私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活し、
恥ずかしながら年男のまもなく満72歳を迎える身である。、
そして私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉9月に農家の三男坊として生を受けた。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は、次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて私は小学校に入学したが、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
そして『習字』の授業も劣等生で、字が汚く、この後の人生でも、冠婚葬祭などで受付けで、
自身の住所、氏名を記載することに、何よりも苦手となっている。
昨夜、ときおり愛読しているネットの『ダ・ヴィンチニュース』を見ている中、
【実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?】と見出しを見て、
私は該当しないが、好奇心に負けて、こっそりと読んだりした・・。
この記事は、子育てガイドなど多彩に活躍している河崎環(かわさき・たまき)さんの寄稿文で、
『ダ・ヴィンチニュース』に8月29日配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?
☆美文字の秀才と、悪筆の天才
「字が綺麗なひとって、賢そうな印象がありますが、
林修先生によると『本当に頭がいい子ほど字が汚い』のだとか。どうなんでしょうか」と編集部からメールが飛んできたので、
私(幼少時は字が綺麗と、親からも先生からも褒められるよい子だったのに、
大人になった現在、取材ノートは自分でも読めないのが困る)の思うところをお答えします。
林先生が説く「東大合格者トップ層は字が汚く、2番手グループは字が綺麗」には、
私にも、なんとなく実感があります。
その昔、中学受験塾や美大受験予備校で、国語や英語、現代文や小論文を指導していたころ、
毎日のように生徒の小テストや作文を採点したり、授業中にノートを見回っていたりした私には、一つ発見がありました。
「勉強の出来る子には2種類いる。
粒ぞろいの綺麗な字を書く秀才と、本人にしか(本人にも)読めない謎の象形文字を書く天才の2種類が」。
さらにその後、彼らを見守るうちに分かったことがありました。
それは「字の綺麗な秀才タイプは、お手本をまねて紙上の空間のバランスを取りながら字を書くことができる。
つまり『規範意識が強く、周りの秩序を重んじる』性格傾向があり、
かつノートや答案を見る者(自分を含む)への強いプレゼン意識がある」、
そして、 「いわゆる悪筆で、もじょもじょと謎の線を書きつける天才タイプは、
溢れるアイデアに手や言葉が追いついていかない傾向がある。
そもそもノート自体が、のちに人が見るための記録ではなく、紙上で書きながらリアルタイムに思考するためのツール。
つまり勉強は他人のためでなく、あくまでも自分のため。
考えること自体が楽しいという脳の持ち主で、その延長上で勉強ができてしまう」。
そして、確かに字が綺麗なほうが、採点者(私)の印象はいいのだけれど、
本質的な勉強のできるできないに字の綺麗さは、全く関係ない、
さらに言うなら「こんな考え方もあったのか!」と
採点者が驚かされるような冴えた輝きを見せる生徒の字は、大抵ヘタクソというのも、発見でした。
☆日本の国語教育では「悪筆は恥」と刷り込まれる
私が小学生の頃(ええ昭和ですが何か)、親や他校の大人が見学にやってくるようなイベントが近づくと、
先生たちは生徒に習字や作文を書かせ、せっせと壁に掲示したものです。
日本の初等教育では、何かを書いたり描いたり作ったりするというのは、
