夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

伊豆大島、過ぎし年のささやかな思い、そして今後の私たち夫婦の深い念願は・・。

2013-10-17 14:57:04 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、NHKのテレビのニュースを視聴していたら、
大型で強い台風26号は16日午前、勢力を保ったまま伊豆諸島付近や千葉県沿岸を通過した時、
伊豆大島(東京都大島町)に於いては 台風に伴う大雨で、
同日未明に観測史上最多の1時間に122・5ミリの記録的な雨を観測し、土砂崩れなどが発生。
警視庁や大島町によると男女13人が遺体で発見され、43人と連絡が取れなくなっている。
このようなことを報じていた・・。

私はテレビの画面を見ながら、少し動揺を重ねたりした。
やがて過ぎし年に伊豆大島に訪れた旅路の情景、
そして私たち夫婦が今後に深い思い秘めて伊豆大島に訪れることを思い馳せたり、
複雑な思いを交差させたりした・・。
          

私が初めて伊豆七島のひとつの大島に訪れたのは、1960〈昭和35〉年の夏で、
高校1年の夏休みを利用して、初めて独りで旅行に思い立った・・。

夜、東京湾の確か晴海埠頭(はるみ・ふとう)だった記憶しているが、
ここから乗船し、早朝に伊豆大島を訪れた後、
午後に出航する観光船で、伊豆半島の下田港に向かい、下田にある観光旅館に宿泊する。

そして翌日は伊豆半島の西岸を観光周遊バスで、名所に立ち寄りながら北上し、
修善寺にある観光旅館に宿泊した後は、
三島まで私鉄を利用し、国鉄(現在・JR)で東京駅に帰京するプランであった。

このプランは、ご近所の旅行会社に勤めていた方から立案して頂き、
クーポン券のような周遊券を持ちながら、予約済の観光ルートめぐる旅であった。

私は旅行鞄のボストンバックを提げて、
白いワイシャツと黒の長ズボン、革靴と通学とまったく同じ様な学生服の容姿で、
東京の晴海埠頭から東海汽船の観光船で、伊豆大島行きに乗船した。

確か夜の10時に出航し、翌朝の4時前に大島の岡田港の沖で着いて、
島の朝が動き始める6時頃に入港した、と記憶している。

この間の乗船していた時は、仕切りのない大部屋のゴロ寝のような感じで、
私は大部屋の片隅に横たわり、旅先の盗難を警戒していたのでボストンバックを握りながら、
不安げに眠れない深夜を過ごした。

岡田港に下船した時、高波警戒の注意報の掲示板があり、少し不安げに私は見つめていた。

私は午前中に大島の観光バスで半日周遊観光をした後、
午後、元町港から下田港行きの定期航路の観光船に乗り、そして下田の観光旅館に予約済みであった。


このような思いがあったので、高波警戒の注意報が気になり、
うつろな思いで、初めての伊豆大島の情景を車窓から眺めていた。

半日周遊観光の終点は元町港であったが、
下田港方面は本日欠航、と私は掲示板を見て、小心者の私はどうしょう、と内心うろたえたのである。

しばらくした後、下田港、伊東港は欠航、
熱海港は午後2時過ぎに出航、と報じられた・・。

私は予期せぬ周遊で、熱海港行きの定期観光船に乗船したが、
観光客で満席となり、私は客室に入らず、
ボストンバックを握り締め、サン・デッキ付近の小さな椅子に腰掛けた。

空一面は、わずかな雲で快晴の青空が拡がり、私は燦燦と照り昼下りの陽射しを全身に浴び、
果てしなく海原が広がる情景を眺め、そして潮風を受けながら、
私は心身爽快な心となった・・。
          
この当時は、私にとっては苦手な俳優の加山雄三が演じた若大将シリーズ映画が、
盛んに映画館で上映されていた時代であった。
そして海に魅了される人たちの思いも解かったような心情となった。

わずか1時間半ばかり航路であったが、
熱海港を下船後、私は東海バスの下田行きの路線バスの乗車場所を何とか探し、
乗り込んだのである。

この当時は、伊東から下田までの伊豆急行が開通前の時期で、
鉄道の施設の工事を盛んにしていたので、埃りっぽい中をバスで南下したのを、
おぼろげに記憶している。

下田に着いた後、予約した観光旅館を探し当て、
大浴場で心身を清めていたが、余り疲れを感じることなく、
何とか予約した観光旅館に着けた、という思いが強く、安堵したのである。

この後の周遊は、予定通り順調であった。

私は16歳をまもなく迎える前、独りで初めての旅行をし、
今となっては、愛惜ある旅のひとつとなった。
         

この後は私が50代の前半、夏季休暇の時に、
家内が海を観たいわ、と言ったりしたので、近場の熱海でビジネスホテル風の観光ホテルに二泊して、
初島に観光船で往還したり、或いは大島に日中の大半に訪れたりした。

この時の大島の島内に於いては、私たち夫婦は三原山の遊歩道を歩き廻ったり、
リス園があり、動物好きな家内はリスの餌(えさ)を幾度も買い求めて、
係員さえも驚き、私は少し離れた所で苦笑したりした。


そして定年後の年金生活の中、2009(平成21)年5月10日から1泊2日の『新島』を訪れた。
家内と共に東海汽船の謝恩企画により、破格に廉(やす)い1泊2日の短かき旅で、
伊豆七島のひとつの新島に初めて訪れた・・。

もとより伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島である。

この東海汽船の謝恩企画としては、高速ジエット船の『セブンアイランド』で往復し、
この間に大島に30分ぐらい寄港し、
私たち夫婦は過ぎし年の大島に訪れた旅路を談笑したりしていた。
          

私たち夫婦は、ここ12年ぐらい『樹木葬』のことを幾たびか話合ったりしている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
と言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見であり、家内も賛意している。
どちらかが四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、と信念を共有している。

そして残された人は、温泉滞在の帰りの気が向いた時、お線香の一本でも良いと思っている。
          
こうして私たちは、『樹木葬』を執り行って下さる日本の各地を定年後の9年間で探し求めてきた。
こうした思いの中、念願の候補として、5年前頃に伊豆大島にある、知った。
http://www.miraien.jp/00miraien-index.html
☆【 千の風 みらい園 】公式ホームページ☆

そして私たち夫婦の主旨に合致し、調布市に住む私たちは交通にも利便性があり、
今年の晩秋に訪れて、私たちが思案してきたことと合致したら決定しょう、と夏の間に、
話し合ったりしてきたのである・・。
          

今回の伊豆大島の大災害を昨日の夕方、家内と共にテレビで視聴し、
観測史上最多・・とかは幾たびも到来することもないし、
まして三原山が噴火することなどは幾百年に有るか無いかであるし・・
このような意味合いの言葉を私は家内に言ったりした。

そして私たち夫婦は、今回の大被害が落ち着き平穏になった頃・・
来年の春の頃に伊豆大島にある『千の風 みらい園』に訪れよう、と話したりした。

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台風26号の災害に憂いながら、やがて現役時代の通勤時を思い馳せて・・。

2013-10-16 15:55:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の午前中のひととき、家内と共に銀行の貸金庫で用を済ませた後、
買物で最寄りのスーパーに立ち寄ったが、平日なのに私たちのような買物客で混雑していた・・。

私は家を出る前の朝、地元の天気情報によると、
関東地方は9年ぶりの大型台風となる26号が来襲して、私たちの住む地域は午後より雨が降りだし、
夕方からは風を伴う激しい雨となり、明日の16日の午前中まで続きます、と報じられていた。

このような状況であったので、雨の降り前に買い物を済ませよう、
と多くの方が入店されていた、と私は理解したりした。

やがてスーパーを出ると、小雨が降りだしていて、
『予定より少し早く降りだしたねぇ』
と私は家内に言ったりした。

そして夕食を家内と共に頂いている時、NHKのテレビの台風情報を視聴したりした。
やがて今回の台風で日本の各地で多大な被害などに伴い、各地で避難指示、避難勧告の状況を知り、
無力な私はお気の毒にと憂いたりした。

