夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

私は幼年期、『末期(まつご)の水』を体験し・・♪

2009-02-05 17:38:46 | 幼年・少年時代の想いで
私は東京郊外の調布市で、昭和19年に農家の子として生を受けた。
この頃の私の住む地域に於いては、田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

そして、私の下に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は溺愛し、私は疎外されたように感じで過ごしていたが、
父の妹である未婚の叔母の2人に可愛いがれていた。


このような時、私は3歳過ぎた時、
風邪をこじらせて肺炎となり、町の内科の医師に来て貰い、
診察を受けたのである。
父と母は、幼児を放置していたので、医師から叱咤を受けたりした。

しかし、あの頃は敗戦後のまもない時であり、
あの当時の私の地域の農家は、
富山の薬の販売員が各家々を2ヶ月に1度ぐらいで巡回し、
家庭置き薬として常備薬を配布していた時代であった。

まして、あの当時は専門の小児科などは私の住む地域にはなく、
昭和30年の頃から、住宅街に変貌して、
初めて小児科の病院を見かけることとなったのである。


私は医師から診察を受けたが、
熱が高く、やがて呼吸が困難となり、危篤の状態となった・・。
そして、医師から父と祖父に、
手遅れで治療のしょうもないので、残念ながら、まもなく・・
と宣言されたのである。

そして、祖父のひと言で、親戚、近くの人に、
3番めの男の子、危篤状態であるが助からない、
と伝達したのである。

私は次第に青ざめ心臓が止まったかのような状況が、
30分ぐらいした時、
祖父と父は断念して、ガーゼを水に浸したのを私の唇につけたのである。

私の住む地域では、古くから医師などにより死の宣告をされると、
家族はもとより兄弟姉妹などをはじめとした近親者が、
ガーゼなどで水に浸し、亡くなった人の唇につけてあげる習慣があり、
長老の言葉に寄れば、『末期の水』と称していた。

そして、母、叔母に続いて、長兄、次兄は、ガーゼを私の唇につけたのである。
この後は、『死に水』と称された、おのおの茶碗に少し水を入れ、
各自が飲んだのである。

このような状況の時、医師が、祖父と父、そして母に向かい、
『無念ながら・・まもなく亡くなると思われますが・・
この注射を最期の手段で・・試みて診(み)ます・・』
と云いながら、強心剤の注射をしたのである。

そして、30分過ぎた頃、私は赤味を取り戻した身体になり、蘇生したのである。


このことは、私が小学3年の頃、
父は小学2年、まもなく祖父も亡くなった後、叔母から教えて頂いたことである。

そして、長兄とか次兄に、
私が二十歳になるまで数度、
『XXXの・・死に水・・俺は飲まされた・・』
と苦笑しながら、私に云ったりしていたのである。


今の私は、64歳の年金生活の5年生であるが、
父が肝臓を悪化して42歳で亡くなったので、
せめて60歳のサラリーマン定年退職までは生きる責務を強く感じてきた。
そして、定年後10年間だけは何とか五体満足に生かして貰らえれば、
あとは余生と思っているのである。



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訪れてみたい夢の『冬の糠平(ヌカビラ)湖』・・♪

2009-02-05 10:06:14 | 旅のあれこれ
私は年金生活の5年生であるが、
家内と共通趣味は国内旅行であり、四季折々各地を訪れたりしている。

先ほど、家内とNHKテレビの『生活ほっとモーニング』を視聴していたら、
【発見!とっておきの旅 山本太郎さんと行く 十勝クリスタル・パラダイス】というコーナーで、
北海道の冬の美麗が映しだされて、
私達夫婦は、眺めていたのである。