どうしても「他者と並べられて品評される」ための行為なのですね。
ですから、何を書き描いているかという中身よりも、
見た目が綺麗で大人の目を引き感心させられるかどうかが、まず子どもたちの関心や動機になりがちだったように思います。
特に女子。
特に国語教育では、過去も現在も漢字の書き取りにおいて、
字のバランスや”トメ・ハネ・ハライ”の細部の徹底に膨大な時間と労力を割いています。
「書く」に「道」がついて書道なる伝統アートが存在するように、
「字は精神を表す≒美文字は美意識と教養の高さ≒悪筆は恥じるべきこと」という感覚が、
きわめて根深く刷り込まれているのが、日本の国語教育なわけです。
今もその潮流は健在で、日本では「字を綺麗にかけること」が、
学校での評価のわりと大きな部分を占めているような気が。
「字が綺麗で、机の周りもロッカーも綺麗で、給食も綺麗に食べられて、
挨拶がきちんとできる子は、先生のお気に入りの”いい子”」、いまだにそんな感じですよね。
それは自分のセールスポイントを他者に向けて可視化する能力、つまりプレゼン能力に長けている子どもです。
逆に、発想とエネルギーの塊のような、「字はぐちゃぐちゃで、身の回りは散らかしっぱなし、
給食中も考え事で、頭がいっぱいなので、食物を口に運ぶこと以外気にしない、
歩いている時も頭がいっぱいなので、周りが見えず挨拶なんておざなり」、
そんな子は自分の能力が、先生たちにわかりやすく可視化されていないので、
「勉強はできても、だらしないのが欠点」などと、場合によっては面倒な問題児扱いされてしまうことも。
中身でなくルックス、本質でなく外形が評価されるとは、実に形式主義的だなーとも思うのですが、
まぁ日本はそういうアプローチが好きな文化なので、
そうやって刷り込まれ、小綺麗にまとまるように教育される傾向があることは否定できません。
でも小綺麗にまとまるとは、つまり”小さくまとまる”、小粒だ……と言えなくもないですよね。
☆「字が綺麗?だから何?」だった米国
美文字の秀才が秀才にとどまるのは、ひょっとすると”教養”や”美意識”を追求する動機の中に、
「他人から見られること」「他者からの評価」が拭えないからかもしれないな、などと思うことがあります。
他者からの評価を乞うのではなく、自分で自分の達成度やゴールを決めるような天才タイプは、
他人にどう思われようが、比較されようが、自分で自分を褒めることも叱咤することもできる。
だから、そういう子が字を綺麗に書くとすれば、
それは人によく思われたいからではなくて、自分にとってそれが必要だからなのかもしれません。
大学生のとき、米国の大学のサマースクールで、エッセイライティング(小論文講座)の授業を受けていました。
私なりに衝撃を受けたのが、いかにも日本人らしくたおやかで控えめだけど英語能力はイマイチな他の女子学生が、
典型的な日本の英語教育で習得した美しいスクリプト(筆記体)でエッセイを提出したとき、
教授が「うわぁ、こんな繊細な筆跡は初めて見た!」と驚いてみせ、
しかし内容が不十分だったので、その場で再提出を通告したのです。
「綺麗だけど、内容にもっとエネルギーを使うべき」とばかりに。
ボストンの有名なアイビーリーグの大学でしたが、そこに通うアメリカ人たちの筆跡は、
どれも決して綺麗でないどころか、殴り書きに近いようなノートが散乱していました。
ただ、書くスピードが、とにかく速い。
頭に浮かんだ先から書きつけているのが、よく分かりました。
大きな河を隔てた向こう岸には、もう一つ世界的に有名な理数系の大学があり、
その学生たちの寮にも遊びに行きましたが、数学や物理を学ぶ彼らの部屋の中には、
誰も読めないような数式(らしきもの)が、のたくった紙が床じゅうに散らばっていました。
天才たちの住処には、美しく綴られた筆記体などなく、
あるのは「彼らの思考を深めるために使われた文や記号や数式たち」でした。
だからと言って、字が汚いほうが頭がいいなんてわけではないですよ!