そして漁業、農業、果樹園、運送などに携わる方たちはもとより、
対策される道路、鉄道、消防、警察などの関係者は労苦が多く、
特に災害救助に対応される自衛隊の諸兄諸姉も職務といえ大変だ、と私は見たりしていた。
          

今朝、ときおり激しい雨脚、強く吹く風の音で、私は目覚めた・・。
やがて、NHKのテレビの台風情報を視聴すると、
伊豆大島は観測史上初めての暴風雨に伴い、多大な土砂崩れの災害に私は動揺したり、
各地の公共機関の電車の運休や大幅な遅れで混乱する中、
働いて下さる諸兄諸姉の多くが、通勤する時の困惑した表情を映しだされてたりしていた。

私は現役時代は都心にある職場に通ったサラリーマンのひとりであったので、
現役の諸兄諸姉は、通勤の最中、お気をつけて出社されるように、と願ったりした。

このような情景を見たりしたせいか、私の現役時代の台風の時、
通勤していた時の状景が思いだされた・・。
          
確か17年前頃、朝、目覚めると風が強く吹いて、雨は強く降っていた。

こうした時はバス、電車は通常通りの運行期待する方が無理なので、
何時もより30分早めに家を出たりした。

勤務先の最寄駅までは順調であったが、会社までの川沿いの幅広い遊歩道を歩いていた時、
風は相変わらず強く、雨は横殴りとなっていた。

会社に着いた頃は、10分足らずの道のりであったが、
スーツのズボンは膝頭から足元、靴はびっしょりと濡れた。

私は自分の席に着いて、ハンドタオルで拭いて、この後、洗面所に行き、身支度を整え、
そしてフロアーの通路にある自動販売機でお茶缶を買い求め、
窓辺に寄り、川沿いの遊歩道を見下ろした。

前方の対岸は、なだらから丘陵となっている斜面に、
数多くの小さなビル、商店街、そして住宅街から雨水が、道路際の排水溝、路上から流れていたので、
川の側面にある1メートル前後の大きな排水口は、瀧のような川になだれ込んでいた。

川べりの遊歩道の樹木の枝葉は、強く風を受けて、しなっていた。

私は、台風の直撃かしら、と感じながら、やがて席に座り、業界紙を読み始めた。

始業時の25分前だった。

この当時の17年前頃は、私の勤めた職場の状景としては、私のように振舞う人が、各部署で数人はいた。
          

退社後の台風の時、鮮烈な記憶のひとつとして、私が31歳の時であった。
この当時は私たち夫婦は新婚生活を始めた年で、
東京都と千葉県の間に江戸川が流れ、川沿いの千葉県側の京成線の国府台駅の近くの賃貸マンションに住んでいた。

この当時は会社の最寄駅は六本木であり、
地下鉄で『六本木』から『東銀座』、その後は『押上』から『青砥』、そして『国府台』まで、
通勤時間は自宅から45分ぐらいであった。

そして台風が来襲した時、夜9時過ぎに退社後、
京成線の『青砥』駅までは平素より多少は混む程度であったが、
この先の千葉県のある箇所の線路に倒木があり、『新小岩』駅まで行けるが、その先は不通となった。

やむなく私は、『新小岩』駅で下車して、
JRの『小岩』駅までの未知の歩道を、雨が激しく降る夜道を15分ばかり歩いた。

そしてJRの『市川』駅で下車した後、風が強く吹く豪雨の中、
傘を差しても余り効果がないねぇ、と零〈こぼ〉しながらも、新妻の待つ我が家に20分ばかり歩いた。

もとよりスーツ、靴、そしてビジネス・バックはズブ濡れとなり、
何とか自宅にたどりついたが、
家内は、私の全身シャワーを浴びたような容姿に、驚きながらも笑いだした・・。

このような台風の通勤、退社後、ささやかな思いでを私は秘めている。

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年金生活9年生の中、私が何よりも困窮したこと、或いは喜びを感じたことは・・。

2013-10-15 15:01:50 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む69歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを見ると、まもなく20日の日曜日は私の定年退職の記念日と思いだし、
丸9年の年金生活が過ぎて、早くも10年生に進級となる、と思ったりした。
そして過ぎ去り歳月は、実に早いなぁ、と微苦笑を重ねたりした。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて定年退職したのは、2004(平成16)年10月20日であった。
そして定年退職後、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

こうした中、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

我家の生計は原則として、厚生年金とわずかな企業年金を頂いた範囲で日常生活を営んでおり、
冠婚葬祭、思いがけない出来事、そして私たち夫婦の共通趣味の国内旅行に関しては、
程々の貯金を取り崩して過ごしている・・。

そして私たち夫婦は毎年の年末年始のひととき、
思いついた耐久商品などの予定、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、
概算予算の年次計画を作成している。
そしてこれに基づいて、月次予算も割り当てをして作成し、
毎月の月末の前後に使った実績を入力し、今月も赤字だったょねぇ、と私は言ったりして、
家内は微苦笑したりすることが多い。
          
年金生活をしていると、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は何かと気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしている。

たとえばテレビに関しては、恥ずかしながら、
一昨年の2011年の夏頃にアナグロテレビ放送は廃止に伴い、やむえず数が月前の5月に、
デジタル対応の薄型テレビ、そしてブルーディスクの録画機を買い求めたりした。

こうした中で、私が何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内が、
パソコンは半永久的商品よねぇ、と確信したように思い続けていることである。


私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、パソコンは幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、積み立てきた個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったする。

こうした根底には、故障もしていないパソコンを買い改め費用があったならば、
国内旅行で、旅先の滞在日数を増やしましょう、
と家内が私に提案することが予測されるので、私はパソコンの予算計上をためらったりしてきた。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが予告もなく突然に故障したりすると、
どうしてなのょ、と私はパソコンの画面を眺めて困惑した体験をして、
やむえず定年後の9年間に於いて、2度ばかり買い改め購入したりしてきた・・。
         

私の定年退職時が2004(平成16)年の秋であったが、
この3年前の2001(平成13)年の秋に、定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

あるメーカーの市販の上級のクラスの機種を選定して、プリンターも新調し、
これだったならぱ10年ぐらいは大丈夫かしら、と思ったりしていた。
そして民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

やがて念願の定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私が無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006(平成18)年9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに、どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅することをなり、
私は困窮した・・。
我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時はブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いていたので、返信が出来なく、半日以内に必ず返信していたので、
相手のお方は戸惑うと思い、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がない、と困苦したりした。

この修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

そして修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円にため息をしたのである。
そして我が家の予算計上にしていないので、困り果てた・・。
この帰路、25万円・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。
          

そして待ち焦(こ)がれたパソコンの量販店の技術者が予通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、家内にどう説得するかであった。

私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、多事多難の対処には鍛(きた)えられ、
こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。
家内が冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったのを、思いだしたりした。

私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・冷蔵庫、洗濯機でも耐久商品といっても・・7年ぐらいで・・
我家は新しい物に代えているよね・・』
と私は優しく家内に言った。

そして、この機を逃さずに更に、
『パソコンの修理代・・10万円を超えるみたい・・
パソコンなんか、ここ10数年でどの家庭に急激に普及してきたから・・
昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。

結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。
          
こうした私としては苦く辛い体験をし、その後の3年後も液晶画面の寿命で、
やむなく部品交換して、パソコン不在の2週間ばかり過ごしたりしてきた。

こうしたことが、年金生活の中で何よりも困窮したことであった。

このような事情を秘めてきたが、現在愛用しているパソコンは、
遅ればせながら、基本ソフトの主流のウィンドウズ・セブンを搭載した新機種を買い改めたのが、
一昨年の2011〈平成23〉年の6月であった。
          