『糠平(ヌカビラ)湖』の冬の情景の数々が映しだされ、
『一度は・・行った観たいわ・・』
と家内が云ったりしていた。

私は番組が終了後、
ネットで私達が未知の『糠平(ヌカビラ)湖』を検索したのである。

検索したサイトに於いて、下記のサイトが一番優しく明示されていたので、
家内としばらく見たりしたのである・・。

http://www.kamishihoro.jp/kankou/nukabira.html

この後、私達は2月の中旬は長崎・雲仙に8泊9日の予約した旅行があるから、
来年か再来年に一週間ぐらいで最寄の観光ホテルに滞在して、
雪と戯(たわむ)れてみたい、と思ったりしている。

私達は冬の北海道、東北地方の雪の情景にに魅せられて、
防寒服で身をかためて、防寒帽子、軽登山靴で、山里を散策したりしてきたので、
たまたま今回紹介された『冬の糠平(ヌカビラ)湖』を訪れてみたい、
と思ったのである。




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東京の郊外は、『立春』に相応(ふさ)しく・・!?

2009-02-04 08:09:34 | 定年後の思い
暦の上では昨日は『節分の日』、本日は『立春』と明示しているが、
私の住む東京郊外の調布市は、春めいた陽気となっている・・。


まだまだ寒い日が続き

春とは名ばかりでまだ真冬のように寒く

冬来りなば春遠からじ

梅の莟(つぼみ)のふくらむ頃となり

梅一輪一輪ほどの暖かさ


このような時節を平年であれば、時候の言葉として綴れるが、
平年以上の暖かい日々が続いているので、
戸惑っているのである。

昨日の日中、買物に行った時は、春の陽気となり、
暖かい陽射しにつつまれて、早くも春かしら、
と感じさる3月中旬の穏やかな日であった。

我家の主庭は白梅、日本水仙は3分咲き、白玉椿(シラタマ・ツバキ)は満開となり、
私の64歳の汚れたきった心と違い、純白の彩(いろど)りにつつまれている。
そして、庭の隅にある藪椿(ヤブ・ツバキ)濃紅色の花が、
昨年の年末からひっそりと咲いている。

このような情景を眺めながら、綴っているが、
心の隅では、このまま春になったならば、
雪が舞い降る光景が観られなくなるので、雪恋しの私にとっては、
困ったなぁ、というのも本音である。

先ほど、地元の天気情報に寄れば、
朝の6時過ぎは4度の曇りであるが、日中は快晴に恵まれ、
昼下りは10度前後、そして夜の6時頃は8度前後が予測されます、
と報じていた。

私は玄関庭の満開となっている白梅の花を誉(ほ)めて、
夜のひととき月を眺めるのもよいかしら、と思ったりしている。



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年金青年、『節分の日』の雑学のあれこれ・・♪

2009-02-03 19:23:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生であり、
古来からの風習、文化などを、遅ればせながら学んでいるひとりである。

このような思いがあるので、たとえ『節分の日』でも、
何かと気になり、私が年金生活を過ごすうちに学んだりした雑学を、
恥ずかしながら綴ったりしているので、再掲載をする。


昨年の本日に於いては、
【 されど、『節分の日』・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
東京の郊外の調布市に住む私は、
今朝、スーパーのチラシを見て、少し驚いている。

『恵方巻』
今年の恵方は南南東。
恵方に向かってまるかぶり!

『節分いわし』
古来よりいわしの頭を焼いて、ひいらぎのとげやいわしの焼けた臭気で、
邪気が家に入るのを防ぐといわれています。

『節分そば』
旧暦では立春から年が明けるといわれ、
前日の節分にそばを食べて身を清め、
晴々しい気持ちで立春を迎える風習があったといわれている。

『節分豆』
豆まきに使う大豆は、
一説では鬼の目に打つ【魔目=まめ】、
魔を減ずる【魔滅=まめ】に通じるといわれています。


私の幼少時代、東京の郊外では『恵方巻』の習慣がなく、
西日本の文化のひとつの食べ物から、と思ったりしている。

『節分いわし』には、記憶がないが、
祖父の晩酌の時にニシン、イワシ、アジなどの大衆魚を食べていたので、
断言できるほど自信がない。

ひいらぎに関しては、この樹木は実家に多くあったので、
多分、父が神棚か、玄関脇に飾っていたかもしれない。

私は前日、このスーパーで一合枡に入った『節分豆』を購入してきたので、
ささやかに『鬼は外、福は内』と呟(つぶや)き、
私の晩酌の友に加わり、家内と適度に頂く程度である。

