終えた暗い中、メイーンステージだけが光帯びていた。
       

この後、私たちは市内にある居酒屋に、タクシーで向かった。
タクシーのドライバーさんに、評判の良い居酒屋さん、と私は言ったりした。

やがてお値段の程に味は悪く、ホテルに帰還した後、失敗だったねぇ、と私は家内に言ったりした。

そして窓辺から夜の港の情景は美しく、旅路に来たことを実感を深めたりした。
       

2月10日
私たち夫婦は紋別市の『セントラルホテル』でバイキング形式の朝食を頂いた後、
指定された部屋に戻った時、
『蒼い海ばかりなので・・ガリンコ号の予約、キャンセルしましょうか?』
と家内は私に言ったりした。

家内は紋別に3連泊し、紋別港から流氷探検が出来る『カリンコ号』で、
流氷原を巨大なドリルでガリガリと砕きながら進みながら、流氷観光ができることを夢想を重ねて、
過ぎし3か月前に旅行代理店に予約していた。

到着日の昨日の9日には、午後4時10分より、夕陽と陽が沈む『サンセット・クルーズ』
本日の10日には、午後1時30分より、日中クルーズ
明日の11日には、早朝の午前6時より、朝焼けと日の出を観る『サンライズ・クルーズ』
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より、日中クルーズ

このようなガリンコ号で流氷観光をすれば、朝昼夕の流氷の情景が受容できるわ、
と思い続けてきた・・。

私も昨日の9日に到着日した時に、流氷の大群が沖合20キロ以上に遠ざかってしまった現状に、
呆然としながら、タクシー・ドライバーさん、そして居酒屋で客の漁師の方たちと談笑したりした・・。

そして私は秘かに、沖から陸に強い風が吹けば、流氷は港に近づいてくる、と念願したりしていたが、
数日はこの気候では無理でしょう、とそれぞれ方から苦笑されたりした。
       

結果的には、昨日の9日には『サンセット・クルーズ』に乗船でき、
紋別の最終日の12日には、午前10時30分より日中クルーズに乗船して、
あとはキャンセルすることにした。

私たち夫婦は、ホテル前より路線バスを活用して、『海洋交流館』に向かったのは午前9時半過ぎであった。
そして当初の予定通り、ガリンコ号の乗り場に隣接し、沖合に突き出した『オホーツクタワー』に向かった。
       

この『オホーツクタワー』には、ガリンコ号の前に電気の可愛らしい移動車で往還したが、
肝要のタワーは地下三階ぐらいの海底の魚介類が、窓越しから鑑賞できるが、私たち興味がなく、
海上を展望できる処から、蒼い海面を眺めたりしていた。

この後、当初の予定通り『海洋交流館』から徒歩10分ぐらいにある『流氷科学館』に向かった。
そしてどんよりとした曇り空の中、ときおり風が吹き付けていたが、
私たちは談笑しながら歩いたりした。
       

やがて先ほどにいた『海洋交流館』が遠望となり、私はこうした状景は心身波長に合ったりした。
       


『流氷科学館』に入館したが、クリネオなど展示には微笑んだりしたが、
マイナス20度の厳寒体験室が有り、入口には防寒着が無料貸し出しがあり、
家内は利用させて頂いた。

しかしながら私は身に着けている防寒着で入室したが、
鈍(にぶ)児の為か、寒さを感じることなく、退出後に家内と再会した時、
扇風機などで風を発生させれば、体感温度は低下して寒いょ、と私は苦笑しながら、家内に言ったりした。

この後、一階の軽食処で私たちはコーヒーを飲んだりした。
やがて家内は隣接したコーナーで、地産のケーキのようなおしゃれな食べ物を10ぐらい買い求め、
私たちは滞在している市内ホテルに帰還した。

この日の夕食は、ホテルの食事処で頂き、私たちはそれぞれ単品で9品を選定したが、予想した以上に美味であった。
特に家内は刺身系のマグロ、ホタテ、そしてトマトの三杯酢サラダ、
私は刺身系のほっき貝、イカなどであり、焼魚のホッケ、ニシンの開きも良く、
お値段以上に遥かに美味しかった、と私たち夫婦は魅せられて、翌日の夕食も予約したりした。

2月11日
紋別市の『セントラルホテル』で目覚めた私は、ぼんやりと窓辺のカーテンを少し開けると、
朝焼けの情景に長らく見惚(みと)れたりした。
       

やがて私たちの指定された部屋は、客室としては最上階の7階で窓辺から景観は良かったが、
何かしらこのホテルの屋上には、展望フロアーとなっていたことを思い出して、
私は部屋着の作務衣の容姿で、デジカメを持ち展望フロアーに行った。

少し暗い中、日の出まえの30分前の時間帯だった為か、人影もなく、
私は海上を見つめて、見惚れたりした後、記念に撮ったりした。
       

       