そして情報量は限りなく増大する昨今に、やむなく外部ドライブ装置として、
ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させて、現在に至っている。

そして私はこれまで愛用してきた『XP』は、予備用として利用することに決めた。
以前にパソコンが故障して、修理期間の2週間において、
パソコンのない空白の『パソコン迷子』になった寂しい体験があったからである。

或いは、私が家内に旅行関係のネット検索を初心者用にやさしく教えた結果、
ときおり家内が、旅行関係のネットの検索をするようになった。
家内は徹底的に調べるタイプなので、我が家の一台のパソコンは家内の独壇場となったりした。

このような目的を秘めて、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『XP』と新たな『セブン』を当面2台のパソコンを置いたりしているので、
ときおり私は微苦笑する時もある。
          
            === 昨年の晩秋、我が家の居間にある雑然としたパソコンの周囲をたわむれで撮った ===


こうした辛い体験をしてきた私でも、年金生活の中で喜びもある。
私は過ぎし9月下旬に満69歳を迎えたばかりであるが、60代の9年間を振り返れば、           
私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができることに感謝したりしている。

そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
年金生活の最大の恩恵かしら、と私は微笑んだりしている。

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何かと単細胞の私、ときには熱愛すれば、物狂いのように夢中になり・・。

2013-10-14 12:41:22 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そして自主的に日常の買物担当となり、殆ど毎日のように独りでスーパーなどに行ったりしている。
こうした時に、住宅街の中の道を歩いたりし、
その後は川沿いの遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
その時に感じたり思ったりしたこと、或いは思索したことなどを心の発露として、
このサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。

日常の大半は随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりして過ごしている。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
          

本に関しては、小説、随筆、歴史書、現代史が圧倒的に多く、
一昨年の2011年3月の東日本大震災後、心を新たにして5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。

映画の場合は、VCT(ビデオカセットテープ)、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
ときおり選定し、居間で観賞してきたが、
過ぎし2週間前から、これから観ない作品だったら、と家内の言われたりして、
やむなく半分ほど整理したりしてきた。

音楽については、たまたま私は音楽業界のあるレコード会社に勤めた影響で、
レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、そして映画館で名画を観たりしたので、中々捨てきれないのである。
しかし、本と映画は、これからの老後を配慮し、一昨年の4月より断腸の思いで処分した。


こうした中で、ときおり過ぎし日々のことを思い馳せたりすることもある。
そして、誰しも同じような体験があると思われるが、
これまでの人生で、私は熱病のように無我夢中となったりする時があった。

一時的な3ケ月前後で終わることが圧倒的に多いが、
少なくとも1年以上続き、やがて平熱になった時に振り返った時になど、
我ながら、そんな時代もあったねぇ、と微苦笑したりする。
          
音楽の場合は、1971(昭和46)年にシャンソンのバルバラに瞬時に魅了され、
その後は金子由香里さんを盛んに聴いていた。
この当時は、もとよりレコードが主流であったので、
アルバムを買い求めて、擦り切れる程度の少なくとも百回以上聴き惚れていた・・。

そして1964(平成元)年の少し前の頃には、
シンガー・ソング・ライターの中島みゆきさんを偶然に聴き、
カセット、CDはもとより、随筆、そして評論集まで購読し、
私の人生の幾たびの苦境の時に、3曲から救われ、今でも私の秘かな女神となっている。

そして1997(平成9)年の頃に、ハードロック・グループの『X JAPAN』をテレビで観て、
この当時52歳の私でも瞬時に魅了され、
帰宅するたびに殆ど毎晩、2時間ぐらい聴きこんだりしていた。


映画に関しては、小学4年生の頃から独りで、
たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
この間、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、古本屋まで行って買い求めたりし、
一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だとデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。
この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。
確かな根拠はなく自信ばかりで、純文学の新人コンクールに応募したりしたが、
当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、こうしたことを三回ばかり繰り返し、
もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向したのは、
1970(昭和45)年の春であった。
                              
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、
浅田次郎の各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004(平成16)年の秋に35年近く勤務し定年退職した後、
単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は長らく愛読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人のように愛読している。


私は幼少の頃から根は単細胞の性格のためか、ともかく惚れこんだら命がけの恋と同様である。
私は少年の頃から、なぜかしら女性に憧憬する癖があり、
青年の頃には失恋も多かったが、ときには相思相愛で無我夢中で、恋い焦がれて時もあった。
         
私は映画、文學、音楽、そして愛(いと)しき女性にも、
熱愛している時は、この世の中、あなたしか視(み)えない、というように、
時を忘れ、ときには食事も忘れ、寝る間も惜(ほ)しんで物狂いになったりしてきた。

恥ずかしながら、齢を重ねても私の悪い癖は、ときたま活火山のようになるので、
もとより理性などの平常心は吹き飛んで、心酔を重ねることが多い。

そして、病気は治療すれば殆ど治(なお)るが、癖(くせ)は治ることは少ない、
と格言があるが、ときおり私は理性のある人に何歳になったらなれるの、と思ったりすることがある。


いずれにしても私のつたない感性の上、『てんぴん座』で血液型はB型のなせる性(さが)と思いながら、
この広い世の中で、偶然に目に留まったり、めぐり逢えたり、聴いたりした人々の方たちである。
そして、敗残者のような私は、悔し紛(まぎ)れに私なりの人生の心の宝物と思ったりしている。

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東京郊外に住む私、『半袖』に別れを告げ、『長袖』にお久しぶり、と呟きながら・・。

2013-10-13 16:06:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の日中は東京都心は午後1時に31・3度を記録し、
1875年の統計開始以来、最も遅い真夏日となった、と夕方のニュースで知ったりした。

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、
63年近くこの地に住み、都心に近い地域であり、
昨日の突然の真夏日の熱さに戸惑いながら、日中の大半は我が家で扇風機に寄り添ったりした。

そして夏の半袖のスポーツシャツで、どうしてなのょ、と空を見上げたし、
天上の気候の神々の采配に戸惑ったりしていた。

やかて夜は、半袖の夏用のパジャマを着て、深夜まで本を読んだりした後、布団にもぐったりした。

今朝、ぼんやりと7時過ぎに目覚め、小庭のテラスに下り立つと、
暑さに苦手な私でも、涼しい過ぎ少し寒いじゃないの、と半袖の夏用のパジャマで感じたりした。

そして居間に戻り、地元の天気情報を視聴すると、
朝の6時は14度、昼下がりは25度前後、そして夕暮れの6時は21度前後、
秋晴れの一日となります、と報じていた。

くしゃみを3回ばかりした後、昨日の朝からは10度低いので、
涼しい過ぎはあたりまえだ、と苦笑しながら私は洗面所に向った。

やがて家内と共にのなびりと朝食した後、
『XXちゃんさぁ・・悪いけれど『半袖』のシャツ、お別れだょ・・
今日から『長袖』のスポーツシャツにするよ』
と私は家内に言ったりした。
          

10時過ぎに平素の買物の専任者の私は、スーパーで家内からの依頼品を買い求め、帰宅した後、
本日はどのコースを散策しょうかしら、と少し思案した後、野川の遊歩道とした。

私の住む所は、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の辺鄙な処で、
住宅街で家並みが密集しているが、
自宅の近くに野川が流れ、この両岸に遊歩道があり、私は何かしら解放感を感じて、
上流に向かったり、ときには下流に向かったりし、
こよなく歩いているコースのひとつであり、本日は下流沿いとした。

          
この野川は川べりに小道があり、そして少し高い処の両岸には遊歩道があり、
私は少なくとも週に一度は、こよなく愛している遊歩道のひとつである。

               
                       
そして私は散策と買物の時は、昨日までは制服のような定番の服装として、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、スポーツシャツの半そで、ウォーキング・シューズとなり、
夏用の帽子を深めにかぶったりしてきたが、
本日よりスリー・シーズンのストレッチパンズの長ズボン、スリー・シーズンの長袖のスポーツシャツを
着たりし、秋の装いとした。

