私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の71歳の老ボーイの身であり、
恥ずかしながら、携帯電話そしてスマートフォンも使えない身である。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
これ以来はパソコンの故障、或いは国内旅行に行く以外は、日々貫徹のような思いで毎日投稿している。
現在、私が愛用しているパソコンは、ディスクトップの固定型であり、
キー・ボードでブログの投稿文、電子メール、ネット検索などの入力をしている。
私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。
そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a3/49a03eb6d7b97d60e6286328170dd564.jpg)
☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆
私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、1969年(昭和44年)の4月であった。
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、1年間ばかり学び始めた時であった。
この当時は、もとよりパソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに連動させたディスク・トップを端末機として使用していた。
私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んだりした・・。
この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、
もっぱら英数字だけの時代であったので、覚束ない手で、殆ど一本指で入力していた。
その後、1970年(昭和45年)4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に何とか中途入社できた後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きな有力レーベルが、外資の要請で、レコード会社として独立し、
私も新たなる外資系のレコード会社に転属させられた。
そして翌年の1971年(昭和46年)1月に、私は本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などは、元所属していた会社の音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら管理していた。
そして委託処理をしていたIBMの大きなデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい、修正データなどを打ち込んだりしていた。
この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした、
この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982年(昭和57年)の頃であったと思われるが、
私もNECのPC8801を購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に、漢字ロムを付加させたりした。
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私の収入からして高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/a7/64da7fa4fcae0fa112bfcffbde00fc4f.jpg)
この後、1983年(昭和58年)からは、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら、私は入力したりしていた。
この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたりした。
そして運営の処理の指示書、データ入力をしていた・・。
このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示できる時代となり、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。
しかしながら住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が羅列表示されて、この中から選定し、確定させる。
そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。
私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、単細胞の私は転進できず、今日に至っている。
この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、やはり入力方法は『ひらがな』であった。
やがて20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。
或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算ソフトを活用して資料を作成したりしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/70/df1c9ae11a3d05acc7f3900d0f3a42d4.jpg)
やがて2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
まもなくブログの世界を知り、殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。
そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて早や47年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、40年が近くなっているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。
この間、1995年〈平成7年〉の頃から、世の中は携帯電話が普及し始めた中、
電子メールを打ち込んでいる若き男女を見かけたりしてきた。
私はあのような小さく、わずかなキーを変換させて、よく入力できるなぁ、と感心したりした。
その後に、多くの50、60代の女性も、たどたどしい指先で、この携帯電話に
メールを打ち込んでいる情況を私は見かけたりすると、微苦笑を重ねてきた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/6b/b352581c796843be68756c69a58a24d2.jpg)
私は昨今、ブログの投稿文を綴っている時、脳裏から言葉が舞い降りてこない時もあり、
思案しながら散文らしき投稿文を書き散らかしているが、殆ど一本指を頼りにキー・ボードで入力したりしている。
このような情況の時、過ぎし年、亡き歌手の岸洋子(きし・ようこ)さんを思い浮かび、
確か 『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった。
私はこの岸洋子さんの歌唱力に魅せられて、私の勤めていた会社とは他社契約の方であったが、
この当時はレコード、カセットの時代であり、3枚ばかり私は買い求めたりし、心酔していた。
そして岸洋子さんを体調を崩されて、病み上がりでリサイタルを日生劇場で開催された時、
私も退社後に駆けつけて、鑑賞しながら心震(ふる)わせ、圧倒的に感銘を受けたひとりである・・。
この後、このライブ盤『ラスト・ライブ! 岸 洋子リサイタル’91』が他社から発売されて、
私も幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。
この中の一曲として、『一本指のシンフォニー』の歌があり、
ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏(かな)でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。
私は無念ながら所有しているレコードからは、紹介できる技量も機種もなく.