この後、私は指定された部屋は戻って、日の出の時間を待ちわびたりした・・。

やがて6時半過ぎに、再び展望フロアーに行くと、宿泊されている50名前後の方たちは防寒着で身を固めて、
それぞれ海上から上昇する陽を眺めたりしている。
       

私は何かと単細胞なので、翌朝には指定された部屋の窓辺から、日の出の情景を撮ったりした。
       

日中のひととき、私たち夫婦は『海洋交流館』に路線バスで向かった。
そして隣接した所で、この時節は『流氷まつり』が開催され、
特に本日は祭日で、多く市民の方たちでにぎ合う、と思われた・・。
       

やがてメイーンステージに於いては、『沖揚げ音頭』など郷土芸能が行われたりした。
       

この後、大漁祈願祭として『流氷もちまき』が実施され、10数名方たちがステージの上から、
大量の紅白の餅が撒(ま)かれた・・。

もとより市民の方たち、観光客も加わり、盛会となった。
そして家内も加わり、10数個の紅白の餅を微笑みながら、
『家に帰ったら、頂くわ』
と言いながら私に見せたりした。

この後、付近にいた小学生らしい女の子が、餅を拾い損ねたらしく、
家内は手持ちの紅白の餅を半分ほど手渡したりしていた。
       


2月12日
3連泊した紋別の最終日の朝となり、私は大きな旅行ケースをチェックアウトの時、
曳(ひ)いたりした。

私たち夫婦は、次の宿泊地はサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に移動するが、
この道内には、『エクスプレスバス』と称せられた移動に利便性のある観光路線バスがある。

私たちが活用した『エクスプレスバス』の観光路線バス・コースは、
層雲峡温泉の各ホテルを巡回して7時50分に発車し、
やがて紋別の各ホテルを巡回して10時5分に発車するので、私たちは乗車し、
まもなく『海洋交流館』の前に10時15分に到着する。
       

そして隣接したガリンコ号の10時30分~11時30分近くクリーズを満喫した後、
『海洋交流館』の前を11時45分に発車し、
やがてサロマ湖にある『サロマ湖鶴雅リゾート』に13時に到着する。

宿泊地から次の宿泊地まで、大きな旅行ケースをバスの車内に預けたまま、
この間に有力な観光めぐりができ、自動車の運転免許を放棄した私は、
もとよりレンターカーも利用できないので、この『エクスプレスバス』の利便性を利用させて頂いた。


やがて私たちはガリンコ号に乗船して、紋別港を出港した。
       

まもなく大きな入江となった彼方に見える市内に、私は別れを告げたりした。
       

そして少しばかり残った流氷にも、別れを重ねたりした。
       

                                    《つづく》
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北海道の道東地方、暴風雪の襲来を知り、やがて昨年の冬の旅路を思い馳せて【上】

2016-01-19 12:52:59 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
午前9時過ぎに、ネットで天気情報を見ようとしていたら、
『時事通信』に於いて、【北日本など猛吹雪警戒=低気圧、北海道付近へ―交通の乱れ注意】
と見出しされた記事を読んだりした。

《・・低気圧が急速に発達しながら北海道の太平洋側へ進み、19日午前は北日本(北海道と東北)のほか、
北陸から九州北部の日本海側を中心に雪や雨が降り、太平洋側も含めて沿岸部で強風が吹いた。

低気圧は20日にかけて動きが遅くなり、冬型の気圧配置が強まる。
気象庁は猛吹雪や大雪、暴風、高波に警戒するよう呼び掛けた。

JRは山陽新幹線が三原―博多間の徐行運転のため遅れ、山陰線が一部区間で運転を見合わせたほか、北陸線も一部運休や遅れが生じた。
北海道では札幌発着の特急が一部運休。
日本航空と全日空は、北海道や東北各地の発着便を中心に、午前7時半現在で計73便の欠航を決めた。

北海道の20日にかけての最大瞬間風速は45メートル、波の高さは9メートルの見込み。
20日午前6時までの24時間予想降雪量は多い所で、北海道120センチ、北陸100センチ、東海80センチ、東北60センチ、
関東甲信と近畿、中国に50センチ、四国30センチ、九州北部20センチ、九州南部10センチ。

その後21日午前6時までの24時間降雪量は、北海道と東北、関東甲信で40~60センチと予想される。・・》

このように報じられていたが、都心では昨日の積雪5~10センチとなり、私鉄、JRは運休、遅延などで、
通勤される方たちを中心に、乗車する方たちは乗車制限などの混乱の中、困苦を強いられた、とニュースで私は知ったりした。