「字の綺麗さ」にそれほど価値観をおかず、エネルギーも注がないということです。
日本では、美文字は「まともな大人のたしなみ」なのだとか。
でも、広く世界に視野を広げれば、それは素敵なスキルや美徳ではあるかもしれないけれど、
日本のように、できないからといって「恥ずかしい」とか「頭が悪い」なんて烙印を押すようなことではないので、
日本の初等教育で字の綺麗さに、やたらとつぎ込むエネルギーは、もう少し他のこと――
例えばもっと視野を広げること、知識を深めること、
クリエイティブであることやユニークであることや逸脱を許すこと――
に振り向けると、もう少し日本人全体が生きやすくなるかもしれませんね。
まぁそう言いながら、キーボードや音声入力ばかりで、
すっかり手書きをしなくなってしまった自分の筆跡が、年々酷くなるのを見ると、
毎年お正月あたりに「ペン字で美文字を身につけよう!」なんて折り込みチラシを熟読しちゃう私ですよ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は学業に関しては、高校時代に一時に限り優等生グループに所属したが、大学も中退した拙(つたな)い身で、
《・・「字が汚い人」ほど、頭がいいってホント?・・》私に限って『嘘で~す』と心の中で呟き、苦笑してしまった・・。
成人してから、幾たびも冠婚葬祭などで受付けで、自身の住所、氏名を記載することに、何よりも苦手となっている。
こうした時、いずれは『習字』か『ベン字』を習おうか、と思ったりしたが、
実行には至らず、今日に至っている。
そして「字が汚い人」ほど、ワープロ、そしてパソコンのソフトの導入が早く、何かと頼っている、
と我ながら苦笑したりしてきた。
或いは慈父のように敬愛している御方の奥様より、年賀状とか礼状を私は受け取った時、
達筆で美しい字体、そして新古今集のような文体で知性があふれ、私は読ませて頂くたび、
40数年、赤面しながら、溜息を重ねたりした。
余談であるが、風の噂として、「字が汚い人」で、頭が良い御方は、
作家・石原慎太郎さん・・そして亡くなわれた作家・向田邦子さんなどと知り、
つたない無学な私は苦笑したりしている。
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恥ずかしながら年男のまもなく満72歳を迎える身である。、
そして私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉9月に農家の三男坊として生を受けた。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は、次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて私は小学校に入学したが、兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生で、
通信簿を学期末に頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生が溜息まじりに言われたりしていた。
そして『習字』の授業も劣等生で、字が汚く、この後の人生でも、冠婚葬祭などで受付けで、
自身の住所、氏名を記載することに、何よりも苦手となっている。
昨夜、ときおり愛読しているネットの『ダ・ヴィンチニュース』を見ている中、
【実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?】と見出しを見て、
私は該当しないが、好奇心に負けて、こっそりと読んだりした・・。
この記事は、子育てガイドなど多彩に活躍している河崎環(かわさき・たまき)さんの寄稿文で、
『ダ・ヴィンチニュース』に8月29日配信され、無断ながら転載させて頂く。
《・・実は「字が汚い人」ほど頭がいいってホント?
☆美文字の秀才と、悪筆の天才
「字が綺麗なひとって、賢そうな印象がありますが、
林修先生によると『本当に頭がいい子ほど字が汚い』のだとか。どうなんでしょうか」と編集部からメールが飛んできたので、
私(幼少時は字が綺麗と、親からも先生からも褒められるよい子だったのに、
大人になった現在、取材ノートは自分でも読めないのが困る)の思うところをお答えします。
