夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ④

2009-02-20 17:15:51 | 
    第4章 『長崎原爆資料館』を訪ねて


『長崎歴史文化博物館』を訪ねた後、
私は市電の浜口町駅を下車した後、坂道を登りながら、『長崎原爆資料館』にたどり着いたのである。

私は昭和19年9月に東京郊外の調布市で、
農家の三男坊として生を受けた身である。
そて、かの世界第二次大戦のひとつである太平洋戦争については、
学校の教科書はもとより、映画を観たり、小説、随筆、歴史書を読んだり、
或いは戦地に行き、帰還された親戚の叔父さん、
近所の小父さん達からも教えて頂いた・・。

このような私は二十歳過ぎた頃からは、
沖縄の過酷な地上戦が事実上終った日の『沖縄慰霊の日』となる6月23日,
『広島』の8月6日,そして『長崎』の8月9日に原子爆弾が投下された日、
敗戦となった8月15日には、黙祷したりしている。

そして、私は日本人のひとりとして、
沖縄には本土の防波堤のように犠牲になった人、
広島、長崎には被爆され亡くなった人、
少なくともこのような人々には鎮魂の思いが心の底にある。

このような心情の私は、この沖縄、広島、長崎の地には、
軽々しく観光気分では訪れるのを長らく避けてきたのである。
50代になり、初めて沖縄を訪れ、広島、長崎はここ2年前であったりしたのである。


長崎にある『原爆資料館』は、今回初めて訪れた・・。

http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/

展示品の中で、原爆投下までの時系列となった表を読んだりした。
この表を読みながら、私は無知であったことを恥ずかしく思いながら、
ノートに転記したのである。

【・・
1945年5月31日
原爆投下に関する諸問題を検討する為K『暫定委員会』で、
投下に際して、日本に事前の警告を行わないことに合意。

6月11日
フランク委員会の報告で、
戦後世界における核軍備競争の恐れを危惧。

7月16日
ニュー・メキシコのアラモゴート砂漠で、人類初の原爆実験成功。

7月17日
ポツダム会議はじまる。
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。

7月24日
トルーマン大統領、ソ連のスターリンに《新兵器開発》を告げる。

7月25日
トルーマン大統領、原爆投下指令を承認。

8月6日
広島市に原爆投下。

8月6日
トルーマン大統領、ポツダム会談の報告り中で、
『何万何千ものの米国青年の生命を救う為に原爆を使用して』と述べた。

・・】


こうした内容の中で、特に無知であったのは、
【・・7月17日
シラード、大統領宛ての要請書の中で、
日本に対する原爆の無警告使用に反対し、大量殺戮兵器使用の倫理的責任を強調。
69人の科学者がこれを署名。
・・】
であった。

私は国際間に影響をもたらす国家になれば成る程、
国益に基づいて、怜悧な政策と戦略を実行するのは知っていたつもりであるが、
改めて学んだのである。


この後の私は、この館が発行した『長崎原爆資料館 学習ハンドブック』を読んだりし、
質疑応答のような文書を心の中で呟きながら、読んだのである。

【・・

なぜ長崎に落とされたの?


空襲の被害をあまり受けていなかったこと(原爆の威力を調べるのに都合がいい)、
造船所や製鋼所、兵器製作所などの工場が集まっていたことなどが
理由として考えられます。



日本に落とそうとした理由は?


アメリカが日本に原爆の投下を決定した理由として、
多くの開発費や労力を投入して完成させた原爆を実際に使用し、威力を調べたかったという説、
戦争が長引いて日本上陸作戦を行うと、多数のアメリカ軍の兵が犠牲になるので、
早く日本を降伏させるために使用したという説、
ソ連に対する戦争後の立場を優位にするために使用したという説
などがあります。

・・】


こうしたことは私は歴史書などで学んできたつもりであるが、
このようなことを若い小中学の生徒が読んだ時、どのような思いで感じるか、
或いはアメリカの少年・少女が知った時、どのように感じるか、
このように思いを馳せたりすると、
私は胸が熱くなったのである・・。



《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ③

2009-02-20 13:29:58 | 
    第3章 『長崎歴史文化博物館』を訪ねて


長崎市内の諏訪の丘にある『長崎歴史文化博物館』を訪ねたのは、
春の陽気につつまれた12日の午前のひとときであった。

私が観たのは『歴史文化展示ゾーン』だけであり、
この他には『長崎奉行所ゾーン』など含め数多くの情報コーナーもあるが、
二時間半ばかりで『歴史文化展示ゾーン』に魅せられて、
観たりしながら、遙かかなたの先人の偉業に思いを馳せたりしたのである・・。


http://www.nmhc.jp/sisetsu/rekishi_tenji/index.html#01

私は日本が遣唐使を盛んに行われた中期に於いて、
五島列島から中国をめざして、出航された状景を思い浮かべたり、
中国からも天慶8年(945年)の頃には、長崎半島の御崎に来航したり、
その後に貿易が行われ、長崎の市内に唐人屋敷まで出来るように、
日中の貿易の隆盛の時に思いを重ねたりした。

そして、西洋からも、天文13年(1543年)に於き、
ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した5年後には、
イエズス会士のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来日し、
初めてキリスト教を伝えられた、と改めて学んだりした。

そして翌年になり、早くもポルトガル船が平戸に入港して、
ポルトガルとの貿易時代が始まったが、
この間の前後には、薩摩の島津、平戸の松浦にしても、
貿易は互いに富をもたらすので良いが、キリストの布教は困る基本政策があったので、
混迷期の中、横瀬浦そして福田と港を移転しながら、最終的には長崎港となった。

そして、その後はオランダとの貿易も始まり、
貿易品の数々の品はもとより、医学、造船、航路学、大砲などを含め、
ステンドクラスに至るまで、数多くを日本にもたらしたのである。

江戸時代に朝鮮との日朝外交の一端として、
『朝鮮通信使』交流があり、対馬を基点とし、江戸まで来日された。


このように海外の異国との交流が行われ、
このコーナーだけでも数多く多彩に展示されていたのである。


私は館内の展示品は、まぎれなく歴史のかたみの品々として拝見していたが、
70歳前後の細身の男性が私に近づいてきたのに、気付いたのである。
『よろしかったら・・私の知っている限り・・
補足させて頂いても・・よろしいでしょうか・・』
と私に云った。

『私は歴史には興味がありますが・・
何分、つたない雑学しか持ち合わせていませんですので・・
ご指導を受けたく・・』
と私はその男性に云った。

この後まもなくして、
このお方はボランティアとして館内の案内と説明をされている方と知ったのである。

そして私はこのお方と、信長時代から明治の初期頃までの、
キリスト教の日本の布教の目的、状況の変化を談話したのであった。
或いは西洋のオランダとの長年の交流の結果、
日本に多々の分野に於いて,成果があったことなども、
話し合ったりしたのである・・。

私はこの館を辞する時、
このお方に丁重にお礼の言葉を重ねながら、有意義な時が過ごせた、
と感謝しながら、坂道を下ったのである。


                             《つづく》





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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~  ②

2009-02-20 10:59:57 | 
    第2章 街中を散策すれば


長崎市内の観光めぐりをする時は、私は路面電車の市電を利用したり、
独りでトボトボと歩き廻ったりしていた。
首からデジカメを掛け、ときおり撮ったり、
斜め掛けしたA4のノートの収納できるバックから、
おもむろに立ち止まり、メモ書きをしたりしていた・・。

長崎の市電はたった百円で、風光明媚な各地を訪れるのに利便性がある。

http://www.naga-den.com/kikaku/logo/rosen.pdf#search='長崎 路面電車 案内図'

乗客の殆どは市民の方たちと思われ、特有の言葉、アクセント、しぐさや、
そして表情を聞いたり見たりできるので、
これ以上の貴重な体験はないと、私はいつも旅先で学んだりしている。