そして、いつものように紳士用の小物入れのB5サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
本日は、たまたまコンバクト・デジカメを首回りから下げて、颯爽と歩いた。

そして情景に瞬時に魅せられた時、立ち止まりデジカメで、
記念写真ねぇ、と心の中で呟(つぶや)きながら、移りゆく季節のひとときの情景を撮ったりした。

そして今回、10数年前に小公園のあるマンションが
10数棟あるゆったりとした敷地のはずれを歩いたりした。
                            
この後、このマンション群の中央の道の歩道を歩き、私は一枚を撮ったりした。

このマンションの情景が私は魅せられて、早や7年が過ぎている。
          
私は調布市の片隅で、雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
私たち夫婦は、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

しかしながら私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内に先立だれて、独りぼっちとなった時は、
やむなく自宅を処分して、小公園のあるマンションで独り住まいを思案している。

こうした状況の場合は、このマンション群の中で、こじんまりとした2LDKを買い求めて、
晩年期を過ごしたい、と思ったりしている所のひとつとなっている。
          

この後、私は再び遊歩道を歩き、対岸への橋を歩いたりした。
                     
しばらく野川の遊歩道を歩いていると、
隣接した処に世田谷区立の『きたみふれあい広場』と称された小公園があり、
私鉄の小田急の車両基地などの階上にある小公園で、
小田急のご厚意で、世田谷区が管理されている区立の公園となっている。
          
そして私は、2週間ぶりかしら、と思いながら入園し、階段の途中で歩いてきた遊歩道を眺めたりした。
この野川の遊歩道の周辺は、緑豊かな恵まれた地帯であるが、
この周辺も家並みが密集している住宅街であるので、私はやすらぎを実感できる数少ない所となっている。
          
園内を歩けば、秋晴れの陽射しが燦々とする中を歩いたり、或いは緑陰の所を歩き廻ったりした。
                    
私はこうした雑木の樹木に魅せられているが、
過ぎし日に家内と共に歩いていた時、あなたは農家の児だったから、
と私は言われ、確かに幼年期に農家の児として育てられたから、こうした情景にやすらぎを覚える、
と家内に応(こた)えたりした。

その後、園内を歩き、少し色づいた葉に見惚れたりし、いよいよ秋到来かしら、
と私は微笑んだりした。
          
私の住む地域は、毎年11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、朱色、紅色、黄色などに多彩に染めはじめ、
23日の『勤労感謝の日』の頃になると、周囲一帯までは朱色、紅色、黄色などに染めら錦繍(きんしゅう)の情景となる。

やがて葉が舞い散る中で公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せ、
そして周囲に黄色い絨毯を重なるようになるのが12月の『師走(しわす)』の初旬となっている。

こうした中なので、この時節は私は読書も中断して、付近を歩き廻ることが多いので、
あと一カ月過ぎれば錦繍(きんしゅう)の季節だよなぁ、と心の中で呟いたりした。
          
やがて園内の広場の中で、数多くの若きご夫婦が幼児、小学生の低学年と共に、やすらぎを得ている光景に、
私は人生の微笑みを頂き、そして燦々と照らす遊歩道を歩いたりした。

歩きながら川風が心地よく、何かと熱さに苦手な私は、秋到来に歓喜してスキップしたかったが、
人影が多いので、断念し帰宅した。

このように私は自宅の周辺の密集した住宅街をのがれるように、
緑の残された遊歩道、小公園、都立の公園などをひたすら歩き、日々を過ごしている。

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東京郊外は今年最後の30度前後の真夏日を迎え、私は微苦笑を重ねて・・。

2013-10-12 10:14:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり.
今朝7時過ぎに小庭のテラスに下り立つと、雲ひとつもない青空が拡がり微笑んだりした。

そして居間に戻り、地元の天気情報を視聴すると、
朝の6時は24度、昼下がりは30度前後、そして夕暮れの6時は23度前後、
澄み切った快晴により、洗濯にも最適、或いはお出かけにも良し、と私には聴こえた。

そして明日、明後日は朝の朝の6時は14度、昼下がりは25度前後、そして夕暮れの6時は21度前後、
快晴に恵まれる一日となります、と報じられていた。

そして単細胞の私は、今日の12日は今年最後の真夏日となるが、
明日よりは平年並みの秋めいた日が続くかしら、と何かと暑さに苦手な私は微笑んだりした。

そして働いて下さる諸兄諸姉の中で、平素は短期に成果を求められる多忙の中、
多くのお方は3連休となり、せめて休日の時ぐらいは、
ご家族でゆったりと自在にお過ごし下されれば、と思ったりした。
          

過ぎし日の8日は『寒露(かんろ)』ですょ、と私はカレンダーから教示されたりした。
古来より、草花に冷たい露が宿ると伝えられているが、旧暦時代の名残りであり、
現世の新暦に於いては、秋の長雨をまじえながら台風が過ぎ去り、
朝夕、肌寒くなるが、日中は秋晴れ、そして秋日和に恵まれ、さわやかな日が多くなる。

そして山里から里、やがて街へと落葉樹の色合いが朱色、黄色に染められる錦繍(きんしゅう)の季節となり、
この間、農作物の収穫も終えて、果実も実り、
こうした情景をテレビで視聴したり、スーパーの店内で見かけたりすると、
齢ばかり重ねた私でも、何よりの心の励みとなり、私は毎年みつめて微笑む時節であった。

そして私の住む地域は、朝夕は17度前後、昼下がりは23度前後の秋日和の日々が多く、
暖冷房のエアコン、ガスファンヒーターのお世話になることもなく、
移ろう秋の情景に心を寄せながら、散策、ウォーキングもでき、
もとより読書も良し、夜のひとときには月を愛(め)でることもできるので、
私にとっては快適な日々を毎年過ごしてきた。
          
しかしながら今年は、昼下がり30度近い暑さが続く日もあり、
どうしてなのょ、と私は空を見上げたりして、天上の気候の神々の采配に戸惑ってきた。

或いは4日、5日は最高気温が10月下旬のような18度となり、
5か月ぶりの20度以下の日となったりし、急激に下がるなんてエレベータじゃあるまいし、
と大いに戸惑ったりしてきた。

この少し前は9月28日、29日は快適な25度前後の秋晴れとなり、
私は付近を散策していると、幼稚園の近くからは、軽快な音楽と共に、園児の歓声が聴こえたりし、
幼稚園の可愛らしい運動会だ、と私は気付かされて微笑んだりしてきた。

こうして私はここ数週間は気温の定まらない日が続いたが、
明日の13日より、遅ればせながら秋本番のさわやかな日が続く、と私は微笑んだりしている。

☆☆ 追記(午後6時)☆☆
気象庁の公報に於いて、本日の12日は、太平洋の高気圧の勢力が強い影響に伴い、
東京都心は午後1時に31・3度を記録し、1875年の統計開始以来、最も遅い真夏日となった、
と報じていた。
私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、都心に近い関係なので、
確か31度を気温計は指針し、扇風機に寄り添い、夏のスポーツシャツの半袖で戸惑ったりした。

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三上 洋・著『無料ネットサービスは個人情報漏れに注意!』、改めて私は多々教示され。

2013-10-11 14:14:53 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の中の『ネット&デジタル』に於いて、
特に『セキュリティー』に関して、定期的に寄稿されているITジャーナリストの三上 洋さんの文を読んだりした。

今回は、『無料ネットサービスは個人情報漏れに注意!』と題された寄稿文で、
ネットに関して初心者の私は、そうですよねぇ、と再確認させられたり、
こうした思惑がネットの提供側にあったの、と多々教示された。
http://www.yomiuri.co.jp/net/security/goshinjyutsu/20131004-OYT8T00904.htm
☆【YOMIURI ONLINE】==>『ネット&デジタル』==>『セキュリティー』
       ==>『サイバー護身術 』==> 三上 洋・著作『無料ネットサービスは個人情報漏れに注意!』☆
          