尚、このスーパーでは、
『節分サラダ』と称して、節分豆でトッピングしたサラダが掲載されて折、
家内と笑ったりしていた。

そして何より感心したのは、
老田酒造店 飛騨自慢『鬼ごろし』(辛口)であった。
《720ml 1、000円 数量限定》

このように掲載されて折、鬼退治には最適な呑み物かしら、
と私は微笑んだりしていた。

尚、『鬼ごろし』は、飛騨地方をはじめ、全国の各地それぞれにあり、
呑兵衛の私は旅行先などで愛飲している地酒のひとつである。

・・】



そして、一昨年の本日に、
【 節分の豆、鰯(いわし)、そして恵方巻・・♪  】
に綴ったりしていた。

【・・
先程、何時ものように買物に出かけたが、
冬晴れであり、マフラー巻けば寒さを感じないひとときである。

買物に出かける時は、スーパーであったならば家内がチラシに必須の品物として赤丸印を付ける・・。

私も赤丸印の品物を確認してチラシを見たりする。
『節分の豆』
豆まきに使う大豆は、一説では鬼の目に打つ【魔目=まめ】、
魔を減ずる【魔滅=まめ】に通じるといわれています。

『節分いわし』
古来よりいわしの頭を焼いて、ひいらぎの枝に刺し、家の入り口に差すと、
ひいらぎのとげやいわしの焼けた臭気で、邪気が家に入るのを防ぐと言われています。

『恵方巻(えほうまき)』
節分の夜にその年の恵方に向かって、
目を閉じて無言で太巻きをまるかじりすると、
幸せな年になると言われています。

今年の方位は《北北西》


このように綴られて折、私は思わず微笑んだ・・。

私は節分の豆は、50歳を過ぎた頃から年の数だけといっても食べすぎと感じているので、
年を重ねた昨今、省略して6粒ほど頂いている。

鰯に関しては、ときたま頂いたりしているが、
背黒目刺も美味しいけれど、中羽目刺も欠かせない。
迷っているが、特に鰯は目が生きているような状態が全てであると思っている。

恵方巻については、東京の郊外では食べる習慣はなく、
関西寿司のような風味かしら、と思っている。

帰宅後、家内は1本巻を半分程に切った後、磁石を取り出して、
『北北西は・・こちらの方角かしら・・』
と煎茶を飲みながら、呟(つぶや)いたりしている。

そして半分程を食べはじめたので、
『夜に食べないと・・願いが叶(か)わないよ・・』
と私は言ったりした。

『解かっています・・半分は夜に頂くから・・』
と家内は微笑みながら、言ったりした。

私は東京の郊外で幼少から育っているので、寿司は江戸前しか頂かないので、
恵方巻を見詰めると婦女子の食べ物と感じたりしている。

・・】


そして私は明朗なB型であるので、一昨年の同日に、
【 『節分の日』、なぜ鬼がでるの・・?! 】
と題して、たわむれに投稿したりしていた。

【・・
東京の郊外は、本日、明日は冬晴れとなっるので、
数多くのお方達はお休みでご家族でのんびりと過ごされるのかしら、
と朝の陽射しを受けながら感じたりしている。

本日は『節分の日』と云われいるが、
何故この時に【福は内! 鬼は外!】と叫びながら豆を撒(ま)くの、
と思ったりした。
何より、鬼がどうして登場したのか、歳を重ねた私は改めて、思いをめぐらしたりしている・・。

私なりに調べ上げたので、最も解かりやすかったのは、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』であった。