そして、各施設の館内の方と談話したり、
街の中を散策したりすると、ときには思いもかけない状景にめぐり逢え、
私は独りで微笑んだりしていた・・。

長崎歴史文化博物館を辞した後、市電の桜町駅に向う折、
住居の一括にさりげなく『斉藤茂吉 寓居の跡』と明記された石碑に出会ったりする。
私は正直なところ和歌にも無学であるが、
歌人の斉藤茂吉氏がどうして長崎の地で過ごされたの、
と思ったりしてしまうのである。
そして、ホテルに戻った後、少し調べた限りであるが、
大正6年に氏は長崎医学専門の教授として、在住3年少しばかりお住まいになった、
と知ったりしたのである。


この後、長崎原爆資料館を訪れた後は、長崎医大の周辺を散策し、
風もくな春のような陽気の中、亡くなわれた永井隆氏を偲んだりして、
歩いたりしたのである。

そして、永井隆記念館に向う途中で、サントス通り、と明示された道を歩き、
どうしてなのと思いながら、歩いたりしたのである。
これもホテルに戻った時、恥ずかしながら本で調べたりしたのである。


このように街中をぼんやりと歩いていても、
数々の遠い昔から、或いは敗戦後からの人々の営みのかけらが、
突然に舞い降りて、私は戸惑いながら微苦笑し、
歩き廻っているのである。




                             《つづく》




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『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 【2009.2.11.~2.19.】 ~歴史のかたみの中で~  ①

2009-02-20 07:40:06 | 
    第1章 大浦海岸にあるビジスホテル


長崎駅の中心から少し郊外にあるビジネスホテルの『ロワジールホテル』に、
到着したのは11日(水曜)の夕方であった。

http://www.solarehotels.com/loisir/hotel-nagasaki/


家内がこのホテルを選定したのは、
齢を重ねた78歳の母が初めて長崎を訪れるので、
グラバー園、大浦天主堂が近くにあるので何かと利便性がある上、
館内にある展望の大浴場からは街の夜景も観られ、
格安な宿泊代であり、4泊しても年金生活の私でも気楽ホテルでもあった・・。

そして、私達3人の北海道の旭川市、沖縄の那覇市などの市内見物の場合も
市内のビジネスホテルに宿泊して、ゆっくりと市内観光をした成功体験があったからである。
もとより、私達3人の滞在旅行の折は、
私は殆ど独りで観光先などを歩き回るタイプであるので、
家内と家内の母はツィンの一室で、
私は独りでツィンの別室で過ごすこととしたのである。

今回のこのホテルに4泊した滞在した時も、
私は到着した翌日から、独りで『長崎歴史文化博物館』、『原爆資料館』、『永井隆記念館』、
翌日には『大浦天主堂』、『グラバー園』、
その翌日は外海(そとめ)海岸を定期観光バスツアーを利用して、観たり思索を重ねたのであった。


朝食は11階の展望レストランに於いて、
バイキング形式の料理を頂きながら、『水辺の森公園』をまじかに観たり、
対岸の造船所、そして小高い美麗な稲佐山の情景を眺めたりしたのである。

夜になれば、大浴場から街の灯りを誉め、
そして私の部屋からは『大浦天主堂』の塔付近にある十字架のふちどりが、
うっすらと浮びあがっている光景が観えたのである。


私は夜の大半は、ビールを呑んだり、煎茶を飲みながら、
読書をすることが多く、
そして眠くなったら寝る、ぐうだらな日を過ごしたのである。

羽田空港で買い求めた総合月刊雑誌の『文藝春秋』、
長崎歴史文化博物館では江越弘人・著の『長崎の歴史』(弦書房)、
永井隆記念館に於いては永井隆・著の『長崎の鐘』(アルバ文庫)、
遠藤周作文学館では『母なる神を求めて~遠藤周作の世界展~』(アートディズ)、
そして、持参した文藝季刊雑誌の別冊新評『遠藤周作の世界』(新評社)などを読んだりしたのである。

そして長崎を離れ雲仙に向う寸前、
市内の本屋で遅ればせながら遠藤周作・著の『深い川』(講談社)を買い求めたのであった。



                             《つづく》




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改めて、 『長崎そして雲仙』に訪れる前には・・♪

2009-02-10 16:08:51 | 旅のあれこれ
私達夫婦の共通趣味であるので、結婚してまもない頃から、
日本の各地を訪れてきている。

私は定年退職後、直ちに年金生活に入り、5年生となっている。
こうした中で、退職後まもない時、家内の父が亡くなり、慌しい日々が過ぎた後、
家内の母が独り住まいとなったので、
私達は温泉滞在旅行などに誘い、年に数度は3人で旅行したりしている。

そして、家内の母は、
死ぬまで一度はXXに行って観たいわ、
と家内に云ったりして、北海道に7泊8日、沖縄に8泊9日などの観光めぐりの旅も、
私達3人は旅行を重ねている。


今回、たまたま長崎を観たい、ということになり、
私達夫婦は長崎市内のシティホテルに4泊して、長崎の市内観光をした後、
付近にある温泉を探した結果、雲仙の観光ホテルに4泊としたのである。

私は8泊9日の旅は、日中の時はどのように周遊しょうかしら、
と明日より旅立つので、ここ数週間を思案したのである。

もとより家内と家内の母が観たい婦人好みの観光先とは、
少なからず私は男性であり、相違があるので、
こうした3人の旅先の日中の殆どは、独りで私は歩き廻ってきたのである。


このような思いを深めたのは、
退職してまもない時に、作家・城山三郎氏の随筆から学んだのである。
【・・
私は以前から、人生の持ち時間に大差はない、
問題はいかに深く生きるか、であると言ってきた。

深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなる。

深く生きるためにはただ受身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも肝要。

まずは会社からも家族からも離れて、一人の時間を作ること。
そこで何かをしてみることが、深い生き方への第一歩となるに違いない。
・・】

こうしたことを私は心の中に秘めて、
日常の散策はもとより、旅先でも歩いているのである。


私の今回の長崎の4日間に於いては、
到着した翌日の最初の一日には、
やはり原爆で被災された長崎を
心の中にあったことを再確認するために、『長崎原爆資料館』を訪れ、
そして亡き永井隆氏に敬意を秘めて、『永井隆 記念館』で黙祷した後、
『長崎歴史文化博物館』に寄り、鎖国時代の海外との交流した歴史、文化を学ぶ予定である。

あとの一日は、長崎の外海(そとめ)地域にある、
『出津文化村』、『遠藤周作文学館』を訪ね、キリシタンの歴史を少しと
敬愛した遠藤周作氏に思いを寄せる日となる。

その後の一日は、滞在しているホテルの付近の『グラバー園』、
『大浦天主堂』、『祈念坂』などを散策する。


このような日程を思いついたのであるが、
天上の気候の神々の采配に寄り、
どのように天気は移り変わりで、日程が変わるか予測できないが、
いずれにしても坂道を登ったり、降りたりすることは多い、と思ったりしている。

以前、家内と2人だけの旅で、『大浦天主堂』を訪れた後、
霧雨が降る中、『祈念坂』を下りた時、
『風情があり・・情感もある・・』、
と私は家内に絶賛したのであるが、
果たして今回の旅は・・と思い馳せたりしているのである。

そして、旅先でも夜のひととき読書をするので、
遠藤周作氏のどの作品を再読するか、持参する本を迷ったりしている・・。


雲仙に関しては、私は未知の世界であるが、
島原市の街並みの湧き水を眺めたりする予定だけで、
あとは雲仙の温泉地を散策したり、露天風呂で心身満喫し、
この間に読書ができれば、これ以上の贅沢はないと思ったりしているのである。


尚、この旅行の期間(11日~19日)は、
原則として、私は投稿は中止させて頂きますので、ご了承をお願い致します。




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ふたたび、作家・遠藤周作に思いを寄せ・・。

2009-02-10 09:02:04 | 真摯に『文学』を思考する時
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
ここ1週間ばかり、平成8年(1996年)に亡くなわれた作家・遠藤周作氏のことを思索していた。

私は明日より、長崎・雲仙に8泊9日で家内と家内の母と共に3人で訪れるので、
旅先のひとときは独りで散策するので、
どの場所を観ようか、ここ三週間思いめぐらしていたのである。

