夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

つたない半生を歩んだ私でも、定年後は隠居の身と感じたが、やがて老ボーイに変貌して・・。

2016-01-26 16:04:07 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住む71歳の身であるが、
今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

私の祖父と父は、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある東京郊外のよくある旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂い万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

兄ふたり妹ふたりでサンドイッチのように育った私は、私だけが通信簿『3』と『2』の劣等生で過ごし、
『お兄さんおふたりは・・成績は優秀なのに・・』
と私は通信簿を頂いた後、幾たびか職員室で担任の先生から言われたりした。
          

こうした中で、小学4年の頃から独りで映画館に行き、邦画に魅せられて、中学からは洋画にも魅了され、
これ以降は映画の愛好者のひとりなった・・。

やがて映画専門誌の『キネマ旬報』なども愛読し、シナリオにも関心をもち始めて、
映画の脚本家になりたくて、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に大学を中退した。

まもなく養成所の演出コースに入所して、アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたりした。
その後は講師の知人の新劇のある長老のアドバイスにより、
契約社員をしながら、小説を書き始めて、文学青年の真似事をした。

そして、習作に励んだりし、純文学の新人賞に応募したが、最終予選の6編の直前で3回ばかり落選し、
あえなく敗退し、挫折した。
          
その後は、何とか大手の企業に中途入社する為に、あえて苦手な理数系であるコンピュータの専門学校に一年通った後、
1970年〈昭和45年〉の春、この当時としては大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられ、やがてこのレコード会社で、制作に直接かかわらない情報畑、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
          

こうした中で、1998年(平成10年)に音楽業界全体の売上げピークとなり、
デパート業界と同様にかげりが見え、この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

私が勤めていた会社でも、先輩、同僚、後輩の一部の人が、 第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、リストラ烈風の中、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。

やがて私は何とか2004年(平成16年)秋に、出向先で定年退職を迎えることができたが、
敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。
          

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、
定年退職後の60歳以降は、私は働くことを卒業し、ささやかに年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれずたった2人だけの家庭であり、
厚生年金、わずかな企業年金を基盤に、程ほど貯金を取り崩しながら、
お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、と願いながら年金生活を開始した。
                     
 
このように私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年(昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。
          

こうした中で、定年後の年金生活を始めてまもない時、偶然にブログの世界を知り、
私はある簡易ブログサイトに加入にして、殆ど毎日投稿したりした。

そして北九州にお住まいの心清き奥様と、高校生の交換日記のように、コメント上で心の交流を重ねた。
こうしたある日、貴方様は投稿文で隠居の身で・・と幾たびも綴られていますが、
お若いにおかしいですわ、と指摘されたりした。

この当時の私は、つたない半生を歩んだ私は、定年後に年金生活を始めたが、
当初は覚束ない日々を過ごしたりした。

年金生活を始めた当初、平素の買物は自主的に専任者と家内に宣誓したりした。

そして戸惑いながら買物の責務を終えた後、独りで近所の遊歩道、小公園などを散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。

このように私は、働かず年金生活を過ごし始めると、隠居したような心情となり、
ブログの投稿文でも、隠居の身ながら・・と数多く綴ったりした。
          

やがて年金生活3年生になった頃、数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズの状況を、
知人、友人からの楽しげな便(たよ)りを受けたりしてきた・・。

こうした影響を受けた私はプラス思考に転じて、この後は私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、
と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

私は昨年70歳となり、幾つになっても夢をみる少年のような言動が多い老ボーイの身となっているが、
やはり霞(かすみ)を喰っては生きられないので、
現実として最優先には『いきがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』と思い、過ごしてきた。

そして男性の健康平均寿命は71歳であるが、何とか男性の平均寿命と称せられる80歳まで、
認知症に遭遇せずに、たとえ歩く状態がノロマになっても、
駅前までの1キロぐらいの路を自力で買い物に行きたい、と念願している。

こうした思いには、後期高齢者入門とされる75歳を第一目標として、
到達できたならば、それから一歩づづ堅実に気を楽にして過ごすことが肝要である、
とブログの先達者の投稿文からも学んだりしてきた。
          
          
もとより、こうしたことは自助努力も必要であるが、天上の神々の采配に寄ることであり、
定年退職するまで敗残者のような半生を歩んできたので、
先苦後楽の人生航路だ、と何かとプラス思考の私は思い深めている・・。

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