無断であるが、転記させて頂きます。

【・・
立春の前日の2月3日に行われる『節分』は、
古代の中国にあった『追儺(ついな)』という行事が、形を変えたものだと云われている。
追儺とは、熊の皮をかぶって、金色の目玉が四つも付いた面をかぶった呪者が、
手に矛(ほこ)と楯(たて)を持って、疫病や災害を表す鬼を追い出す行事だったという。

それが日本に入ってきたのは、7世紀の飛鳥時代。
日本では『鬼やらい』とも云われるようになった。
『やらい』とは、追い出すことである。

8世紀の平安時代から、新年を迎える宮廷の行事のひとつとして、
大晦日に行われるようになった。

【慶雲3年(706年)に疫病が流行ったので、宮廷で鬼やらいをした】
という記録があるので、何か特別な事情があれば、
普段でも行われていたかもしれない。

このような形の行事が、次第に神社や仏閣に広がって、
鎌倉時代が終わる14世紀前半まで、延々と600年以上に亘(わた)って続けられたのである。

室町時代になると、鬼やらいは民間でも観られるようになり、
鬼に扮装した人を追い出す芸能形式のものと、
枡(ます)に入れた『炒(い)り豆』を撒く形式のものと二分された。

干支(えと)に当たる『年男』が撒いた豆を、年の数だけ食べる様式が成立したのも室町時代からのこと。
この豆撒きもまた中国から伝来した風習だといわれているが、
『まめ(健康)になる』という語呂合わせから、豆が撒かれたという説もある。

このような行事が『節分』と呼ばれるようになったのは、
文字通り『季節を分ける』行事だったからである。
つまり、鬼を追い出す行事は立春の前日だけでなく、
立夏、立秋、立冬の前日毎に、年に4回も行われるようになった。
また、芸能形式のものは衰えて、手数のかからない豆撒き形式が中心となっていった。

・・かつての節分は、病気と災厄を逃れる為の神聖な儀式であったことが解かる。
時代が下ると、今のように立春の前日だけに行われるようになったが、
それでも室町時代と同じく『福は内、鬼は外』と叫んで豆を撒く行事は、
暗鬱(あんうつ)な季節を過ごして春を迎える、
重要な節目であり続けたのである。
・・

以上、長々と転記させて頂きました。


私はこの歳になって、初めて由来を知った訳であるが、
多くの日本文化の伝統は、室町時代にほぼ完成をしているが、
この『節分』もひとつか、とも改めて教示を受けたりしている。

・・】


このように戯れに綴ったりしていたが、
こうして読み返して、何より私が独り微苦笑したりしているのである。




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されど、私の『節分の日』豆まきの想いで・・♪

2009-02-03 08:22:12 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む私は、
早朝にカレンダーを眺めていたら、『節分の日』と朱字で明示されて、
私は苦笑したのである。

私の住む地域に地域に於いては、
古くから煎(い)った豆をまき、その人なりの年齢の数だけを食べると、
邪気を追い払い、病気にもならない、と伝えられている。

私は年金生活の五年生の64歳で、家内と2人だけの家庭であるが、
人の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手であり、
自宅で豆まきをする元気もないのである。

せめて、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求め、
私は晩酌の時、64粒は多すぎるので、6プラス4で、
10粒ばかり頂く予定である。

このように思ったりしているが、私の幼年期の頃、
そしてサラリーマンの現役の頃は、私なりに思い出がある・・。


幼年期の頃は、
【 『節分の日』豆まきの想いで・・♪ 】
と題して、2008年2月3日に於いて、あるサイトに投稿していたので、
再掲載をする。

【・・
私は昭和19年に東京の郊外で農家の子として生を受けたが、
私の幼年時代の頃は、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、村の住民で維持管理されている小さな神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の七時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言っていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と叔母が私達に云った。

私は、7つだけか、と云いながら、
兄達の手には私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとひとつ余計にとった。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげな年であったが、
翌年の早春に父、晩春に祖父に死去され、我家は没落をしはじめた・・。