こうした中で、長崎の外海(そとめ)地域に、『遠藤周作文学館』があると知り、
訪ねてみようかしら、と思ったりしたのである。


私は東京オリンピックの開催された時、
大学を中退し、映画・文学青年の真似事をしていた。

高校時代より読書に熱中し、なかでも小説に魅せられたひとりである。
なかでも新潮社、岩波の文庫本などを買い求め、乱読したりした。
そして、中央公論社が日本文学の全集を発刊され、
私は熱愛しながら、読んでいたのである。

この頃に私は、遠藤周作氏の作品を読み、殆どの作品を愛読し、
そして昭和41年(1966年)に新潮社より純文学書き下ろし作品のひとつとして、
『沈黙』を読み、
感銘を受けながら、作家に心酔していたのである。

この後、私は数年後に、サラリーマンの身となったが、
ときおり本屋で遠藤周作氏の新たな本を見かけると、
買い求めたりしていたのである。

一昨日、私は奥の部屋にある本棚から、
一冊の雑誌を見つけ、懐かしげに再読をし始めたのである。

別冊新評『遠藤周作の世界』(新評社)と題された季刊雑誌で、
’73 WINTERと明示され、昭和48年12月に発売された本である。

そして、私は少しづつ懐かしげに読んでいる。



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ときには、紳士用の小物入れのバックを選べば・・♪

2009-02-09 18:05:50 | 定年後の思い
私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
ここ1ヶ月、紳士用の小物入れのバックを探していた。

現在使用している小物入れのバックは、
10数年前に会社でハワイ旅行をした際、
パスポートを含め、財布をはじめ、メモ・ノート、ポールペン、
ハンカチ、煙草、携帯灰皿などを入れる為に、
B5サイズのショルダー式のバックを購入したのである。

私は斜め掛けにして、何かと海外の不安さに対処し、
成功体験をしたりしたのである。

定年退職後、まもなく年金生活をはじめ、
日常の散策、買物などで、少しボケても、ひとつのバックに収納でき、
斜め掛けにすれば、これまた安心と愛用してきたのである。
そして、家内からは、
『まるで・・幼稚園生みたい・・』
と云われてきたので、私は秘かに『幼稚園バック』と命名したのである。

私なりにお気に入りのバックであったが、
本屋で本を買い求めたりすると、ときにはA4サイズの本も購入したりしている。
そして、国内旅行の滞在する時、
私は厚い表紙のA4サイズのノート、観光関係資料などを持ち歩るいている。

こうした旅行先の場合は、私は殆どデジカメを首からぶら下げて、
A4サイズが収納できる布地の袋を提げたりしていたが、
何かと旅先でメモ書きをする時、不便さを感じていたのである。


こうした理由からして、A4サイズで厚手のノート、本の数冊が収納できる
ショルダー・バックを買い求める為に、
本日の午前中のひととき、家内と新宿にあるデパートのひとつで、
選定したのである・・。

300ぐらいの小物入れのバックを見たりしたが,
魅了され手に取って確認したのは、たった2つであった。
ひとつは天然皮であり、もうひとつは天然素材の繊維をコーティングしたバックであった。
少し迷ったりしたが、結果としては後者を選定したのである。
天候の変動、そして天然皮だと何かしら服装の範囲が限定されやすいからである。

私は購入したメーカー名は未知であったので、
帰宅後、ネットで検索したのである。


添付された商品札は、『イケテイ』と表示去れており,
そして現物のバックに『ck』と明示されていたのである。

http://www.iketei.co.jp/b_ck.php?ctg=0&bn=ck+Calvin+Klein&lim=ck&sbctg=0

私は未知のブランド商品なので、精読したのである・・。

【・・
カルバン・クライン社は、
世界中でファッションデザインとマーケティングをリードしているハウスの 1 つである。
メンズ・ウィメンズのデザイナーズコレクションを始め、
ライセンス契約その他による広範囲なネットワークを通じて様々な製品をデザイン、製造販売している。
カルバン・クライン コレクション、 ck カルバン・クライン、カルバン・クライン、カルバン・クライン ジーンズ、
カルバン・クライン アンダーウェアなどのブランド、ライフスタイルがある。

ck カルバン・クラインは、
アパレルとアクセサリーの“ブリッジ”ラインで、
都会的に洗練されたモダンなファブリックとディテールが特徴。
流行に敏感な最先端の男性と女性向けにデザインされ、
セクシーでトレンディ、そして若々しいラインと位置付けられている。
各種のアパレルに加えて、バッグ、革小物、シューズ、
アイウェア、時計、ジュエリー、香水、化粧品などのアクセサリーも出している。詳細は www.calvinklein.com >> 参照。
・・】
と明記されていたのである。

この後の私は、上記の詳細情報を知りたくて、
URLを指定したのである。

www.calvinklein.com

私は若き男女が激しくラブ・シーンをしているので、
何か間違えたのかと、思ったのである。

私は体力も精力も衰えた身なので、
からかわないで、僕だって若い時は、
と思いながらも最後まで観てしまったのである。
そして、終了の間際で、ジーンズの宣伝だったか、と何とか理解したのである。


この後、私は気を取り直して、
『イケテイ』のホームページの製品情報の検索欄で、
『ck』と入力したら、
私の購入したバックに近い商品が明示されたのである。

http://www.iketei.co.jp/mediainfo.php?amount=0&blogid=2&query=ck

この中で、
【・・
12/18: OLにっぽん
カテゴリー: TVドラマ使用商品 投稿 by: osamu
ck Calvin Klein コートシリーズ
No.808551 クロ
井上芳雄さん
・・】
このお方のバックに似ており、このバックは手提げであるが、
私の方はショルダーの肩掛け用だけの差異であった。

そして、私は『OLにっぽん』と題されて投稿されていたので、
少しドキッとし、男女兼用のバックだったか、私には解からないが、
いずれにしても私は魅了させられて、
購入したショルダー・バックを恋人のように大切にし、
私の友として愛用しようと、思ったりしている。



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改めて、『何故、2月は平常月より日数が少ないの・・?』

2009-02-09 06:20:20 | 定年後の思い
私は年金生活の5年生の身であるが、
暇にまかせて、時折つまらないことを考えたりしている。

例えば、この2月は、どうして平常月より日数が少ないのか、
ということである。

私は小学生以来、疑問のひとつであったが、
どのカレンダーを見ても2月は平常月より短く、
大人の常識の世界と思いながら、恥ずかしくて訊(き)けなかったのである。

この難問が解明できたのは、3年前で、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)を再読していたら、

【・・
前43年に初代ローマ皇帝になったアウグストゥスのご機嫌をとって、
元老院が彼の誕生月の8月を『アウグストゥス』と改称し、
それまで30日だったこの月の日数を増やすために、
2月から1日を移した
・・】
と明記されていたのである。

私はローマ皇帝に対し、時の元老院の人々のふるまいに、
呆れながらも驚いたのである。

こうして東洋の隅にある日本は、
地中海文明の華やかしき2千年前の決定事項を
昨今にも歴然と受け入れている不思議さ・・、

私は3年前に真相を知った時は、
少年のように、本当なの、と驚きながら、ため息をしたりしたのである。



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『脱メタボ! チャレンジ』の個別面談を受けて・・♪

2009-02-08 16:54:24 | 定年後の思い
私は民間会社の定年退職を終えた年金生活の5年生の身であり、
東京郊外の調布市に住む体力の衰えたひとりである。

健康診断に関しては、ここ3年は市の健康診断を毎年秋に受診しているが、
ふしだらな生活を過ごしている為か、
1年過ぎるたびに、体重は1キロ増加しているが、
心身が元気であれば少し太っててもよいではないか、と思いで昨年まで過ごしてきた・・。

さすが今年から、ご飯の量を減らしたり、
やむえず日本酒主体の晩酌をビール主体に切り替えたりした。


昨年の健康診断の時、肥満と感じた方は、
『脱メタボ! チャレンジ 講習会』を受講しますか、とアンケートがあったので、
私は○印で囲んだのである。

昨年の年末頃に、『脱メタボ! チャレンジ』の個別面談の希望日が着信し、
本日の午後、私は生まれて初めて、市の推薦する保険教育センターの保健師のお方に
個別面談で、指導を受けたのである・・。