私は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私と家内は、恥ずかしながら携帯電話も使えず、ましてスマートフォンも使えず、
やむなくインターネットは『フレッツ』の回線を通して、パソコンを利用している。

或いはフェイスブックとかモバイルパソコンに無縁で、無線のモバイル情報機器に遠い世界のようなことと思い、
このような稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。

こうした中で、我が家にインターネットの回線を導入したのは、
私が民間会社を定年退職した2004〈平成16〉年の秋の数か月前であった・・。

そして覚束ない若葉マークと称される初心者で、ネットの技量もなく、
ニュース、趣味の国内旅行などを検索したり、ブログの世界を知り、日々投稿したりしてきた。

このようにネットの世界も疎い身ながら、退職後の年金生活の中で、
ネットは急上昇するように加速化されて、あふれるネット情報の時代が到来している。
          
今回、三上 洋さんの寄稿文に於いて、特に後半部分を幾たびか私は読んだりした。
《・・
Googleグループや、FacebookやTwitterなどでの個人情報漏れが問題になっている。
無料のネットサービスは「ユーザーが提供する情報を利用すること」が収益となっていることを意識すべきだ。
・・(略)・・
無料ネットサービスでは情報の公開・利用が前提

このようなトラブルは、ユーザーや管理者の設定が「公開」のままになっていることが主な原因だ。
いわば利用者側の不注意なのだが、初期設定が「公開」になっているサービスが多いことも理由の一つと言えるだろう。
なぜ「初期設定が公開」なのか、それはネットサービス自体のビジネスを考えてみるとよくわかる。

たとえばGoogleは、あらゆるネットサービスを提供しているが、ほとんどは無料だ。
他社が有料で提供していたサービスを、Googleが無料かつ洗練された形で提供することで、
他社を圧倒して多くのネットサービスで優位に立っている。

ではなぜ、Googleは無料で様々なサービスを提供できるのか。
それはユーザーの情報、データ、履歴を利用してビジネスにする、もしくはお金にしようとしているからである。

たとえばGoogleでは、検索キーワードを基に広告を出している。
「葬式の費用」と検索すれば、それをGoogle側が読み取り、様々なページに張られているGoogleの広告(Adwords)で、
葬式関連の広告が出る。

同様のことはFacebookでも起きるし、Amazonでは過去の購入履歴を基に、お薦めの商品を表示する。
あなたの検索キーワード、投稿内容、購入履歴を基に収益を出そうと考えているわけである。
          

またビッグデータの活用もある。
ビッグデータとは、ユーザーの様々な行動履歴・データなどを集約して、ビジネスにつなげようとするもの。
多くの場合は個人を特定できない形で行われるが、
あなたが提供するデータや履歴が、ネットサービス側のビジネスにつながっていることは否めない。

このように無料ネットサービスの多くは、情報とデータを基にしてビジネスにしようとしているのだ。
いわば「情報が通貨」であり、より多くより具体的に情報とデータを集めたものがネットサービスの勝者となる。

そのため無料ネットサービスの基本的な発想は、
情報は利用するものであり、情報は公開されるべきものとして扱うことが多い。

結果として、多くのサービスでは「初期設定では公開」であり、規約では「データは自社の範囲内で利用する」と書くのが一般的だ。

ところが私たちは、まさか初期設定が公開だと思っていない。
プライバシーデータを扱うのだから公開ではないだろうと誤った前提で使ってしまっているのだ。
Googleでは今回のGoogleグループの問題だけでなく、
Googleマップの使用履歴の公開、ストリートビューなどでも個人情報公開が問題になった。

いずれもGoogle側は「公開・利用が当然」と考えていたから、このような現象が起きている。
          

無料ネットサービスでは慎重に設定を

Googleの各種サービス、Facebook、Twitterなどは、いずれも無料であり、初期設定は情報が一般公開となっている。
そのまま使ってはダメで、必ずプライバシー設定が必要になる。
細かい設定方法は、IPAの「インターネットサービス利用時の情報公開範囲の設定に注意!」でまとめられているほか、
この連載でも以下のように取り上げているので参考にしてほしい。

・Facebookに注意!「公開」はトラブルの元
・覚えておきたい「SNSの安全な歩き方」

どこまでが個人情報なのか? プライバシーの公開範囲はどこまで安全なのか? といった意識は、
時代と共に移り変わる。

以前は危険とされていた顔写真の公開も、Facebookの普及により抵抗感を感じる人が少なくなってきた。
それでもプライペートを何でも公開していい、業務のことを何でも書いていいというわけではない。
どこまでは公開して問題なし、ここは書いてはダメという判断基準を、個人それぞれが持つ必要がある。

FacebookやTwitter、ブログでの書き込み内容を改めて見直し、自分なりの基準を作りたい。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は定年後まもなくブログの世界を知り、パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性のように投稿を重ねてきた・・。

ブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
まさに10数年前の頃から、誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

こうした中で政治、外交、軍事、経済などの場合は、感情だけで吐露(とろ)すれば危険でもある。
たとえば、
   XX党は、うわべの平和を念仏のように発言し、平和ボケであり、国家の主権さえも欠落している。
   XX党は、財源の悪化を無視してまでも、福祉だけを最優先とする政策を掲げ、日本の衰退を招く悪質な党である。
  卑劣な悪質な犯行する方は、たとえ法治国家の日本であっても、即時に絞首刑にしなさい、
このようなことを私が記載すれば、もとより私の人格が疑われてしまい、
感情と理性の間を往還しながら、心の節度して平坦な発言の投稿文となってしまう。

          
しかしながら私自身、家庭、或いは生家の事柄に関しては、余すところなく表現してきた、
誰しも光と影があるので、ためらいながらもマイナスと称される影も私は描写してきた。
たとえば、
私の小学生の前半に、父や祖父が病死し、残された母や私たち兄妹は、貧乏な生活を一時期を体験したこと。

或いは、亡き母が40代の時代は、私たち兄妹の五人が何とか世間並みの生活にする為に、
ラブホテルのような連れ込み旅館を経営し、睡眠時間を削りながら、孤軍奮闘し、
私たち五人の子供は成人したこと。

又は次兄は自営業で、経済破綻して、自殺と称せられる自裁して、亡くなったこと。

そして私自身の場合は、大学を中退して映画・文學青年の真似事をして、やがて敗退したことや、
定年の五年前にリストラ烈風の中、無念ながら出向となり、定年時を出向先で迎えたこと。

このように私はこれまでの人生の歩みを吐露(とろ)しなければ、この先の人生を生きて行くことはできない、
と思い発露してきたのである。
          
このような思いで描写してきたが、もとよりブログは公表することであり、
1(私)対N(多くのお方)と思い、少しは抑制した表現となっている。
私の日常生活の中で、買物とか散策する外出の時は、少しは身なりを整えるのと同様に、
私のブログの投稿文は、外出着かしら、と思ったりしている。

               
これに反して、コメントの場合は、そのお方との個人的に心情で、
1(私)対1(相手のお方)のささやかな心の交流と思いながら、
私は本心を発露して綴り、相手のお方の返信にも本心が見え隠れし、微笑んだり、苦笑したりする。

まるで我が家の中で、リラックスした普段着のような感じなので、
コンントは、心の普段着かしら、と感じたりしている。
                               
或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

私は毎日のように数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこうした中で、感きわまってコメントをしたりする時もある。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。
          

このように私は個人情報としては、ブログの世界を主軸に活用しているが、
多くの方は携帯電話、スマートフォン、フェイスブックなどで個人情報を発信、受信しているが、
程ほどにご配慮して、ご活用して下さい、と願っているひとりである。