やむなく【YouTube】にすがり、この名曲を投稿された方に感謝をしながら、掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=4iHBUEYhX6o
☆【YouTube】<==岸洋子リサイタル'79 歌手生活20周年記念より
<==『一本指のシンフォニー』☆
このような曲に思いを重ねたりして、 私も殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
若き日より感性も衰えたのかしら、と私は溜息をしたりして投稿文を重ねている・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/15/f4f756b04a6e7fb5dfd1c2b6295ca07d.jpg)
余談であるが、私が愛用しているパソコン『ウィンドウズ7(セブン)』は、
確か6年ぐらい使用しているが、『の』に当たるキーボードが、不動作になることが多い。
日本文を綴ると、何かと『の』を使うことが多く、キーがくたびれている、と私は微苦笑したりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村
![人気ブログランキングへ](http://image.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_1661_1.gif)
恥ずかしながら、携帯電話そしてスマートフォンも使えない身である。
2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
これ以来はパソコンの故障、或いは国内旅行に行く以外は、日々貫徹のような思いで毎日投稿している。
現在、私が愛用しているパソコンは、ディスクトップの固定型であり、
キー・ボードでブログの投稿文、電子メール、ネット検索などの入力をしている。
私は平素に愛用しているパソコンは『ウィンドウズ7(セブン)』のディスクトップ型があり、
広い画面を見ながら、キーボードでブログの投稿文などを綴ったりしている。
そして『ウィンドウズ8。1』ノートパソコン型は予備機としてきた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/a3/49a03eb6d7b97d60e6286328170dd564.jpg)
☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は予備機の『ウィンドウズ 8。1』☆
私が初めてコンピュータのキー・ボードに触り、ディスク・トップの画面を見たのは、1969年(昭和44年)の4月であった。
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋、私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をしていたが、やがて敗退し、
やむなく何とかして民間会社に中途入社したい為に、
苦手な理数系のコンピュータの専門学校のソフト科に、1年間ばかり学び始めた時であった。
この当時は、もとよりパソコンはなく、ノート型の端末機もなく、
汎用のコンピュータに連動させたディスク・トップを端末機として使用していた。
私たち生徒は、概要の処理過程の流れ図(フロー・チャート)を作成した後、
詳細のプログラムを専用シートに書き、
ディスク・トップに向かい、不慣れな現在使用されているJIS規格のキー・ボートに打ち込んだりした・・。
この当時は、漢字、ひらがなの表示はない時代であり、
もっぱら英数字だけの時代であったので、覚束ない手で、殆ど一本指で入力していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/5a/10397b454a833e76d510de97fe501ad0.jpg)
その後、1970年(昭和45年)4月に、この当時は大手の映像・音響メーカーの民間会社に何とか中途入社できた後、
まもなくこの会社の中で、音楽事業本部の中の一部の大きな有力レーベルが、外資の要請で、レコード会社として独立し、
私も新たなる外資系のレコード会社に転属させられた。
そして翌年の1971年(昭和46年)1月に、私は本社のコンピュータ専任者として配属され、
システムの開発、運営などは、元所属していた会社の音楽事業本部のシステムを活用させて頂きながら管理していた。
そして委託処理をしていたIBMの大きなデータセンターで、
月次作業の時に出向き、端末機のディスク・トップに向かい、修正データなどを打ち込んだりしていた。
この後、元所属していた大手の映像・音響メーカーの情報センターに、処理を委託したりした、
この間に、パソコンが世の中に出始めて、確か1982年(昭和57年)の頃であったと思われるが、
私もNECのPC8801を購入し、フロッピー・ディスク装置、プリンター、
そして漢字対応させる為に、漢字ロムを付加させたりした。
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私の収入からして高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/a7/64da7fa4fcae0fa112bfcffbde00fc4f.jpg)
この後、1983年(昭和58年)からは、すべて自社処理となり、
この当時に流行ったオフィス・コンピュータを導入して、