20代後半と感じられる清純な顔立ちの女性の保健師だったので、
うら若き女性のしぐさの前に私は恥ずかしかったのであったが、
ここ数年の体重、ウェストの推移はもとより、
日常の食事、運動の状況を克明に報告したのである。

私はこのサイトで食事の状況とか、
呑兵衛のひとりとして、お酒に関して多くを綴ってきたので省略するが、
『あなたの状態は、大変よくないですわ・・』
と甘い声であったが、明確に指摘されてしまったのである。

そして、これから6カ月後のチャレンジ目標を話し合った結果、
体重は3キロ減量、腹囲は3センチ減少となったのである。
この間に、チェツク表とか食事の注意事項なとの小冊子を頂き、
優しくアドバイスされたのである。


いずれにしても私は、朝昼夕の食事をなるべく定時に頂き、
お酒はなるべくビールを主体とし、
350mlの缶ビールだったならば、2本までが最適。
そして、散策の時間を多くし、万歩計で記録を付け励(はげ)みになされば、
と優しい声で私は云われたのである。

私は終了まぎわに、
『日々貫徹・・努力致します・・』
と私は明るく大きな声で云った。

『・・お願いしますね』
と若き保健師の方は、微笑みながら私に云った。


帰路のバスの車中で私は,
うら若き清純な顔立ちの女性と、指きり、或いは握手をすれば、
1ヶ月ぐらいで目標は達成かしら、と余計なことを思ったりしたのである。



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昨年の冬の旅は、箱根・姥子(うばこ)温泉の滞在となり・・《下》

2009-02-08 00:49:50 | 旅のあれこれ
第6章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ①

15日(金曜日)は箱根の『強羅公園』に行き、
確か20年ぶりぐらいであったと思われる『白雲洞茶苑』を訪れよう、
とホテルを独りで9時半過ぎに出た。

快晴の中、桃源台からロープウェイで大涌谷、早雲山で乗り継いで、
この後は鉄道ケーブルで強羅公園下駅で下車した。

久しぶりに訪ねたので、公園の正門入り口に戸惑い、苦笑したりした。

この時節、観光客も少なく、高台にある喫茶店『Cafe Pic』で、
コーヒーを飲みながら、遠望にある大文字焼で知られる頂上に近い『大』の縁取りを眺めたりしていた。

この喫茶店も客は私独りで、暖かな陽射しの射しこむ中、
モーツァルトの名曲が店内から聴こえ、贅沢なひとときを過ごした。

この後、『白雲洞茶苑』に向かったのであるが、
20年前頃、家内と共に訪れて感銘した茶室であったので、
私の心は緊張していた・・。

http://www.hakone-tozan.co.jp/gorapark/tea/index.html

公園の外れにある少し切り立った場所に巨石、樹木で茶庭とし、
そして形式美にとらわれない茶室などがある。

私は1時間ばかり、茶庭を廻りめぐり、茶室を眺めたりした・・。

               

   第7章 『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ②

私は東京オリンピックを過ぎた頃、大学を中退し、
映画、文学青年の真似事をしたので和事に関心を持ちはじめた・・。

家内と結婚した当初、家内は中学生から茶事に関して、学んでいたので、
私は何らかの影響を受けていた。

結婚して3年の初め、実家の付近に一戸建てを建てる際、
茶室を設けたが、家内の嗜(たしな)み室であり、
私には本格的な茶事は無知である。

ただ掛軸、花入、そして茶道具などの形式美があるすぎるので、
花は野にあるように、と明言された利休の精神は・・
と私なりに思いを重ねた。

私は一介のサラリーマンの身であったので、
このような心を抱いていた時に、
20年前頃に、偶然に『白雲洞』を家内と観て、
感銘をしたのであった。



   第8章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば ③

『白雲洞』に関しては、この最初の①でサイト明示したので、
解説は省略する。

私が最も関心があるのは、どのような経過で、
明治時代の三井財閥の総督のような益田 孝が造営されたかであった。

明治39年に小田原市の板橋で、
茶人と深められた別名・鈍爺が『白雲洞』、『不染庵』、『対字庵』を造られ、
総称として『掃雲台』として造営された。

その後、箱根登山鉄道に寄る強羅地区の開発に伴い、
多大な援助をしたので、この箱根登山鉄道の社長より、強羅公園の一角を贈呈された。

そして切り立った地に大胆な茶庭を造営した後、
『掃雲台』の茶室などを移築し、今日の基盤である『白雲洞茶苑』となった、
と私なりに思ったしたのである。

このような思いを新たにし、
抹茶を500円で頂けるので、小鐘が置いてあったので、小さく鳴らした・・。



   第9章  『白雲洞』~歴然とした美の前にたたずめば 最終

30代前半と感じられる女性が現れ、
『抹茶を頂くのは・・作法に無知ですが・・』
と私は言いながら、茶席に座った。

そしてこの女性がお点前と館内の案内も兼ねていると判り、
私の前に抹茶と和菓子を置かれた。

『床柱は・・千年前の奈良にあった・・』
とこの女性は言った。

『床柱、掛軸、花入・・などの説明は結構です・・
確固たる美のお判りになった三大の方が伝承され・・
お陰さまでこうして・・
まぎれない美を見せて頂くだけで・・充分です・・』
と私は緊張した表情で言った。

この後、私は素朴な茶室に関して、丁重に感じたことを述べたり、
この三大の伝承した人の美を残された功績をたたえた・・。

そして、こうした美の結晶である茶室を造営するには、
財力は当然とした上、茶の深い思い、
何より縁(えにし)を含めた実行力のあるお方のみが、
最低限必要である、と私は言ったりした。

私は背後から客人の気配を感じ、席を辞する旨を伝えた。

私は和菓子を頂かなかったので、
このお方は和紙に包み、
『貴方様のように・・繊細に美を語(かた)ることの出来る人に・・
お逢いできまして・・』
とこのお方は言った。

私は照れながら、
『私は一介のサラリーマンを定年退職し、
無力な者で・・お恥ずかしい限りです・・』
と私は和菓子を受け取りながら言った。

私は偶然に若い女性と茶事の美について語り合えたので、
心は充たされ、一期一会、という言葉が実感できた・・。

そして強羅駅に向かいながら、
あの人、綺麗な顔立ちで、しぐさも素敵だった、
と余計なことを思ったりした。



   第10章  ときには、芦ノ湖遊覧船

16日(土曜日)は昨夜深夜のロビーで読書をしていたので、
風邪気味となり、ホテルの館内、大浴場、露天風呂、そして布団にもぐり、
読書をしたりした。

17日(日曜日)も館内でおとなしくしたりしていたが、
持参した3冊の本は読了してしまう。

18日(月曜日)は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船にで往復。

遊覧船の座席から快晴で雲ひとつなく冬富士も明確に観られ、
大阪から来られたご婦人のグループが携帯電話で盛んに撮影されていた。

元箱根の『成川美術館』からの冬富士の景観は一絵のようである。

この後、恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。


冬富士を 眺め愛(め)でれば 静謐(せいひつ)に

冬陽射し 湖上に受け 風光る

芦ノ湖で 冬富士眺め 感無量


このような駄作を詠んでいたが、
観光客の歓声も風邪気味で気落ちしていた私は、
心慰められる日中のひとときであった。


   最終章  旅の終りは、箱根の歴史

家内の母と私達夫婦の箱根の姥子温泉に於いて、
7泊8日の最終日、私は改めて箱根の歴史を学ぶ為、
箱根湯元にある『箱根町立郷土資料館』に立ち寄った。

家内達は歴史に興味がなく『生命の星・地球博物館』で、
地球の生命の営み等を観に行っている・・。

私は人の営みの集積である歴史で、
日本の場合に関しては奈良時代以降の歴史が関心があり、
箱根の徳川時代から昭和の敗戦前までの歴史に興味で入館した。

展示室は『湯治の道』、『箱根八里』、『生活の道』の三大区分で常設されているが、
私は小学生用に『道』と題された補助説明の学習テキストのパンフレットに魅了させられた。