林先生が説く「東大合格者トップ層は字が汚く、2番手グループは字が綺麗」には、
私にも、なんとなく実感があります。
その昔、中学受験塾や美大受験予備校で、国語や英語、現代文や小論文を指導していたころ、
毎日のように生徒の小テストや作文を採点したり、授業中にノートを見回っていたりした私には、一つ発見がありました。
「勉強の出来る子には2種類いる。
粒ぞろいの綺麗な字を書く秀才と、本人にしか(本人にも)読めない謎の象形文字を書く天才の2種類が」。
さらにその後、彼らを見守るうちに分かったことがありました。
それは「字の綺麗な秀才タイプは、お手本をまねて紙上の空間のバランスを取りながら字を書くことができる。
つまり『規範意識が強く、周りの秩序を重んじる』性格傾向があり、
かつノートや答案を見る者(自分を含む)への強いプレゼン意識がある」、
そして、 「いわゆる悪筆で、もじょもじょと謎の線を書きつける天才タイプは、
溢れるアイデアに手や言葉が追いついていかない傾向がある。
そもそもノート自体が、のちに人が見るための記録ではなく、紙上で書きながらリアルタイムに思考するためのツール。
つまり勉強は他人のためでなく、あくまでも自分のため。
考えること自体が楽しいという脳の持ち主で、その延長上で勉強ができてしまう」。
そして、確かに字が綺麗なほうが、採点者(私)の印象はいいのだけれど、
本質的な勉強のできるできないに字の綺麗さは、全く関係ない、
さらに言うなら「こんな考え方もあったのか!」と
採点者が驚かされるような冴えた輝きを見せる生徒の字は、大抵ヘタクソというのも、発見でした。
☆日本の国語教育では「悪筆は恥」と刷り込まれる
私が小学生の頃(ええ昭和ですが何か)、親や他校の大人が見学にやってくるようなイベントが近づくと、
先生たちは生徒に習字や作文を書かせ、せっせと壁に掲示したものです。
日本の初等教育では、何かを書いたり描いたり作ったりするというのは、
どうしても「他者と並べられて品評される」ための行為なのですね。
ですから、何を書き描いているかという中身よりも、
見た目が綺麗で大人の目を引き感心させられるかどうかが、まず子どもたちの関心や動機になりがちだったように思います。
特に女子。
特に国語教育では、過去も現在も漢字の書き取りにおいて、
字のバランスや”トメ・ハネ・ハライ”の細部の徹底に膨大な時間と労力を割いています。
「書く」に「道」がついて書道なる伝統アートが存在するように、
「字は精神を表す≒美文字は美意識と教養の高さ≒悪筆は恥じるべきこと」という感覚が、
きわめて根深く刷り込まれているのが、日本の国語教育なわけです。
今もその潮流は健在で、日本では「字を綺麗にかけること」が、
学校での評価のわりと大きな部分を占めているような気が。
「字が綺麗で、机の周りもロッカーも綺麗で、給食も綺麗に食べられて、
挨拶がきちんとできる子は、先生のお気に入りの”いい子”」、いまだにそんな感じですよね。
それは自分のセールスポイントを他者に向けて可視化する能力、つまりプレゼン能力に長けている子どもです。
逆に、発想とエネルギーの塊のような、「字はぐちゃぐちゃで、身の回りは散らかしっぱなし、
給食中も考え事で、頭がいっぱいなので、食物を口に運ぶこと以外気にしない、
歩いている時も頭がいっぱいなので、周りが見えず挨拶なんておざなり」、
そんな子は自分の能力が、先生たちにわかりやすく可視化されていないので、
「勉強はできても、だらしないのが欠点」などと、場合によっては面倒な問題児扱いされてしまうことも。
中身でなくルックス、本質でなく外形が評価されるとは、実に形式主義的だなーとも思うのですが、
まぁ日本はそういうアプローチが好きな文化なので、
そうやって刷り込まれ、小綺麗にまとまるように教育される傾向があることは否定できません。
でも小綺麗にまとまるとは、つまり”小さくまとまる”、小粒だ……と言えなくもないですよね。
☆「字が綺麗?だから何?」だった米国
美文字の秀才が秀才にとどまるのは、ひょっとすると”教養”や”美意識”を追求する動機の中に、
「他人から見られること」「他者からの評価」が拭えないからかもしれないな、などと思うことがあります。
他者からの評価を乞うのではなく、自分で自分の達成度やゴールを決めるような天才タイプは、
他人にどう思われようが、比較されようが、自分で自分を褒めることも叱咤することもできる。
