私は東京郊外の調布市に住む年金生活7年生の66歳の身であるが、
先ほど、【作家・三島由紀夫が自裁された昭和45年のこの日、私は青年期の終りを確実に感じ・・。】
と題して、このサイトに投稿した後、
ぼんやりと亡き三島由紀夫、松本清張の両氏が対談したならば、
どのような文学の話をされるのだろうか、と思ったりした・・。
そして、この後の酒席の状況となったならば、どのようなことを話されたのであろうか、
と夢想をした。
もとより私の知る限り、生前の三島由紀夫、松本清張の両氏が対談はなく、
互いに避けていたのだろう、と私は感じたりしている。
しかし酒席とならば、出版社の配慮で、秘かに一席設けられたと想像した時、
私はひとつの夢想を重ねたりした・・。
都心の高級な居酒屋の奥まった18畳ぐらいの部屋で、
亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が酒席を共にし、
出版社の編集者の40代の方と出版担当の取締役の5人が隣席している。
この時、どうした訳か判らないが、
私は末席で小さくかしこまりながら、弐合徳利を傾けながら呑んでいたのである。
この後、三島由紀夫、松本清張の両氏が互いに罵(ののし)りあい、
『男の中の男の見本のようにふるまっているが、貴様は男の中のくずだ・・』
と松本清張が三島由紀夫に云ったのである。
隣席にいた出版社の諸氏は、驚きあわてふためいたが、
更に松本清張は三島由紀夫に云い放ったのである。
『小説が書けなくなったと悩んだ上、世間のことも判らない若き青年を集めて親衛隊を結成し、
その挙句・・道連れにしやがって・・』
と怒号のように云ったのである。
三島由紀夫は青ざめたまま黙っまま、反論する余裕もなかったのである。
出版社の諸氏はもとより私も動転したまま、しばらく呆然とし、
『先生・・今日はこれまでと・・いたしまして・・』
と出版担当の取締役は、松本清張を制しながら云ったのである。
私はこのようなことを夢想したのである。
私が夢想といえども、少しは根拠があると思ったりした。
私の記事を切り抜いた記事を数多く保存しているが、
私は夜の7時半過ぎに、ひとつの記事を眺めたりしていた。
昨年の2009年9月中旬に、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が連載で掲載され、この中の一部を私は切り抜いて保存していた。
この保存した記事を無断ながら、転記させて頂く。
《・・
(略)
・・1964年、中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。
当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。
容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
・・
(略)
(2009年9月8日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。
私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
この当時、次兄が駅前の本屋から定期購入し、私の方が先に精読し
日本の近代・現代の文学として、あますところなく読んだひとりである。
この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ他の小説家の作品と共に、一冊の本として編集されてもよいのではないか、
と思ったりしていたのである。
この記事を初めて読んだ昨年の9月8日に於いて、
編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。
私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。
三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。
このように私は確信していたので、つたない脳に蓄積され、
この中の一部が事実と異なり脚色されて、現実ではありえない夢想となったのかしら、
と思ったりしたのである。
余談であるが、想像力が欠如したならば、
小説の作品はもとより、たとえ随筆ひとつにしても綴れない、と私は思っているひとりである。
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先ほど、【作家・三島由紀夫が自裁された昭和45年のこの日、私は青年期の終りを確実に感じ・・。】
と題して、このサイトに投稿した後、
ぼんやりと亡き三島由紀夫、松本清張の両氏が対談したならば、
どのような文学の話をされるのだろうか、と思ったりした・・。
そして、この後の酒席の状況となったならば、どのようなことを話されたのであろうか、
と夢想をした。