例えば、『湯治』などを拝読すると、

温泉に入って病気をなおすことです。
そのために長い間、宿にとまってゆっくりと湯に入ります。
箱根の温泉は、このような湯治のために開かれ、使われました。

このように優しく表示されているので、
さて私の場合は何の病気かしら、と思い浮べ、
思わず微苦笑させられたりした。

帰路は高校時代から馴染みの小田急線の特急『ロマンスカー』を利用し、
帰宅した。

・・】



このように綴っていたのであり、
私達は3人の旅であるが、家内と家内の母は婦人好み観光地めぐりをしていたが、
私は体力は衰えたといえども男性であり、
相変わらず殆ど独りで日中を過ごしていたのである。

私の心の奥底には、亡き作家・城山三郎氏の遺されて格言、
【・・
私は以前から、人生の持ち時間に大差はない、
問題はいかに深く生きるか、であると言ってきた。

深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものにもなる。

深く生きるためにはただ受身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも肝要。

まずは会社からも家族からも離れて、一人の時間を作ること。
そこで何かをしてみることが、深い生き方への第一歩となるに違いない。
・・】

こうしたことを私は心に秘めて旅先でも、日常の散策でも歩いているのである。


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昨年の冬の旅は、箱根・姥子(うばこ)温泉の滞在となり・・《上》

2009-02-08 00:22:52 | 旅のあれこれ
私は先ほどの午後11時過ぎ、昨年のこの時節、
私達夫婦と家内の母と3人で箱根・姥子温泉に訪れて、
7泊8日の滞在した投稿文を読み返していた・・。


このサイトに於いて、
【 箱根・姥子温泉滞在記《上》【2008.2.12. ~ 2.19.】 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。


【・・
   序章 本日から箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、
年に数回の温泉滞在をしているが、
今回は最も近場の箱根の姥子温泉に、
本日の12日(火)~19日(火)まで滞在します。

箱根には近場であるので、四季折々何10回も訪れた所であるが、
姥子に宿泊するのは初めてである。

宿泊する観光ホテルは、Web環境なしの素朴な宿と思っていますので、
この間はこのサイトに投稿は出来ません。

携帯電話も使えない私は、ときには昭和の終り頃の環境も良いかしら、
と微苦笑している。



   第1章 旅の始まりは、小雨となり

私達夫婦は、12日(火曜日)の7時半に家内の母と
小田急線の新宿駅の特急乗り場の最寄にある喫茶ルームで無事に会った。

このフルーツ・パーラー風の喫茶は、特急を利用する時間調整に大変便利な処で、
何より奥まった一角には喫煙室もあり、私にとっては大変助かる。

私は喫煙室で煙草を喫いながら、コーヒーを飲み、
前方の通勤客で混むプラットホーム、改札口を眺めたりした。

こうした情景を眺めたりしていると、のんびりと平日の朝の時間を過ごせるのは、
改めて私は定年退職後の年金生活のひとりとして実感する。

私達はロマンスカーの座席から馴染みの車窓を眺めていると、
小雨が降りだしてきた。

小田原駅で下り、梅の花を誉(ほ)めようと小田原城のある城址公園に小雨の中に行ったが、
白梅、紅梅が冷たい雨の中で咲いている程度で少し侘しい情景であった。

私は休憩処でビールを呑みながら、
わずかな観光客を眺めたり、小雨の降る寒々しい前方の樹木を見たりした・・。

家内達は暖かいお蕎麦を食べていたが、
早めに宿に行こう、と私は家内に声をかけた。



   第2章  残り雪の中の姥子温泉地

小雨の降り続ける小田原より私達は路線バスで、
芦ノ湖の付近にある湖尻行きの向った。

今回の宿泊先は、姥子温泉でも湖尻に近い処を家内が選定したのである。
自動車、レンタカー等を利用しない私達は、各観光地を訪れる際に利便性がある、
という思惑であったのである。

箱根湯元を通過し、小涌谷周辺から周囲の情景は残り雪の景観となっていた。
バスの走る道路は、小雨に濡れ、道路際には除雪の雪が高くあり、
周辺の樹木、山裾は雪景色となっていた。

東京の郊外でも過日の10日の朝は数センチの雪の朝を迎えていたが、
この周辺は20センチ前後が里山に残って折、
浜 美枝・女史に寄る随筆で、箱根は東京より雪が多い、
と読んだことを思い浮かべ、私は心を和(なご)ませてくれた・・。

私達が予約した観光ホテルは、遠方に芦ノ湖が見下ろせるコテージ風の旅館であった。

ロビーを通り過ぎると、『公衆電話』のプレートが掲げられた電話ルームがあり、
昭和50年前後に建てられたと思われる格調のある白壁と太い黒柱で、
私は風雅あり、と思ったりした。

角部屋が和室となって折、小ぶりなカラー・テレビがあり、
これからの7泊をこの部屋で過ごすと思いながら、
私は大浴場に向かった。

Web環境のない昭和時代に心寄せながら、
私は源泉の少し熱い湯船に身体をあずけた・・。



   第3章  芦ノ湖の遊歩道を散策すれば

13日(水曜日)の早朝、ホテルの庭先に下り立つと、
深夜に小雨から雪に変わったので、数センチ程の雪化粧で迎えた。

壁面の温度計はマイナス4度であり、やはり姥子温泉の湖尻付近は、
私の住む東京の郊外の調布市より5度前後は寒い地域と思ったりした。

私は独りで10時過ぎに湖尻まで下って、芦ノ湖の東岸の遊歩道を歩き、
樹木園まで散策を始めた・・。

歩き始めたが、遊歩道は村道のような情景で、日陰の処は少し根雪となり、
陽射しの処は陽だまりとなり、右手に芦ノ湖が望める人影のない遊歩道であった。


私は対岸の西岸の遊歩道を箱根関所から桃源台まで15年前頃歩いたので、
この頃が思い出された。

あの頃の社員旅行は部単位で、30名前後で夕方に現地集合、翌朝に現地解散が多く、
ゴルフ、海釣りなどで盛んに行われ、
私は独りでザックを背負い、晩秋のひひとき西岸の遊歩道を三時間半ばかりで歩いた。

関所付近を30分過ぎた頃、貸しボートでニジマス、ブラックバスの釣り人が数多くいて、
釣りに無知な私は華やかな色合いに驚いたりしていた。

桃源台に到着し、ロープウェイに乗車する為に並んでいた時、
テレビが大リーガーで初めて活躍された野茂投手の姿を放映していた。


私はあんな時代もあったね、と私は想い歩いたりしていたが、
樹木園には30分足らずで到着し、園内を散策したら、
多くの人の声が下方から聴こえた。

下り道を少し歩けば、神社が観え、百名前後の人々が参拝をして折、
九頭龍大明神と木札があった。
この後、ゆるい曲がり道を歩くと、白龍神社が観え、
湖岸に桟橋があり、10数名が見られた。


私は丘陵に建ち並ぶ貸しバンガローを眺めながら、
樹木園の出入り口の空き地で煙草を喫ったりしていた。

湖尻方面から来たと思われる若い女性のお2人が私に近づいてきた・・。
ひとりは美形で、もうひとりのお方は10人並みである。

私に樹木園の園内を訊ねられたので、
私は10人並みの女性に向かって、懇切丁寧に説明した。

私は美形の女性には弱いが、気を引く手立ては、
こうした方法が最良と信じているので、
今回の場合も微笑みを絶やさず、10人並みのお方に話したのである。

『小父さま・・ご親切に・・ありがとう・・』
と別れ際に美形の人は私に言った。

私は内心は小躍りしながら、湖尻に向かった。
そして、あの人、女優さんのどなたかに似ている、
と思ったりした。

湖尻の食事処は平日の昼は、本日休業が多く、
あらかじめ目指した店も休みで、
やむえず隣接した食事処に入った。
ニジマス、ブラックバス、ワカサギのフライをビールを呑みながら頂き、
先程の美形の人、若き日の関根恵子さんに似ていた、
と余計なことを思ったりした。



