第4章 『長崎原爆資料館』を訪ねて
『長崎歴史文化博物館』を訪ねた後、
私は市電の浜口町駅を下車した後、坂道を登りながら、『長崎原爆資料館』にたどり着いたのである。
私は昭和19年9月に東京郊外の調布市で、
農家の三男坊として生を受けた身である。
そて、かの世界第二次大戦のひとつである太平洋戦争については、
学校の教科書はもとより、映画を観たり、小説、随筆、歴史書を読んだり、
或いは戦地に行き、帰還された親戚の叔父さん、
近所の小父さん達からも教えて頂いた・・。
このような私は二十歳過ぎた頃からは、
沖縄の過酷な地上戦が事実上終った日の『沖縄慰霊の日』となる6月23日,
『広島』の8月6日,そして『長崎』の8月9日に原子爆弾が投下された日、
敗戦となった8月15日には、黙祷したりしている。
そして、私は日本人のひとりとして、
沖縄には本土の防波堤のように犠牲になった人、
広島、長崎には被爆され亡くなった人、
少なくともこのような人々には鎮魂の思いが心の底にある。
このような心情の私は、この沖縄、広島、長崎の地には、
軽々しく観光気分では訪れるのを長らく避けてきたのである。
50代になり、初めて沖縄を訪れ、広島、長崎はここ2年前であったりしたのである。
長崎にある『原爆資料館』は、今回初めて訪れた・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/
展示品の中で、原爆投下までの時系列となった表を読んだりした。
この表を読みながら、私は無知であったことを恥ずかしく思いながら、
ノートに転記したのである。
【・・
1945年5月31日
原爆投下に関する諸問題を検討する為K『暫定委員会』で、
投下に際して、日本に事前の警告を行わないことに合意。
6月11日
フランク委員会の報告で、
戦後世界における核軍備競争の恐れを危惧。
7月16日
ニュー・メキシコのアラモゴート砂漠で、人類初の原爆実験成功。
7月17日
ポツダム会議はじまる。
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
7月24日
トルーマン大統領、ソ連のスターリンに《新兵器開発》を告げる。
7月25日
トルーマン大統領、原爆投下指令を承認。
8月6日
広島市に原爆投下。
8月6日
トルーマン大統領、ポツダム会談の報告り中で、
『何万何千ものの米国青年の生命を救う為に原爆を使用して』と述べた。
・・】
こうした内容の中で、特に無知であったのは、
【・・7月17日
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
・・】
であった。
私は国際間に影響をもたらす国家になれば成る程、
国益に基づいて、怜悧な政策と戦略を実行するのは知っていたつもりであるが、
改めて学んだのである。
この後の私は、この館が発行した『長崎原爆資料館 学習ハンドブック』を読んだりし、
質疑応答のような文書を心の中で呟きながら、読んだのである。
【・・
Q
なぜ長崎に落とされたの?
A
空襲の被害をあまり受けていなかったこと(原爆の威力を調べるのに都合がいい)、
造船所や製鋼所、兵器製作所などの工場が集まっていたことなどが
理由として考えられます。
Q
日本に落とそうとした理由は?
A
アメリカが日本に原爆の投下を決定した理由として、
多くの開発費や労力を投入して完成させた原爆を実際に使用し、威力を調べたかったという説、
戦争が長引いて日本上陸作戦を行うと、多数のアメリカ軍の兵が犠牲になるので、
早く日本を降伏させるために使用したという説、
ソ連に対する戦争後の立場を優位にするために使用したという説
などがあります。
・・】
こうしたことは私は歴史書などで学んできたつもりであるが、
このようなことを若い小中学の生徒が読んだ時、どのような思いで感じるか、
或いはアメリカの少年・少女が知った時、どのように感じるか、
このように思いを馳せたりすると、
私は胸が熱くなったのである・・。
《つづく》
『長崎歴史文化博物館』を訪ねた後、
私は市電の浜口町駅を下車した後、坂道を登りながら、『長崎原爆資料館』にたどり着いたのである。
私は昭和19年9月に東京郊外の調布市で、
農家の三男坊として生を受けた身である。
そて、かの世界第二次大戦のひとつである太平洋戦争については、
学校の教科書はもとより、映画を観たり、小説、随筆、歴史書を読んだり、
或いは戦地に行き、帰還された親戚の叔父さん、
近所の小父さん達からも教えて頂いた・・。
このような私は二十歳過ぎた頃からは、
沖縄の過酷な地上戦が事実上終った日の『沖縄慰霊の日』となる6月23日,
『広島』の8月6日,そして『長崎』の8月9日に原子爆弾が投下された日、
敗戦となった8月15日には、黙祷したりしている。
そして、私は日本人のひとりとして、
沖縄には本土の防波堤のように犠牲になった人、
広島、長崎には被爆され亡くなった人、
少なくともこのような人々には鎮魂の思いが心の底にある。
このような心情の私は、この沖縄、広島、長崎の地には、
軽々しく観光気分では訪れるのを長らく避けてきたのである。
50代になり、初めて沖縄を訪れ、広島、長崎はここ2年前であったりしたのである。
長崎にある『原爆資料館』は、今回初めて訪れた・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/
展示品の中で、原爆投下までの時系列となった表を読んだりした。
この表を読みながら、私は無知であったことを恥ずかしく思いながら、
ノートに転記したのである。
【・・
1945年5月31日
原爆投下に関する諸問題を検討する為K『暫定委員会』で、
投下に際して、日本に事前の警告を行わないことに合意。
6月11日
フランク委員会の報告で、
戦後世界における核軍備競争の恐れを危惧。
7月16日
ニュー・メキシコのアラモゴート砂漠で、人類初の原爆実験成功。
7月17日
ポツダム会議はじまる。
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
7月24日
トルーマン大統領、ソ連のスターリンに《新兵器開発》を告げる。
7月25日
トルーマン大統領、原爆投下指令を承認。
8月6日
広島市に原爆投下。
8月6日
トルーマン大統領、ポツダム会談の報告り中で、
『何万何千ものの米国青年の生命を救う為に原爆を使用して』と述べた。
・・】
こうした内容の中で、特に無知であったのは、
【・・7月17日
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
・・】
であった。
私は国際間に影響をもたらす国家になれば成る程、
国益に基づいて、怜悧な政策と戦略を実行するのは知っていたつもりであるが、
改めて学んだのである。
この後の私は、この館が発行した『長崎原爆資料館 学習ハンドブック』を読んだりし、
質疑応答のような文書を心の中で呟きながら、読んだのである。
【・・
Q
なぜ長崎に落とされたの?
A
空襲の被害をあまり受けていなかったこと(原爆の威力を調べるのに都合がいい)、
造船所や製鋼所、兵器製作所などの工場が集まっていたことなどが
理由として考えられます。
Q
日本に落とそうとした理由は?
A
アメリカが日本に原爆の投下を決定した理由として、
多くの開発費や労力を投入して完成させた原爆を実際に使用し、威力を調べたかったという説、
戦争が長引いて日本上陸作戦を行うと、多数のアメリカ軍の兵が犠牲になるので、
早く日本を降伏させるために使用したという説、
ソ連に対する戦争後の立場を優位にするために使用したという説
などがあります。
・・】
こうしたことは私は歴史書などで学んできたつもりであるが、
このようなことを若い小中学の生徒が読んだ時、どのような思いで感じるか、
或いはアメリカの少年・少女が知った時、どのように感じるか、
このように思いを馳せたりすると、
私は胸が熱くなったのである・・。
《つづく》