コンピュータ・ルームの端に端末機のディスク・トップ型、ノート型を配置し、
開発、部分改定のプログラムを思考しながら、私は入力したりしていた。
この時、右手にポール・ペンを握り、いつでもメモ書きができるように、
キー・インは殆ど右手の中指を使っていたりした。
そして運営の処理の指示書、データ入力をしていた・・。
このオフィス・コンピュータは、この当時の頃から漢字、ひらがなを表示できる時代となり、
もとより漢字対応のプリンターの時代となっていた。
しかしながら住所マスターの追加・訂正などの入力方法は、『ひらがな』で、単漢字の方式であった。
たとえば・・・盛岡市の場合、
『さかり』とかで入力して、幾つかの漢字が羅列表示されて、この中から選定し、確定させる。
そして次の『おか』とかで入力して・・
いずれにしても昨今のように、『もりおかし』と一度で表示ができなかった時代であった。
私は、この時の『ひらがな』固定方式を習得してしまい、
この後に『ローマ字』方式も可能となったが、単細胞の私は転進できず、今日に至っている。
この間、世の中はワープロが普及していたので、
私も購入し、会社で文書を作成したり、自宅で年賀状などに利用し、やはり入力方法は『ひらがな』であった。
やがて20年ばかり情報畑から管理畑に異動させられた私は、
机上に配置されたノート型の端末機に、適時に入力したり、検索したりしていた。
或いは私が新たに買い求めたノート・パソコンを開き、表計算ソフトを活用して資料を作成したりしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/70/df1c9ae11a3d05acc7f3900d0f3a42d4.jpg)
やがて2004(平成16)年の秋に定年退職となり、
まもなくブログの世界を知り、殆ど毎日ブログの投稿文を綴っている。
そして恥ずかしながら、相変わらず『ひらがな』入力で、
殆ど右手の中指で投稿文を入力しているが、キー・ボードに触れて早や47年が過ぎ、
『ひらがな』入力で、40年が近くなっているので、程ほどに早いかしら、と微苦笑したりしている。
この間、1995年〈平成7年〉の頃から、世の中は携帯電話が普及し始めた中、
電子メールを打ち込んでいる若き男女を見かけたりしてきた。
私はあのような小さく、わずかなキーを変換させて、よく入力できるなぁ、と感心したりした。
その後に、多くの50、60代の女性も、たどたどしい指先で、この携帯電話に
メールを打ち込んでいる情況を私は見かけたりすると、微苦笑を重ねてきた・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/6b/b352581c796843be68756c69a58a24d2.jpg)
私は昨今、ブログの投稿文を綴っている時、脳裏から言葉が舞い降りてこない時もあり、
思案しながら散文らしき投稿文を書き散らかしているが、殆ど一本指を頼りにキー・ボードで入力したりしている。
このような情況の時、過ぎし年、亡き歌手の岸洋子(きし・ようこ)さんを思い浮かび、
確か 『一本指のシンフォニー』の歌があったなぁ、と思い馳せてしまった。
私はこの岸洋子さんの歌唱力に魅せられて、私の勤めていた会社とは他社契約の方であったが、
この当時はレコード、カセットの時代であり、3枚ばかり私は買い求めたりし、心酔していた。
そして岸洋子さんを体調を崩されて、病み上がりでリサイタルを日生劇場で開催された時、
私も退社後に駆けつけて、鑑賞しながら心震(ふる)わせ、圧倒的に感銘を受けたひとりである・・。
この後、このライブ盤『ラスト・ライブ! 岸 洋子リサイタル’91』が他社から発売されて、
私も幾たびか愛聴していたことも思い重ねてしまった。
この中の一曲として、『一本指のシンフォニー』の歌があり、
ピアノを両手の指で上手に弾けないけれど、たった一本の指で奏(かな)でる・・
このような主旨であったことを私は記憶している。
私は無念ながら所有しているレコードからは、紹介できる技量も機種もなく.
やむなく【YouTube】にすがり、この名曲を投稿された方に感謝をしながら、掲載させて頂く。
http://www.youtube.com/watch?v=4iHBUEYhX6o
☆【YouTube】<==岸洋子リサイタル'79 歌手生活20周年記念より
<==『一本指のシンフォニー』☆
このような曲に思いを重ねたりして、 私も殆ど一本の指で、『ひらがな』入力ながら、
若き日より感性も衰えたのかしら、と私は溜息をしたりして投稿文を重ねている・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/15/f4f756b04a6e7fb5dfd1c2b6295ca07d.jpg)
余談であるが、私が愛用しているパソコン『ウィンドウズ7(セブン)』は、
確か6年ぐらい使用しているが、『の』に当たるキーボードが、不動作になることが多い。
日本文を綴ると、何かと『の』を使うことが多く、キーがくたびれている、と私は微苦笑したりしている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
![にほんブログ村 シニア日記ブログへ](http://senior.blogmura.com/img/senior88_31.gif)
![人気ブログランキングへ](http://image.with2.net/img/banner/c/banner_1/br_c_1661_1.gif)