   第4章  まぼろしの『秀明館』

14日(木曜日)は私が以前から考えていた姥子温泉に泊まったならば、
夏目漱石が湯治したと知られ、
現在は日帰りの施設として名高い『秀明館』に立ち寄り湯を考えていた。

家内達は箱根園に行くので、
私は独りでゆっくりと『秀明館』で個室休憩しながら、
湯に数回は入った後、
姥子から湖尻園地までの遊歩道を下る予定でホテルを出た。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車したが、
下方の周辺は雪が残っている。

姥子駅で下車後、駅員さんに『秀明館』の場所を尋ねたところ、
冬季は休館、と知り、やむえず大涌谷駅まで行き、
大涌谷から姥子を通り、そして湖尻園地までの遊歩道に変更した。

大涌谷駅は観光客で賑わっていた・・。
この周囲からは冬富士が一望できるので、数多くの方達が記念撮影をしていた。

私は駐車場を除雪されている50代の男性に、
姥子までの自然歩道の入り口を訊ねた。

『旦那・・雪・・結構・・残っているよ・・
まっすぐに下りれば・・姥子に着くけれど・・
だけど・・あんた・・ものづきだねぇ・・』
と私に言った。

私は冬季の防寒フィールド・ジャケット、
ゴアテックス入りの堅牢なウォーキング・シューズの容姿を眺めた後、
『気を付けて・・下れば・・』
と言った。

歩き始めると、確かに雪は30センチ前後あり、
歩道の中央には登山靴か冬季専用の長靴の跡がわずかに残っている。

ブナやミズナラの冬木立の樹木林の中を下ったが、
積雪で狭められた歩道は冬の登山路のようである。

私は所々で立ち止まり、首からぶら下げたデジカメで、
冬富士の光景を10数枚撮ったりした。

30数分下った後、突然に一般自動車道に出た。
自動車道と下方の湖尻園地までの遊歩道は、
わずか50m前後平行するのであるが、
自動車道の除雪で遊歩道が埋もれていた。

やむえず私は、一般道を下りはじめた時、
左側に突然に『秀明館』が観えた。
門から玄関庭の途中にロープで路は遮られ、
中央に冬季の2月まで休業とさせて頂きます、
と明示していた。

この後は私は、一般道を少し下った後はペンション、会社の保養施設が多い小道を下り、
芦ノ湖を遠方に見下ろしながら、ゆっくりと下った。

湖尻の食事処で昼食用として、山芋蕎麦を頂きながら、
まぼろしの『秀明館』か、
と少しため息をついたりした。



   第5章  旅先の読書

私達夫婦は、独り住まいの家内の母を誘い、温泉滞在旅行を年に数回行ったりしている。

私は定年退職後の年金生活の身であるので、
現役時代の頃は2泊3日前後であったが、
時間は自在に使えるので、5泊6日前後が多くなっている。

温泉滞在の時、日中は周辺の観光地を訪れても、
家内達のご婦人の興味のある処と、
少なからず男の子の私と興味の差異があるので、
私は独りで周遊したりしている。

私たち3人は、朝のひととき、夕食はゆっくりとビール、日本酒を呑みながら話に盛り上がれば、
私は寝具に身も心もゆだねて本を開いたりしている。

或いは雨などで外出が覚束ない時、
日中ののひとときに風呂に入ったりし、
その間は読書をしたりしている。

このような状況なので、温泉滞在旅行の場合は、
数冊の本を持参している。

今回の箱根の姥子温泉の7泊8日の場合は、
安岡章太郎、阿川弘之、庄野潤三、遠藤周作・各氏の『私の履歴書 第三の新人』(日経ビジネス文庫)、
司馬遼太郎、ドナルド・キーンの両氏に寄る対談『日本人と日本文化』(中公文庫)、
そして40年近く愛読している今月号の総合雑誌の『文藝春秋』の3冊であった。

『私の履歴書 第三の新人』に関しては、
尾崎真理子・著の『現代日本の小説』(ちくまプリマー新書)を購入した際、
同時に買い求めた一冊であった。

『現代日本の小説』に少なからず衝撃を受けたので、
文壇の健全なあの頃の『第三の新人』の頃は・・という思いで読んだりしたのである。

『日本人と日本文化』については、昭和47年(1972年)に発刊された本であったが、
改めて再読したのである。


このように3冊を読破した後、何か本はないか、
と元箱根、湖尻、桃源台で本屋を探したが、観光地せいか残念ながらなかったのである。

芦ノ湖周辺にお住まいの方は、箱根湯元か最悪の場合は小田原市かしら、
と苦笑したのである。


旅の終り、私の住む最寄駅で本屋に入り、
佐野眞一・著の『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社)を買い求め、
活字文化に飢(う)えた私の心を充たしたりした。


                           《つづく》

・・】



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『長崎そして雲仙』に訪れる前には・・♪

2009-02-07 17:51:25 | 旅のあれこれ
私達夫婦は国内旅行が共通の趣味である。

私は定年退職後、直ちに年金生活に入り、5年生となっている。
退職後まもない時、家内の父が亡くなり、慌しい日々が過ぎた後、
家内の母が独り住まいとなったので、
私達は温泉滞在旅行などに誘い、年に数度は3人で旅行したりしている。

そして、家内の母は、
死ぬまで一度はXXに行って観たいわ、
と家内に云ったりして、北海道に7泊8日、沖縄に8泊9日などの観光めぐりの旅も、
私達3人は旅行を重ねている。


今回、たまたま長崎を観たい、ということになり、
私達夫婦は長崎市内のシティホテルに4泊して、長崎の市内観光をした後、
付近にある温泉を探した結果、雲仙の観光ホテルに4泊としたのである。

私は8泊9日の旅は、日中の時はどのように周遊しょうかしら、
と来(きた)る11日より旅立つので、ここ数週間を思案したのである。

もとより家内と家内の母が観たい婦人好みの観光先とは、
少なからず私は男性であり、相違があるので、
こうした3人の旅先の日中は、独りで私は歩き廻ってきたのである。

私はネットで長崎、雲仙を調べたりしていると、
家内と2人で、以前に西九州を観光ツアーで旅したことがあり、
このサイトにも綴ったきたことがあるので、
読み返していた・・。


【 西九州シーサイド紀行  【2007.4.17.~4.19.】 】
と題して、帰宅後に綴り、投稿していたのであるが、再掲載をする。


【・・

          序章

家内と私は2泊3日の【春風そよぐ天草・伊万里・長崎・九十九島の旅】と称された
西九州の周遊観光団体ツアーに参加した。

福岡空港より、唐津・虹の松原、伊万里の大川内山、
平戸の街並みの散策、平戸のリゾートホテルに宿泊、

そして翌日は九十九島の観光遊覧船、長崎の大浦天主堂、
グラバー園などの南山手の一部を散策し、嬉野温泉に宿泊、

口之津港からはイルカ・ウォッチング、天草地方の観た後は、
熊本空港と西九州の海辺を周遊する旅行であった。



   第1章  旅の始まりは、始発電車

家内は旅行の当日は、何時も早めに起きる。

今回の旅行は、羽田空港で朝の7時10分の集合時間であったので、
家内は朝の2時半に起床し、私は30分遅れの3時である。

地元のタクシーに4時半に自宅に来て貰う前、
家内は台所と洗濯、そして朝食を食べたりする。
何時もの旅行の当日の出来事なので、台所と洗濯はやめたら、
と私は家内に云ったりしているが、ここ20数年変わらないでいる。
そして、家内の性格は集合時間の一時間前に到着し、
ゆっくりとコーヒーを飲むのが理想としているので、
早めのスケジュールとなる。