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『てんびん座』の私、占いの性格テストで的中され、幸運な星の下で過ごせて・・。

2013-10-10 13:46:03 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
昨夜のひととき、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
『ヴィジュアル占星学』とサイトに偶然にめぐり逢えた。
http://uranai.walkerplus.com/free/visual/
☆【占いWalker】<==『ヴィジュアル占星学』☆

私は齢ばかり重ねた身であるが、《 あなたはどんなタイプ? 》と明記されていたので、
つたない私でも誘惑に勝てず、こっそりと挑戦してみよう、と思いたった。
そして私は『男性』の『てんびん座』であるので、指定してクリックしてしまった・・。

私はテスト結果の『てんびん座(男性)の性格』を読んだりして、
どうしてこんなに当たるのょ、と9割方は的中されて、微苦笑を重ねたりした・・。
          
《・・クールであくせくしない、どことなく清潔感のある個性です。
すっきりしていてジェントルマン的身のこなしです。
相づちが上手で、相づちを打ちながら(つまり相手を受け入れていることを言葉で示しながら)、会話をします。
会話の中であまり「No」とか「でも」といった言葉を使いません。

ダジャレの名手で、言葉に非常に敏感。
言葉の暴力に非常に弱いが、一方ほめ言葉にも敏感。
(天秤座は、猿もおだてりゃ木に登る、どころか空も飛ぶ勢いです。)なので
天秤座を彼氏にしたら、常に態度でというより、言葉で褒めましょう。

たとえば、ある日天秤座の男性に「かっこいいね」などと言ったとしましょう。
本人はもちろん「いやぁそんなことないよ」などと照れているが、
彼の頭の中では、その日は家に帰っても寝ても覚めても、
「俺ってかっこいい」「俺ってかっこいい・・・」とほめ言葉が走馬灯のように回っています。
そして、そのようなほめ言葉がきっかけで、本当に予想外のすごいことをやってしまったりするからスゴイ。

どことなく清潔感があるので、多少際どいパフォーマンスをしても下品になりません。
または、アクや存在感が出ません。さらっとしています。
ノリはけっこう成り行きまかせで、例えば車で道に迷った時など、
すぐに止まって、もとの道まで戻ったり地図を調べたりする典型が蠍座だとするならば、
「道があるんだからどこかに着くさ」と言わんばかりにペースを保つのが天秤座です。・・》

私は《 クール 》でなく、単細胞の熱中タイプのひとりであるが、これ以外は的中している、
と感じたりしている。
          

私は1944〈昭和19)年9月のこの日に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
長兄、次兄に準じて地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春であり、
兄ふたりは学業が優等生で、私は通信簿が『3』と『2』が多い劣等生で、
担任の先生からは、お兄さんは優秀なのに・・、と私は通信簿を頂くたびに言われたりした。

その後、小学4年生の頃から映画好きな映画少年となり、独りで映画館に通ったりしたが、
何かしらいじけた劣等生で、地元の小・中学校の時代を過ごした。

そして高校生になると、長兄、次兄の影響のない都心のある高校に通学して、
何かしら自縛から解放されたかのように心情となったりした。
こうした中で、生まれて初めて授業も楽しくなり、結果として程ほどの上位の成績となり、
読書にも目覚めて、やがて底知れぬ魔力に取りつかれ熱愛し、やがて小説の習作を始めたりした。
          
そして東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

結果として、やむなく安定した人生航路に軌道修正し、企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に1年ほど学んだりした。

その上、幸いご近所に住まわれている大企業の経営陣のお方の助力もあり、
この当時はある音響・映像メーカーの大企業に中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の春であり、25歳の時であった。
          

この時に大企業の経営陣のお方のご尽力がなかったならば、
私の人生の歩みは、変貌を余儀なくされ、私は幸運の星の下に恵まれた、と今でも感謝している。

その後、入社した大企業の音楽部門のひとつのレーベルがレコード会社として独立され、
私も異籍させられて、これ以降は定年まで音楽分野に勤めることになった。
          
    
そして30歳を過ぎた時、家内と交際を始め、私も恋い焦(こ)がれて、やがて結婚し、
2年過ぎた頃に私の生家の近くに1戸建ての家を構え、
想定していた住宅ローンなどは多くなり、重く苦心惨憺な時期も過ごしたりしたが、
幸運にも地価は上昇し、程ほどの広さの敷地と古ぼけた家で住んでいる。

もとより会社の勤務も数多くのサラリーマンと同様に多忙で、落伍者になるまいと、
音楽制作に直接関係のない管理畑の商品、情報、経理、そして営業畑で私なりに奮闘した。

この間、情報畑で奮闘していた時、首脳部のひとりから、
コンピュータを自社導入で、システム効率と経費節約を図れ、と難題を指示され、
XX君、貴方だったら出来るょ、と私はおだてられて、
日曜日以外は深夜まで奮闘したり、徹夜も幾たびかして、9か月後には何とか軌道に乗せたりした。

その後、1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、各レコード会社が正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。

こうした中で、私の勤めいていた会社も、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施され、
私は1999(平成11)年の新春、出向となった。

もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は本社に30年近く勤め放り出され、屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
                    
出向先は物流会社の中のひとつの物流センターであり、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そして販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
そして返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。

こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。

そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004〈平成16〉年の秋に何とか定年退職を迎えられたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

こうしたことも、私は出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。


このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

私のつたない半生は、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であるが、
音楽業界に35年近く勤め、その時代に流行った曲と共に過ごせたのも、幸運と深く感じている。
          
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となった。
専業主婦の家内の生活リズムをできる限り崩したくなかったので、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

こうして私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
          
家内は日頃の多くは、私のことを『あなた・・』と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで、『XXクン・・』と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような日常生活のささやかな思いで、そして国内旅行の旅先を思いも共有している。

今回、たわむれに『ヴィジュアル占星学』の性格テストをしたが、
私の定年後の年金生活は、この人生の最良の時代と思いを深め、
この星の下で幸運なひとりと実感している。

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「週刊朝日」編集長を懲戒解雇に伴い、セクハラをしなくてすむ方法は・・!?

2013-10-09 12:12:30 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝のひととき、パソコンを開き、私の場合はトップベージには【YAHOO! JAPAN】に指定しているが、
たまたまトップニュースのひとつには、
【 週刊朝日編集長を懲戒解雇 】
と見出しされたニュースを見た。

私は、遠い昔の高校生の頃は、「週刊朝日」編集長はあこがれのようなまばゆい存在の人だったので、
どういうことで懲戒解雇になってしまったの、と思ったりした後、
齢ばかり重ねた私でも、好奇心に負けて、クリックしてしまった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131009-00000119-san-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==『トップニュース』
          <==『産経新聞』<==『「週刊朝日」編集長を懲戒解雇 「文春」がセクハラ報道 』☆

私は記事を読み終わった後、なぜ世評の名高い朝日新聞社の管轄下の「週刊朝日」編集長の地位を
セクハラ問題などで失墜してしまったの、と民間会社の中小業で35年近く勤めた私は、
馬鹿じゃないの、と苦笑してしまった。

ここ30年ぐらいは、セクハラに関しても厳しい社会状況になっていることも確かであるが、
それにしても官公庁、民間会社、教育に司る方たちが、セクハラ問題で、新聞、テレビなどで報道されている。
私はこうした不祥事を行われた人は、学業に優等生であったにしても、社会の常識に欠落していると、
大学を中退した私でも、苦笑(にがわら)いしてきたひとりである。
          

過ぎし2010年5月9日、読売新聞の記事のひとつとして、
『 痴漢は生涯賃金408万減…市教委が規定手引 』と題された記事を読んで、
このようなことが一般社会常識として、ありえるの、と私は驚ろき、溜息をしたひとりであった。
無断であるが、記事を転載させて頂く。
《・・
教職員らによる相次ぐ不祥事を受けて、名古屋市教育委員会は服務規定の手引書を作成した。