もとより私の知る限り、生前の三島由紀夫、松本清張の両氏が対談はなく、
互いに避けていたのだろう、と私は感じたりしている。
しかし酒席とならば、出版社の配慮で、秘かに一席設けられたと想像した時、
私はひとつの夢想を重ねたりした・・。
都心の高級な居酒屋の奥まった18畳ぐらいの部屋で、
亡き小説家の三島由紀夫、松本清張の両氏が酒席を共にし、
出版社の編集者の40代の方と出版担当の取締役の5人が隣席している。
この時、どうした訳か判らないが、
私は末席で小さくかしこまりながら、弐合徳利を傾けながら呑んでいたのである。
この後、三島由紀夫、松本清張の両氏が互いに罵(ののし)りあい、
『男の中の男の見本のようにふるまっているが、貴様は男の中のくずだ・・』
と松本清張が三島由紀夫に云ったのである。
隣席にいた出版社の諸氏は、驚きあわてふためいたが、
更に松本清張は三島由紀夫に云い放ったのである。
『小説が書けなくなったと悩んだ上、世間のことも判らない若き青年を集めて親衛隊を結成し、
その挙句・・道連れにしやがって・・』
と怒号のように云ったのである。
三島由紀夫は青ざめたまま黙っまま、反論する余裕もなかったのである。
出版社の諸氏はもとより私も動転したまま、しばらく呆然とし、
『先生・・今日はこれまでと・・いたしまして・・』
と出版担当の取締役は、松本清張を制しながら云ったのである。
私はこのようなことを夢想したのである。
私が夢想といえども、少しは根拠があると思ったりした。
私の記事を切り抜いた記事を数多く保存しているが、
私は夜の7時半過ぎに、ひとつの記事を眺めたりしていた。
昨年の2009年9月中旬に、読売新聞の朝刊の文化面に於いて、
【太宰と清張 生誕100年】が連載で掲載され、この中の一部を私は切り抜いて保存していた。
この保存した記事を無断ながら、転記させて頂く。
《・・
(略)
・・1964年、中央公論社(当時)が企画した80巻の全集「日本の文学」から清張が外れる“事件”があった。
当時、同社で清張担当だった宮田毬栄(まりえ)さんによると、
編集委員の三島由紀夫は
「清張には文体がない。文学じゃない」と収録に強く反対。
容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切った。
清張は激怒した。
「高等小卒の清張にとって、本は学校。
中でも全集は、最も輝かしいものだったでしょう。悔しさは計り知れません」(宮田さん)。
・・
(略)
(2009年9月8日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文に対し、あえて改行などを多くした。
私は中央公論社の80巻の全集「日本の文学」に関しては、
この当時、次兄が駅前の本屋から定期購入し、私の方が先に精読し
日本の近代・現代の文学として、あますところなく読んだひとりである。
この時になぜ松本清張は選ばれなかったのか、疑問に思ったひとりである。
少なくとも、、『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』の作品は、
たとえ他の小説家の作品と共に、一冊の本として編集されてもよいのではないか、
と思ったりしていたのである。
この記事を初めて読んだ昨年の9月8日に於いて、
編集委員の三島由紀夫が、
《・・容認派の川端康成、谷崎潤一郎委員を押し切り、
「清張には文体がない。文学じゃない」
と収録に強く反対・・》
と私は初めて知ったのである。
私は三島由紀夫に関しては、家柄もよく、文学少年が文学青年となり、
純粋に文学の道を歩まれ、やがて文壇の寵児として出版社から奉(たてまつ)られ、
やがて読者にも伝わり、読者層を増やしたスター小説家と思ったりしている。
そして、他者からの批判を何より嫌う人で、青年のままに死去された人と感じている。
三島由紀夫の一番の欠点は、他の小説家の作品を小説家自身の軌跡や心情で険悪し、
判断するきらいがあり、大人になりきれない批評眼である。
もとより、作品の良き悪きは、たとえ小説家自身の信条なく、作品次第である。
このように私は確信していたので、つたない脳に蓄積され、
この中の一部が事実と異なり脚色されて、現実ではありえない夢想となったのかしら、
と思ったりしたのである。
余談であるが、想像力が欠如したならば、
小説の作品はもとより、たとえ随筆ひとつにしても綴れない、と私は思っているひとりである。
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三島由紀夫知ってますが、昭和45年1歳じゃ
ここ20年もガラっと世の中は変貌しつつ
今日を生きております。
作品がすべてゞある。
大人になりきれない三島を清張が心底恨んでいたとしなら男のくず呼ばわりくらいはしたでしょう。
ただ、怒号に晒された三島が青ざめたまま黙っまま、というのはどうですかね。
そんなヤツが世間知らずの青年を道連れに、あそこまでやれたとしたら。