予定時間にタクシーに乗り込み、最寄の成城学園前には4時40分に到着し、
始発の4時55分には少し早く、改札口も閉鎖されていた。

私共は団体観光ツアーに参加する時、
東京駅、羽田空港の集合時間が早い場合、
自宅からタクシーで羽田空港、新宿駅まで利用したことがある。

2年前には、JRの新宿の始発に乗るため、
早朝の新宿駅に待機していた時は、
住所不定の人達が改札口のシャッターの閉まっている周辺で横たわって折、
私なりに不安げになり、家内共々、
交番の横で私は煙草を喫ったりしていた。


羽田空港、東京駅、上野駅、新宿駅の構内の早朝5時前の情景は、
私の日常生活から余りにもかけ離れているので、
都心は休む時はなく、24時間動いているのを教えてくれる場所でもある。


私が現役時代の多忙な時は、深夜に2時過ぎに退社したり、
或いは徹夜になり、
本社の六本木の喫茶店で早朝モーニング・サービスのコーヒーとトーストを食べたりしたが、
あくまで会社周辺、帰宅のタクシーの経路の情景であったりした・・。


こうしたことを思い浮べ、
成城学園前の駅前で煙草を喫いながら、待機していると、
始発電車に備え、駅の改札口のシャッターは上がって行った・・。

成城学園前の始発電車は、4時55分静かに動き始めた。

尚、私達の旅行の多くは、
自宅の近くのバス停留所の始発6時過ぎが望ましく、
こうしたプランを立案しているが、
ときおり団体観光ツアーで集合時間の早い時は、
今回のような起床時間となったりしている。

  
          
   第2章  初めての西九州の情景は
 
羽田空港発は8時であったので、搭乗前の待合室にいたが、
私は喫煙場と売店に往復する。

旅行の時は数冊の本を携えるのが習性であり、
今回は周遊観光なので自宅から持参することなく出かけてきたが、
宿泊地の夜、寝しな時に本がないと寂しくもあり、
中西輝政・著の『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』(PHP新書)を買い求めた。

喫煙場はビジネスマンの出張、移動の方達、私達のような旅行客など様々な言動としぐさが見られ、
私の好きなひとときである。

私は飛行機は苦手であるが、時間の圧縮には欠かせないので、
止む得なく乗るといった状態が続いている。

搭乗前、離陸、着陸が何かしら間延びと感じ、
水平飛行となっても狭い座席で余り動きが取れない上、
外の景観も雲上になると外の景観も乏しく、嫌いなのである。
こうした時は、ペットボトルの煎茶を飲みながら、雑誌か文庫本を読んだりしている。


福岡空港は2度目である。
以前、山陰地方の秋吉台、萩、津和野なとぜの周遊観光で利用したことがあったが、
殆ど空港の構内は記憶にない。

待機してくれた観光バスに乗り込むと、博多の街並みを車窓から観ても、
大都市の中心部は余り変わりことがなく、感慨が湧いてこない。


唐津に近い虹の松原を散策したが、黒松が防風林として植林されて折、
日本の各地に似たような情景が多く、
ただ玄界灘の波打ち際の海岸線を歩くと、何かしら落ち着き、
旅先と実感できたりした。

呼子はイカの名物と知られているが、唐津のホテルで、
イカのフルコースを昼食として頂いたが、素材を生かして美味である。
ロービーの売店で唐津焼のぐい呑みを少し見たが、
私なりに見た品は、数万円程度のなので、殆ど値札が合致した。
ひとつだけ購入しょうかと迷った品であったが、
取りやめて、帰路の時、後悔をしたりした・・。

この後、伊万里の秘窯の里と称される大川内山を散策し、
かっての鍋島藩が育成した伊万里焼をある程度見たが、
白磁に染付けと上絵が嫌いな私は魅了されることなく、
青磁も興味が湧かず、青空の下で咲くツツジの花の色合いを眺めたりした。

街並みの外れに登り窯が再現され、素朴なたたずまい、
丘陵に渡来させられてきた陶工の高麗人の墓に心を寄せたりしていた。

豊臣秀吉の時代、朝鮮征服を意図し、
結果として現地の陶工の人々をこの地に連れてきて、
鍋島という焼き物を古伊万里という形で完成させ、
後の人々に多大な影響を残したのは、
紛(まぎ)れもない事実といえる。


この後、平戸に移動し、街並みを散策した。
丘陵の坂道を昇ると、寺院が見え、丘の上に教会が観える。
聖フランシスコ・ザビエル記念教会であったが、
礼拝堂の館内は静寂で午後の陽射しがステンドグラスの窓を照らしていた。

そして街並みにオランダとの交易の名残りが数多くあり、
異国との交流が情緒がかもし出されている・・。

宿泊先の『ホテル蘭風』は千里浜に建つリゾート・ホテルであった。
家内と10数年前に宿泊した沖縄のサンマリーナ・ホテルとベランダから情景に比較しあい、
彼方の観える岬と入り江の景観が良かったが、
あいにくと曇り空であったので、夕陽が望めなかった。

私はこうした所で、1週間ばかり滞在し、
この周辺を散策するのも良いかしら、
と思ったりした。

夕食を終えた後、家内が入浴している間、
明日の天気予報でも見よう、とテレビのスイッチを入れた。
歌謡番組を放映していたので、洗面所で髭(ひげ)を剃った後、
テレビの前に戻ると、
長崎市の伊藤・市長が銃撃に襲われ、病院で手術を受けている、
と報じていた。

私は暗澹たる思いで、その後の臨時ニュースを1時間ばかり視聴していた・・。

そして、深夜、お亡くなりになったと知った。

翌日、私達の観光先は長崎の伊藤選挙事務所の前を過ぎた時、
肌寒く小雨の降りしきる中、献花された5ぐらいの花束の見た・・。



   第3章  魅了された島々

平戸の小奇麗な街並みを後にしたが、
低気圧が日本一帯に影響し、九州も10度前後となり、
小雨の降りしきる肌寒い朝を迎えている。

佐世保の外れにある鹿子前港から九十九島の遊覧船に乗船し、
数多くの島の周辺を巡(めぐ)った。

常緑樹と新緑となった落葉樹、
そしてヒメミツバ・ツツジの花の色合いが小雨の中で染められ、
海面と島の色彩の光景は美の結晶と感じられ、私は魅了させられた・・。

北部に点在する島は、岩肌が厳しく、男性的な景観が多く見られ、
南に点在する島としては、優美で女性的な島々が多い、
と観光案内に明示されている。

私にはこうした情景が好きであるので、日本の各地を観てきたが、
松島をはじめとする数多くの島の点在する景観のこれまでの体感として、
私なりの美としては九十九島に魅了され、
心の残影はいつまでも余韻が感じられた事は確かであった・・。


この後、長崎の南山手に於いて、大浦天主堂、
グラバー園を拝観したが、小雨降る坂道も情感があったが、
九十九島の余情があったので、いつの年になるか解からないけれど、
改めて別の日に、と感じたりしていた。

             


   第4章  ときには、イルカ・ウォッチング

長崎市街は坂道が多く驚いたりしたが、
そして宿泊先の嬉野温泉地に向かっている途中で、
小雨が上がり、曇り、そして夕方には晴れ間となった。

宿泊先の『和多屋別荘』であり、
冷え切った身体に日本三大の美肌の湯と称せられた湯は、
私のような歳を重ねた男性の身でも心地よい。

翌朝は雲ひとつなく、快晴となった。

島原半島の南端にある口之津港から、20人前後の乗船可能な小船で、
対岸にある天草地方の二江港まで一地域にイルカが観られるツアーに参加した。

家内と私は最前列に座り、多少の揺れがあっても各地の小型の遊覧船で鍛えられているので、
身をまかせていた・・。

海の潮の香り、風を受け、快晴の陽射しを身体に受けて、
快適な海上を小船は走ってた。

20分過ぎる頃、イルカの大群が見られ、小船の数メートル近くで遊泳をしたりしている。
特に家内は動物、魚群は好きなタイプであるので、
歓声をあげたりしている。

私はデジカメで10数枚撮ったが、私のつたない技量としては、
確かなことは実景の迫力には、到底かなわない、
と思ったりした。

30分前後、徐行をしながら、イルカの遊泳に満足した後、
二江港を目指して、小船は疾走した・・。

私は下船の直後、2時間20分の遊覧に満足し、
船を操縦した50代の男性に、
『想像したより・・遥かに良かったですよ・・』
と私は絶賛した。

そしてイルカのウォッチングには余り期待していなかった私さえ、
『知らない方も多いと思われますので・・
この地方の観光の目玉として更に宣伝されれば・・
お客さん・・満足しますよ・・』
と私は言葉を重ねた。