・・】


そして、サラリーマンの現役時代には、
【 真夜中の豆まき・・。 】
と題して、あるサイトに2005年2月3日に於き投稿していたが、
再掲載をする。

【・・
10数年前の頃だった。

私はサラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。

洗面所で顔を洗い、パジャマ姿になると、12時近かった。

家内が
『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』
と云った。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、
と素直に納得出来なかった。

『今からでも、遅くない』
と私は云って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうような仕草が遠くからも解かった。

しかし、よきことの行事に対しては、
ご近所の皆様からは、クレームがなかったと、
後日に家内から聞いたりした。

・・】


このような私なりの思いでがあったが、
心の隅に残って折、この時節になると、思い出しながら苦笑したりしている。



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改めて、『愛しき日々』が流れた頃・・♪

2009-02-02 18:02:03 | 音 楽
午後のひととき、私は音楽棚からCDの背文字を眺めながら、
ときには堀内孝雄の歌声も聴こうとし、
『堀内孝雄 ベスト・ソング集』のアルバムを取り出して、聴いたりしていた。

そして、あんな時代もあったなぁ、とその時代に思いを馳せたりしていた・・。

私はあるサイトに於いて、
【 『愛しき日々』が流れた頃・・♪ 】
と題して、2006年2月5日に投稿したことがあるので、再掲載をする。

【・・
堀内孝雄氏の歌った『愛しき日々』が街に流れた頃は、
確か昭和62年の春だったと記憶している。

前年の歳末のテレビ時代劇『白虎隊』の主題歌に使われ、
作詞は小椋 佳氏、作曲は堀内孝雄氏だったと思う。

この頃のレコード業界は、おニャン子ブームが席巻し、
中年のサラリーマンの慰めは、この『愛しき日々』と
テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』ぐらいだったと思う・・。

日米の経済摩擦があり、中曽根内閣の時代だった・・。

日本の企業は改革をし、多くのサラリーマン達は、時代に翻弄した時代だった・・。

私も経費削減で業務の見直しをしたりして、会社事態も苦境に立たされている時だった。

そのような中で、この『愛しき日々』の歌詞が、
中年のサラリーマンとして、心に沁みた・・。

♪風の流れの 激しさに
 告げる想いも 揺れ惑う
      ・・・

【『愛しき日々』 作詞・小椋 佳、作曲・堀内孝雄 】


この歌を街角から流れ、
聴きながらそっと涙を浮かべたサラリーマンは、数多くいたのではなかろうか・・。

いつの時でも、その時代に翻弄されるサラリーマンの多くは存在する。

・・】


このように私は綴ったりしていたが、昨今の経済の悪化で、
多くの方たちが翻弄されるニュースを視聴したり、
或いは新聞で読んだりする時、
私は民間会社を定年退職した年金生活の5年生の無力な身ながら、
ため息ばかりすることが多いのである。



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心の発露は、言霊(ことだま)の力を信愛し・・♪

2009-02-02 10:10:00 | 定年後の思い
私は民間会社を定年退職して、まもない時にブログの世界を知った。
そして私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、
5年生となっている。

私は年金生活を始めたのであるが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことを
心の発露の表現手段として、写真、絵とかの素養もないが、
何より言葉の力を信じて投稿してきたのである。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。

その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて苦心惨憺とすることも多いのである。

このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。


たまたま昨年の今頃、
【 私が初めて文章を綴ったのは・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿していたのであるが、再掲載をする。

【・・
私は昭和19年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、シナリオとか小説の習作していたが、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となった。

・・】


このように幼い文章で綴っていて、苦笑したりしている。

私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に国文学を専攻した後、最終として大学教授になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。

人生は無念ながら2度とない、と古人からの伝え通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿する。



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我家の白梅は、満開となり・・♪

2009-02-01 14:42:37 | 小庭の情景を眺めながら
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
玄関庭にある白梅が満開となっている。