だから、そういう子が字を綺麗に書くとすれば、
それは人によく思われたいからではなくて、自分にとってそれが必要だからなのかもしれません。
大学生のとき、米国の大学のサマースクールで、エッセイライティング(小論文講座)の授業を受けていました。
私なりに衝撃を受けたのが、いかにも日本人らしくたおやかで控えめだけど英語能力はイマイチな他の女子学生が、
典型的な日本の英語教育で習得した美しいスクリプト(筆記体)でエッセイを提出したとき、
教授が「うわぁ、こんな繊細な筆跡は初めて見た!」と驚いてみせ、
しかし内容が不十分だったので、その場で再提出を通告したのです。
「綺麗だけど、内容にもっとエネルギーを使うべき」とばかりに。
ボストンの有名なアイビーリーグの大学でしたが、そこに通うアメリカ人たちの筆跡は、
どれも決して綺麗でないどころか、殴り書きに近いようなノートが散乱していました。
ただ、書くスピードが、とにかく速い。
頭に浮かんだ先から書きつけているのが、よく分かりました。
大きな河を隔てた向こう岸には、もう一つ世界的に有名な理数系の大学があり、
その学生たちの寮にも遊びに行きましたが、数学や物理を学ぶ彼らの部屋の中には、
誰も読めないような数式(らしきもの)が、のたくった紙が床じゅうに散らばっていました。
天才たちの住処には、美しく綴られた筆記体などなく、
あるのは「彼らの思考を深めるために使われた文や記号や数式たち」でした。
だからと言って、字が汚いほうが頭がいいなんてわけではないですよ!
「字の綺麗さ」にそれほど価値観をおかず、エネルギーも注がないということです。
日本では、美文字は「まともな大人のたしなみ」なのだとか。
でも、広く世界に視野を広げれば、それは素敵なスキルや美徳ではあるかもしれないけれど、
日本のように、できないからといって「恥ずかしい」とか「頭が悪い」なんて烙印を押すようなことではないので、
日本の初等教育で字の綺麗さに、やたらとつぎ込むエネルギーは、もう少し他のこと――
例えばもっと視野を広げること、知識を深めること、
クリエイティブであることやユニークであることや逸脱を許すこと――
に振り向けると、もう少し日本人全体が生きやすくなるかもしれませんね。
まぁそう言いながら、キーボードや音声入力ばかりで、
すっかり手書きをしなくなってしまった自分の筆跡が、年々酷くなるのを見ると、
毎年お正月あたりに「ペン字で美文字を身につけよう!」なんて折り込みチラシを熟読しちゃう私ですよ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
私は学業に関しては、高校時代に一時に限り優等生グループに所属したが、大学も中退した拙(つたな)い身で、
《・・「字が汚い人」ほど、頭がいいってホント?・・》私に限って『嘘で~す』と心の中で呟き、苦笑してしまった・・。
成人してから、幾たびも冠婚葬祭などで受付けで、自身の住所、氏名を記載することに、何よりも苦手となっている。
こうした時、いずれは『習字』か『ベン字』を習おうか、と思ったりしたが、
実行には至らず、今日に至っている。
そして「字が汚い人」ほど、ワープロ、そしてパソコンのソフトの導入が早く、何かと頼っている、
と我ながら苦笑したりしてきた。
或いは慈父のように敬愛している御方の奥様より、年賀状とか礼状を私は受け取った時、
達筆で美しい字体、そして新古今集のような文体で知性があふれ、私は読ませて頂くたび、
40数年、赤面しながら、溜息を重ねたりした。
余談であるが、風の噂として、「字が汚い人」で、頭が良い御方は、
作家・石原慎太郎さん・・そして亡くなわれた作家・向田邦子さんなどと知り、
つたない無学な私は苦笑したりしている。
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最近は視力低下(黄斑変性)と白内障が相まって、冠婚葬祭で筆を持つのは恥ずかしいですね。
パソコンの年賀状ソフトにはお世話になっています
私は小学高学年で、『習字』時間はさぼったタタリで、
悪筆で今日に至っている次第です。
昨今も冠婚葬祭などで、署名するが何よりも苦手で、
せめて関係者におしゃべりして、ごまかしている実情です(笑)
私もパソコンの年賀状ソフトには、宛名などは活用して、文面は私なりに思案して、エクセルで書いている実態です。