家内はそばで聴いていて、笑っていた・・。

この後、昼食は天草船長おまかせ御膳と称した地魚を主体とした料理で、
私はお膳の料理を見た直後、
『お姉さん・・ビール・・下さい・・』
と声を上げた。


この後、天草地方にある大江天主堂、殉教公園に寄ったが、
私は少し失望し、落胆したせいか疲れを覚え、
熊本空港にバスは到着した。

今回、初めて西九州の一部を短時間で周遊したが、
九十九島の点在する島々の情景、
イルカを観に海上の2時間の光景、
のちの思いになることは確かなこと、と私は呟(つぶや)いたりしている。


             
   最終章  旅の終りは、熊本空港

初めての熊本空港であり、短い旅行であったが少し疲れを覚え、
7時発の航空便まで出発ロビーの待合室で、
6時過ぎに夕食がわりに売店で買い求めた弁当を食べたりしていた。
この後、喫煙室に入ると、ビジネスマンの十数人がいた。

出張と思われるスーツ、ビジネス・バックを見ると、
旅人のひとりの私は、何かしら申し訳ないような居心地となり、
浮かれた旅気分から現実の時に揺り戻されたりする。

定年退職後の3年生の身である私は、旅行先にこうした方々にお会いすると、
あのような時代もあったんだ、と私は振り返ったりする心持となる。


羽田空港に9時前に着陸し、京浜急行で品川、そして満員の山手腺、小田急線を利用した後、
成城学園前に戻ると、何かしらほっとしたりする。

そしてタクシーで自宅に戻る傾向がここ数年の旅行が多いが、
航空便は夕方に利用することが多かったので、
通勤の方の多い中、何かしら心身の疲れが増したりした。


・・】



このように綴っているが、やはり旅先で感じたり、思索したことは、
残念ながら写真などでは表示できないので、
たとえ拙(つたな)い綴りであっても、文章を綴り残しておくことも、
のちの想いとなり、貴重なその人なりの心の宝物かしら、
と私は微笑んだりしている。




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この時節、私の心の中は、『早春賦』を唄い・・♪ 

2009-02-07 09:01:50 | 音 楽
東京郊外の調布市に住む私は、6時半過ぎに主庭のテラスに下り立ち、
風もない中、ぼんやりと煙草を喫ったりしていた。

日本水仙、白玉椿、そして白梅の白き花を眺めたり、
地面も黒土も清々しい、私の心を高揚させてくれる。

この時節は、このような早春のひととき感じさせてくれるが、
ひとたび寒気につつまれ風が吹くと、肌寒くやはり冬の季節と思ったりし、
古人からの伝えの三寒四温の適言に微苦笑させられる。

さきほど、地元の天気情報を視聴していたが、
朝の6時過ぎは1度、昼下りは11度前後の快晴に恵まれ、
風もない暖かな1日となり、夜の6時頃は9度前後が予測されます、
と私には聴こえたのである。


ぼんやりと私は、庭を眺めたりしていると、
心の中でひとつの歌を唄っていた・・。


♪春は名のみの 風の寒さや
 谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど

【 『早春賦(そうしゅんふ)』 作詞・吉丸一昌 】


私は幼年期に農家の児であったので、
遠い昔、田畑、雑木林の情景に思いを馳せていると、
思わず心の中で唄ったのである・・。


♪春と聞かねば 知らでありしを
 聞けば急かるる 胸の思(おもい)を

【 『早春賦(そうしゅんふ)』 作詞・吉丸一昌 】


私は年金生活の5年生の64歳の身であるが、
何故かしら齢を重ねるたびに、幼年期の光景が甦(よみがえ)ることが多くなっている。



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その昔、私は富士山の下山の時、死を感じた時・・。

2009-02-06 16:21:09 | 幼年・少年時代の想いで
私が中学2年生の時、昭和34年(1959年)であったから、
ひと昔のことである。

私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林から急速に新興住宅街に変貌した。
そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店もでき、
おのおの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。

こうした中、若きクリーニング店の経営者が、店員さんを数名を配置しながら、
我家にたびたび我家にも来宅し、
親交を深めたのである・・。

次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング屋の若き経営者が次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。

そして、このお方は御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
いくども夏季の折、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。

そして、夏季の時だったならば、体験豊かな人に先導されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。


http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html

この当時の昭和34年(1959年)頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。

そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。

おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。

私は山歩きは未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
無事に山頂にたどり付いたのである。
ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
寒いくらい涼しかったのが心の奥に残っている。

そして、次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病、と云われて、少し安静したのである。

私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
素人の私が何ともなく山頂に登りつめた達成感であふれ、
次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし、私の全くの未経験者の上、無意識で無邪気に登りつめた結果、
と思われたのである。

この後、次兄と私は、互いに記念写真を撮ったりし、
気分爽快で山頂の周辺を散策した。


下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、五歩、六歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。

その後、9合目を下って、まもない時、
私は五歩、六歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。

私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとしたが駄目であったので、
横にコースを取れば、斜面は並行となり下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。

こうして私は斜面の横を自身の意思とは相違し、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。

そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。

まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように地表に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を私は握り締めたのである。

そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を私は聴こえたのである・・。

私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。

そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、バスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。


この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山し、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。

私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。

『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。

『君だったのかぁ・・よく助かったょ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で少し震えたのである・・。

帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は初めて安堵した表情で、私に云った。


私は後年、大学時代に中退するまで、
ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、
いつまでも苦手となった。


尚、このお方とは、私達が住む場所も住宅の密集地となり、
50年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。




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ふたたび、『海苔(ノリ)の日』について・・♪  

2009-02-06 07:04:20 | 食べ物、お酒
私は食べ物のひとつとして、一日おきぐらい海苔を頂いている。

本日は、台所にあるカレンダーは、優しく『海苔の日』と明示されていたので、
私は微笑みながら、少し調べたりしていた。

藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)が一番解かりやすいので、
無断であるが引用にさせて頂く。

【・・
2月6日が『海苔の日』となったのは、
701年(大宝1年)に施行された『大宝律令』によってである。

大宝律令とは、7世紀からの制度をまとめた基本的な法律で、
そこでは海苔が諸国の物産として、年貢に指定されているという。

それに基づいて、『全国海苔貝類漁業共同組合連合会』が、
大宝律令の施行日を現在の暦に換算、海苔の消費拡大を図って、
2月6日を『海苔の日』にしたのは、1967年(昭和42年)のことだった。

海苔は太古の昔から日本人に親しまれたきた食品で、
19世紀末に来日した外国人が、
『日本人は紙と竹で造った家に住み、黒い紙を食べている』
と仰天したというエピソードが残されている。

しかし今では、寿司などの普及と共に、
諸外国でも比較的なじみ深い食材になっているように思われる。

『海苔』という名称は、
ぬるぬるするという意味の『ぬら』が訛(なま)ったものである。

海苔はビタミン含有量は高く、
特にビタミンAはトマトの60倍以上も含まれて折、
カルシウム、りん、鉄分などのミネラルも多い。
また、29.1%も含まれる食物繊維の豊富さが注目される。

しかしながら、海苔で最も珍重されるのは、香りと風味と歯ざわりである。

・・】

以上、引用させて頂だいた。


私は炊き立てのご飯、そして味噌汁・・
そしてさぁーとあぶった海苔だけの食事でも、
この世に稀(ま)なほど美味しい食べ物のひとつと感じている。

私は普段は倹約家と思っているが、海苔に関しては高価な品を買い求めている。

私が死ぬ間際、やはりご飯、味噌汁、そして海苔で、
最後の晩餐としたいと思ったりしている。




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