懲戒処分の種類や過去の不祥事例、生涯賃金への影響を説明したほか、自己チェック欄も掲載されている。

同市では昨年6月以降、小学校教頭が交際相手の女性を中傷するビラを配った名誉棄損事件や、
中学校、高校の教諭による痴漢事件、事務職員らによる公金着服事件などが続発。
懲戒免職者も5人と、ゼロだった一昨年度から激増した。

「誇りを胸に」と題した手引書には、
地方公務員法で定められた職員の義務や懲戒処分についての説明のほか、
過去の事例として、「ちかんは停職6か月」、「公金横領は免職」、「体罰は減給10分の1、1か月」
などが紹介されている。

35歳の教諭が停職6か月を受けた場合は、生涯賃金が408万円減るなどと記されている。
市立の全学校や幼稚園に配布される。

手引書を作成した市教委教職員課は
「今までも資料は配布してきたが、より具体的な内容に踏み込むことで、教職員の自覚を促そうと考えた」
としている。

一方で、職員の中からは
「ここまでしないとモラルが保てないとしたら情けない」といった声も出ている。
・・》
注)記事の原文にあえて改行などを多くした。

私は少しボケた高齢者のひとりであり、2回ばかり読み、
名古屋市の教育委員会が、市立の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学まで、
学校の先生、職員の方たちに『服務規定』として手引書を作成し配布する、と解釈した。

私は驚きながら、この後は苦笑し、このようなことは笑止千万、と瞬時に感じたのである・・。
          

私は民間の中小業のサラリーマンを35年ばかり勤めた身であったが、
もとより職務規定書はあったが、外資系のせいか、
このような社会的な悪質の場合は、解雇であった。

どうして教職員は罰則が甘いのか不思議である。
もとより教職員の諸兄諸姉たちは、私のように大学中退以上に、遥かに上の高級学校を学ばれ、
先生の場合は生徒に教育を教える崇高な責務をなされている人たちなのである。
          

この中のひとつの『痴漢』のひとつを採り上げても、
1980(昭和55)年の頃、私が現役サラリーマンで奮戦して当時、
私の通勤していた経路の千代田線の『乃木坂』駅の近くで、ある有数な外資の会社の部長が痴漢騒ぎ起し、
まもなく解雇された事件があった。

私はこの当時、35歳前後であったが、
『どうして・・痴漢などをし・・ご自分の大切な人生を棒に振るの・・』
と思い、こうしたことが私は理解できなかったのである。

もとより私も男性のひとりであるので、恥ずかしながら私の実態を告白すれば、
愛しき妻と性愛を重ね、この上に男性としての血気盛んな不思議な欲望としてあった時は、
こっそりと風俗店に行ったりして発散していた。

私はズルい男かも知れないが、会社の職場上、通勤上、家庭には整然していたが、
ときには風俗店を活用したりしてきたので、
友人と談笑した居酒屋の席の隅で、このようなことをこっそりと言ったりして俺も同じ、
とお互いに微苦笑をしたりしていた。

昨今の教職員を含めて一般の男性が、痴漢などで新聞に掲載されたりすると、
もとより職場関連の相手の女性に心身傷つけ、ご自分の家庭の方に・・どう釈明するのか、
そして勤め先に寄るが解雇となり、家庭の崩壊となることが多い、と憂いたりしてきた。

まして先生たちの場合は、このような事件を起した場合、
先生として教壇で、生徒に教育を教示することなどは、恥ずかしさで当然できないし、
そして辞職し、一生教師の道を閉ざされ、やがて家庭の崩壊となることが多い、
と思われるので、停職6か月などは、私にとっては笑止千万、と思ってしてきた。

このような思いから私は、男性諸氏の一部の方に、もっとご自分を大切にしてほしい、
と切に感じている、
          

今回の「週刊朝日」編集長を懲戒解雇であるが、私は関連記事も読んだりしてしまった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131009-00000000-jct-soci
☆【YAHOO! JAPAN】<==『トップニュース』
          <==『J-CASTニュース』
<==『週刊朝日編集長が立場を悪用したセクハラ? 会社から懲戒解雇される前代未聞の事態に 』☆

私は記事を読み終わった後、氏は社会常識に欠落した卑劣な男だ、と落胆を重ねた・・。

《・・仮に週刊誌の内容が正確だとすれば、編集長という自らの立場を悪用し、パワハラの要素も含んだ、かなり悪質なものだ。
・・
週刊文春の記事によると、複数の女性問題が問題視された上、小境氏はアエラ編集部の契約女性記者に対して、
「自分と付き合えば社員にしてやる」と迫ったとされる。
これが本当だとすると、自らの立場を悪用してセクハラを働いていたことになる。

契約記者から相談を受けた周囲の女性が、小境氏の行状を記した「連判状」のようなものを作成し、親会社の朝日新聞社に提出。
社内調査の結果、小境氏のセクハラやパワハラに関する証言が続出したが、
小境氏は「セクハラではなく恋愛関係。ただそれが複数だっただけ」などと抗弁したという。・・》

私は弱い立場の契約女性記者などに対して、自らの立場を悪用してセクハラを働いていたことは、
余りにも卑劣で男として失格と思いながら、真摯な職場の戦場と風俗店と間違えるなぁ、
と平素はおとなしい私でも、この人生を粗末にした男だ、と怒ったり、落胆を深めている。

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店員に土下座させる…強要容疑で女逮捕を知り、私は社会劣化も奈落の底に憂い・・。

2013-10-08 15:05:54 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であり、
昨日の夕暮れ、ネットでニュース記事を彷徨(さまよ)っている中、
【 <札幌東署>しまむら店員に土下座させる…強要容疑で女逮捕 】
と見出しされたニュースを見た。

私は、土下座させるなんて、どういうことなのょ、と思ったりした後、
クリックしてしまった。

そして毎日新聞が 10月7日(月)12時16分配信された記事と解り、
山下智恵・記者の綴られた記事を読んだりした。
無断ながら、転載させて頂く。

《・・衣料品店で商品にクレームをつけ、店員に土下座をさせたとして、
札幌東署は7日、札幌市白石区、介護職員、青木万利子容疑者(43)を強要容疑で逮捕した。

容疑は、9月3日午後6時ごろ、札幌市東区本町の「ファッションセンターしまむら苗穂店」で、
前日に購入したタオルケットに穴が開いていたとして、
店員の女性2人に土下座をさせ、携帯電話で撮影したほか、
自宅に謝罪に訪れることを約束する文書を書かせていたとしている。
青木容疑者は「強要はしていない」と容疑を否認している。

同署によると、青木容疑者は土下座の写真をツイッターに投稿していた。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
            

私は記事を読み終わった後、ここ10数年は社会の劣化は無力の私でも、加速していると憂いてきたが、
今回の事件を知り、社会の劣化は奈落の底に落ちた、と驚き、溜息を重ねたりした。

売り手側の店員が多少の応対の不手際があったせしても、お客の買い手側が、
土下座をさせる状況は、人権の問題を超えている。

この上、《・・土下座の写真をツイッターに投稿・・》する行為は、
世界中に公知する行為であり、この容疑者は自身の人格の問題まで波及するのである。

私は若い中・高校生の昨今の単なる悪戯(いたずら)の範囲ならば、
感情の流れるまま、社会の怖さも知らない未熟者、と苦笑できるが、
今回の状況は余りにも卑劣で、まして介護職員と働いて下さる43歳の方で、
もとより社会の常識を問われる大人である。

何よりも、この当人がどのような釈明をしても、ご家族、勤務先関係者に、ご迷惑をかけた上、
そして関係者からも人格の疑いがもたれたりし、
悪化すれば社会的に制裁されることに波及することなり、
何故こうしたことを配慮したお考えにならなかったのか、私は理解できない。