主庭は隣家のマンション影響で、この時節は半日ほど陽影となっているので、
白梅は膨らんだ莟(つぼみ)であり、紅梅は固い莟の状況である。

先ほど、玄関庭に下り立ち、
昼下りの陽射しを受けた白梅の花が、ときおり微風が吹くと、
かすかに花びらが揺れて、まぎれない美を私は感じたりしている。

朝方は清麗を感じ、昼下りの陽射しの中では早春の訪れを実感し、
夜の薄闇の中に白き花が浮かんだりした情景を眺めると妖艶さも感じさせる
多彩な花であるが、
私は四季折々の花木の中で、特に魅了される花のひとつである。


このような思いになると、私は俳句を詠(よ)む素養はないが、
たわむれに一句を脳裏に浮かべたりしたのである。


凛(りん)として ほのかに匂ふ 梅の花


たわむれで詠んだが、拙(つたな)さがあり、
やはり私は散文で綴る方がよい、と微苦笑したりしている。
そして、煙草を喫いながら、早春の陽射しを受けた花びらを眺め、
心酔しているのである・・。



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『睦月(むつき)』に別れを告げ、そして『如月(きさらぎ)』を迎えて・・♪

2009-02-01 08:58:39 | 定年後の思い
昨夜、カレンダーを一枚破り、『睦月』に別れを告げ、
『如月』と大きく明示されのを見ながら、こんにちは、と心の中で呟いたりした。

そして、過ぎ去った正月以来が早かったと改めて感じたりした。
家内の母に私達の家に年末より来て頂き、新年を共に迎え、
中旬の私の母の命日の前には、私達夫婦は妹の2人と共にお墓参りをしたりしている。
これらのことは、毎年の恒例と4年ばかりとなっている。

昨日は、『平成20年分 所得税の確定申告』を
国税庁のネットの『確定申告書等作成コーナー』を利用し、作成したりしていたが、
医療控除以外は短時間で出来たりした。
このことも年金生活に入ってからは、この時節は恒例となったりしている。


あとは家内が、一度は奈良の『若草山 山焼き』を観たいわ、
と要望したので、私としては50年ぶりに、
家内と共に奈良に1泊2日のある旅行会社の企画された団体観光ツアーで訪れた程度である。

そして、わずか『西大寺』、『若草山 山焼き』、『長谷寺』、『室生寺』と観た限りであり、
雪の舞い降る中を歩いたりしたが、積雪が数センチある処はなかったのである。

こうして綴っていると、私の住む東京郊外に於いては、
今年の一月の『睦月(むつき)』は、雪の舞い降ったことがなかった、
と改めて気付いたのである。


2月は、古人から『衣更着』とも表示され、
ときおり早春の暖かな陽射しに恵まれた日もあるが、
寒さが厳しい折、突然に寒風となり、更に重ね着をされるので、
このよう表現になったと思われる。

別名称としては、梅見月、雪消月、木芽月とも綴られることもあるが、
私はこの時節は、梅見月が好きである。

早春のひととき、遊歩道、公園、付近の住宅街、旧街道を散策し、
冬木立、早春の花を誉(ほ)めながら歩き、
今年も花、芽吹きに巡り逢えた、という実感が好きなのである。

東京の郊外は、早朝は6度程度で、澄み切った青空となって折、
風もなく朝の陽射しをまぶしげに受けている。

日中は10度の陽気に恵まれ、
私は買物、散策で早春の陽射しにつつまれて、
あの椿(ツバキ)は、梅の莟(つぼみ)は、
と季節のうつろいを観るのに私なりに忙しいのである。

そして、心の片隅では雪恋し、と思いながら、
せめてこの『如月(きさらぎ)』の時、天上の気候の神々にお願いして、
雪が舞い降り、積雪5センチ前後ぐらいはお願いします、
と身勝手に祈願したりしている。



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