今回の記事を読み終わった後、各地方のお住まい方たちは、くれぐれも被害に遇われないよう、お身体をご自愛して下さい・・
と祈願したりした・・。

やがて私は、猛吹雪や大雪、暴風、高波など何かと気弱な私でも、何かと冬の旅路を重ねてきたで、
昨年の旅路を思い馳せたりした・・。
            

私たち夫婦は国内旅行が共通趣味で、何かと北海道の旅は心身波長に合い、幾たびか旅路を重ねてきた。

こうした中で、一昨年の晩秋の時、オホーツク海に面した流氷に再会したいね、と話し合ったりした。
そして昨年の2月中旬の頃に、オホーツク海に面した街の海岸に流氷が到達する時期に、
旅路の立案をし、旅行代理店に予約した。

私たちは道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、数えるばかり少ない。

確か14年前の2001(平成13)年の2月に、前年に勤続30年の特別休暇を頂いたので、
これを活用して、私はオーホックの流氷、家内は札幌の雪祭りを目的として、
私たち夫婦は4泊5日で周遊し、冬の北海道を初めて訪れた・・。
  

私たちは防寒着の厚手のフィールド・コートと軽登山靴で、
私の登山靴はマイナス15度、家内のマイナス30度に耐えられる登山靴で、
そして私の帽子は山岳用を愛用し、家内はマフラーを被れば大丈夫という容姿で、出かけたりした。

この時の旅はJALストリーズの旅行会社を利用し、
空港から宿泊地の観光ホテルなどの利便性のある観光バスを活用した。

女満別空港に下り立った私たちは、この旅行会社の指定バスに乗り込み、
わかさぎ釣りなどされている網走湖の情景を車窓から観たりした。

そして予約していた網走港から氷海航行の『おーろら号』は、
風の為に欠航となり、私は落胆をしながら小高い山頂にある『オホーツク流氷館』に行き、
私たちは鑑賞したり、酷寒の寒さを少しばかり体験をしたりした。

この後、網走の郊外の能取岬の途中にある二ツ岩の海岸に接した観光ホテルに2泊した。

この海岸には数日前に流氷は接岸し、海辺には流氷の欠片が幾重にも見えたが、
流氷は遥か海上の沖に去っていた。

やむなく夜のひととき、空を眺めたりしていると、
夜空に満天の星、そして月が煌々と光りおびて、
マイナス15度前後であったが、寒さより確固たるまぎれもない美に見惚(みと)れた。
私は、月冴(さ)えて・・かょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
            

翌日、流氷の接岸を待ちわびたが、無念ながら海上の彼方に遠のき、
予約していたノロッコ号の列車で、網走駅より斜里駅まで乗車し、私は海辺を観たりしたが、
冬晴れの中、浪間は光り、蒼い海となり、
流氷はどこに行ったのょ、と苦笑を重ねたりした。

やがて終点の斜里駅で下車した後、私たちは路線バスを利用して、
知床半島の付け根のウトロまで、ひたすら流氷を求めて行った。

そしてウトロの数キロ前の峠道で、車窓からは海上を流氷の一面となり、圧倒的な流氷の荘厳な光景が観られ、
やがてウトロのバス停で下車した。

その後の私たちは、海岸付近は積雪50センチ前後の中を歩き、
海上の流氷を眺めたりした。

やがて突然に一角が平地となって、『知床ファンタジア』の会場と解ったが、
昼の一時過ぎは閑散としていた。

そして私の悪い癖のひとつであるが、会場の外れで記念として、
流氷を眺めながら、オシッコをしたりした。

その後、海岸付近と思われる雪の中を一時間ばかり歩き回り、一般道に出た時、
道路の補修をされている6人の方たちから、
なんて物好きの夫婦もいるなぁ、このような視線を私たち夫婦は受けたりした・・。

私たち夫婦は厚手の冬ズボンはもとより、厚手のフィールド・コートまで雪まみれとなり、
マイナス10度前後の中、更に微風の吹く寒さを増す中、
父親か母親の熊のように歩き廻っていたのだから、
地元の方たちから苦笑されても致しがたい、と私は納得したりした。

この後は、網走駅から札幌駅まで日中のひととき、念願の特急列車で移動した後、
小樽の市内を散策したりした後、シティホテルに宿泊した。
そして街並みを散策した後、小樽を昼過ぎに別れを告げ、雪祭りの前日の札幌に移動した。

そして網走の外れ、網走駅、斜里駅、小樽駅などの情景を観てきた為か、
札幌駅、周辺の広大さに、改めて実感させられた。
こうした思いも重なり、札幌の街並みを歩き、『さっぽろ雪まつり』の前夜祭を観たした。

この時、どんよりとした曇り空で根雪もあり、家内は寒いというので、
ロシア物産の即売店で、ロシア婦人が被(かぶ)る帽子を買い求め、今日も愛用している。

そして郊外の豊平川を見下ろせるシティホテルに宿泊し、
翌日は快晴の中、 『さっぽろ雪まつり』の初日の情景を観たりした。

やがて付近の自衛隊の基地でも雪まつりに協賛した祭りがあると学び、
私たちは地下鉄の南北線の『自衛隊前』駅で下車して、
自衛隊の貴地は私たちような国民にも、この祭りの時は解放されていた。

そして自衛隊の歴史の歩みなど多々教示させられたが、
何よりも魅了させられたのは、若き10代、20代の溌剌とした自衛隊諸兄諸姉の言動であり、
私は圧倒的に好感した。

やがて、札幌の市内の中心街を散策したりして、その後は、予定通り新千歳空港に行き、帰京した。
            


この後2002(平成14)年の12月になると、家内と年末年始の旅行のことで話し合ったりした。
私は前年の能登の輪島温泉滞在で、程ほど高価な費用を払ったのに、と苦い思いでがあり、
ためらったりしていた・・。

この当時の私は、定年退職は2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ1年10カ月前であった。

こうした時、通販の旅行会社のクラブツーリズムから送付されてくる小冊誌に於いて、
『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』と題した、団体観光ツアーがあった。

何かしら大晦日の31日の早朝、羽田空港に集合して、午前10時過ぎに釧路空港に着陸した後、
バスで釧路湿原を通り過ぎ、屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞した後、紋別に宿泊する。

そして翌日の2003(平成15)年の元旦の朝、稚内を目指して、
オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着した後、
日本の最北端の駅である稚内駅を観たりし、高台にある神社に初詣し、市内のシティホテルに宿泊。

そして翌日の2日、札幌を目指して、日本海を眺めながらバスは南下し、千歳空港から帰京するプランであった。

こうした風変わりな周遊観光コースであり、格安なプランであるので、
二度と企画されないかもしれない、と私は家内に言ったりし、参加したのであった。
       

大晦日の31日、羽田空港に早朝に集合時間であったので、
私はタクシーを予約して、暗い中、自宅を4時に出て羽田空港まで利用した。

そして、厳冬の屈斜路湖、摩周湖の雪の情景を鑑賞したが、私たちはそれなりの防寒服を着たりしているので、
マイナス10度ぐらいは心も身も順応できていたので、微笑んだりしていた。

少し驚いたのは、紋別に宿泊する前、蟹(カニ)食べ放題の夕食となり、
私は地酒を呑みながら、それなりに奮闘して頂いたが、
やはり蟹は毛蟹を一杯だけ頂き、ゆっくりと熱燗の地酒を呑むのが良い、と感じたりした。

そして、宿泊のホテルの部屋に戻ると、
テレビで紅白歌合戦の番組の中で、中島みゆきさんが『地上の星』を唄っていた・・。
後年、伝説となった黒部の極寒の坑道の中で、唄いあげたシーンであった。

私はファンのひとりであったので、この夜の夢は何故かしら、
みゆきさんが女神のように、私の方を見ながら微笑んでいた。
            

翌日の元旦の朝、稚内を目指して、オーホック海沿いの道をバスは長らく北上し、
私は冬の海の景観を眺めたりした。

そして宗谷岬に午後の3時過ぎ到着し、付近の海岸沿いを散策した。
この後、日本の最北端の駅である稚内駅を観たりした後は、高台にある神社に初詣をしたりした。

この後、付近の大きなクアハウスで湯船に入ったり休憩をした後、
市内のシティホテルに宿泊した後、
札幌を目指して、粉雪舞い降る中。日本海を眺めながらバスは南下した。

旅の終わりの寸前、郊外の厚く根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。

この後、私はまもなく中島みゆきさんが創られた『根雪』の歌が心の中で流れたりした・・。

私は音楽業界のあるレコード会社に勤めていたが、
1998年(平成10年)に業界全体の売上げピークとなり、デパート業界と同様にかげりが見えたりした。

この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。

こうしたことが札幌の街並みを眺め、♪いつか時が経てば 忘れられる あんたなんか・・、
思いだされてきたのである。

この当時の私は、やむなく業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいで、胸が熱くなった日々であった。
            

このように、道東地方のオホーツク海に面した地域の冬の旅路は、
わずか2回ばかりであるが、今でも心の片隅に残っている・・。
       

そして昨年の旅路は、紋別の観光ホテルに3泊、そしてサロマ湖のリゾートホテル3泊、
その後は網走湖の観光ホテル1泊とし、7泊8日となった。

こうした中で、紋別港から流氷探検が出来る『ガリンコ号』に乗船したりして、
荘厳な流氷を実感したり、念願のサロマ湖畔の情景、
そして旅の終わりとして網走港から氷海航行の『おーろら号』に乗船する予定としていた。

しかしながら人生航路と同じように、予期せぬ出来事が旅路でも遭遇する。
                                  《つづく》

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