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金木犀(キンモクセイ)は満開を迎えて、まもなく小花は音もなく散りはじめと・・。

2013-10-07 15:08:19 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む69歳の身であるが、
いつものように午前中のひととき、平素の買物専任者の私は、スーパーで買物の責務を終えた後、
本を読みたくて、散策を取りやめて、自宅てぼんやりとしていた・・。

そして午後一時過ぎ、居間の近くで本を読んでいたら、
かぐわしい芳香が漂(ただよ)い、 金木犀(キンモクセイ)が満開になったかしら、
と小庭のテラスに下り立ったりした。
          
この金木犀(キンモクセイ)の香りは、秋の到来を告げてくれる花木であり、
私は好きな花のひとつである。

今は満開のたわわな橙黄色の小花となり、周辺にかぐわしい芳香が漂(ただよ)わせている。
          
この後、一週間が過ぎた頃、ときおり風がなくても小花が音もなく散り始めて、
黒土に落下する時に、かすかな音をたてる。

そして樹元の周囲は黒土の上で、こぼれた橙黄色の小花が彩(いろど)る。

やがて金木犀の枝に橙黄色の小花が残っているが、大半は地上の黒土に絨毯のように敷き占め、
沈香の香りを残す情景となる。

このような情景を私は眺めたりすると、この世の確かな美はこのようなものかしら、
と私は眺めて毎年過ごしている。

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高齢者の私でも、ときおり家内のボディガード兼お供、幾たびか重ねて・・。

2013-10-06 17:38:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

昨日の夕食時に、家内は『明日(あした)の午前中に、駅前に買い物・・行きませんか?』
と家内は私を誘惑したのであった。

私は少しためらった後、
『ハイ! 行きましょう!』
と少しボケてきた私は、せめて返事ぐらいは、
若き自衛隊の諸兄に負けないように明るい声で、家内に応(こた)えた。

私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

こうした中で、もとより年金の収入は減ることもあっても増えることなく、
当然ながら現役のサラリーマン時期より遥かに激減している上、
現役時代の多忙な業務から解放され、緊張感も無くなり体力の衰えも感じる昨今、
何かしら私は家内に従順となっていると思えて、苦笑したりした。
          

年金生活を始めた当初、私は家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
年金生活の直後、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
         

そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
          

私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
パソコンの故障とか国内旅行で不在でない限り、
このブログのサイトに毎日投稿し、生きがいのひとつとなっている。
                                                   
こうした中で私たち夫婦は、週に一度ぐらい駅前に出かけたりして、日常の雑貨品などを買い求めたり、
年に数回はデパートに行ったりしているが、
このような時の私は、家内のボディガードそして荷物持ちのお供のような状態となっている。

そしてデパートは新宿の『伊勢丹』などで買い物することが多いが、
スーパー、専門店、ホームセンターなどで買い求めるのは、京王線の沿線の『調布』駅の時は、
路線バスで往復したりするが、『つつじが丘』駅とか『仙川』駅は
原則として徒歩で片道15分ばかりを歩いたりしてきた。

或いは小田急線の場合は、『狛江』駅とか『喜多見』駅にも徒歩で片道20分ばかりを歩いたりしてきた。

私は年金生活になると根がケチなためか、いずれも路線バスは頻繁に走行しているが、
歩いた方が何よりも健康に良いし、いずれのコースもバス料金の往復路420円を利用することなく、
ひたすら歩いたりしてきた。
          

本日は家内のボディガードそして荷物持ちのお供で、
我が家を10時過ぎに『仙川』駅をめざした私たち夫婦は歩いた。
秋晴れが予感される淡き陽射しの中で、金木犀の香りがする中を歩いたりすると、
季節のうつろいが受容できるので、バスに乗車してしまえば、かぐわしい情景が享受できない、
と私は確信を深めたりした。

結果的には本日は、私たち夫婦は『仙川』でホームセンターで予約注文をした後、
コーヒーを頂ける軽食事処に寄って休息し、
そして『つつじが丘』駅近くまで15分歩いた移動したりした。

この後、スーパーで衣料品、食品など買い求めたりしていると午後2時過ぎになり、
駅前の食事処で遅い昼食とした。
そして私たちは本屋に寄って、再び歩いて帰宅したのは午後3時過ぎであった。
          

このように近かの駅前に買い物する時は、私たちは歩いたりしているが、
私が小学生を過ごしたのは、地元のこの地域であったので、
ときには通学の登校、下校の時に通った旧街道の小道を歩き、
私は家内に、小学4年の時は、トボトボと独りで歩いたりすることが多かった、
と話したりしたすることもあったりした。

そして私たち夫婦は、結婚後の丸2年過ぎた後、私の生家の近くに一軒家を建てて、
この地に早や35年の歳月が流れ、
あの時は・・と家内の思いを私は聞いたりしながら、私たち歩いたりしている。

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ブログの写真掲載、揺れる思いを過ぎた今、そして私は・・。

2013-10-05 14:31:58 | 定年後の思い
私は東京の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
まもなく本屋のたった一冊の本からブログの世界を学び、
そしてパソコンの故障、国内旅行で出かけた以外は、自宅から日々投稿文を重ねて、
丸8年半が過ぎている。
              

こうして中で、諸兄諸姉の多くの投稿文を読ませて頂くと、
ここ6年ぐらい殆どの方が、それぞれ心ある写真を添付し、
私はいつまでも文章だけでは時流に残されてしまう私なりに憂慮していた。
特に旅行関係の投稿文に関しては、散文を綴りながら危惧していた・・。

こうした昨年の10月下旬の時、私たち夫婦は、
北海道の洞爺湖の湖畔に建つ観光ホテルに9泊10日間で滞在し、周辺を散策した。
そして旅から帰宅した後、いつものように投稿文を重ねた・・。

まもなく私の投稿文を読んで下さったひとりの女性からコメントを頂いた。
《・・それにしてもお写真がないのが、とても残念・・》
この女性はブログ上で、ここ数年心の交流を重ねたひとりで、
私は美麗な女性と想像を深めながら、何よりも心清らかな奥方であり、
やがて私は、喚起させられて、いま覚えなくていつになったら覚えるのょ、
と自身を叱咤激励しながら、ブログ上で写真を掲載をすることを決意した。

そして昨年の11月3日の『文化の日』の翌日の4日に於いて、
昼下がりのひととき、私は遅ればせながら写真添付に挑戦した・・。
          
しかし無念にも、私はネットの技量にも若葉マークの初心者であり、
どのようにしたら、ブログ上で写真を掲載することが出来るの、と思ったりした・・。

私はデジカメを定年退職の時の記念品と買い求めて、
四季折々の情景を撮り、ブリントもせず、パソコンのハードディスクにファイル名を付けて記憶させていた。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教えを乞う人もいなく、
やむなく加入している【gooブログ】の使い方の中に於いて、
《画像入りの記事を投稿する》の解説を読んだりした・・。

そして《【画像ファイル】
  ・goo ブログ標準 ※画像の比率を保持したまま、320×240に収まるサイズに自動的に縮小されます
  ・オリジナルサイズ ※縦サイズもしくは横サイズが1,920pxを超えるまでは、縮小されずにアップロードされます》
と明記されていたが、どのような意味合いも解らず、何とか一枚の写真を添付する投稿文ができた・・。

その後は、失敗も繰り返したりしながら、《オリジナルサイズ》で表示したが、
確かに鮮明であるが、プログ上に表示すると、読んで下さる方には画面一杯に表示してしまうので、
ご迷惑限りない、と大いに反省をしたりした。

そして《goo ブログ標準》の《320×240に収まるサイズに自動的に縮小》を活用し、
ブログ上の表示の時は、《大きな樹》のマークをクリックして、程ほどの大きさで表示させたりした。

その後は横並びに2葉の写真を掲載することも学び、
愚図の高齢者の私でも、何とか出来たんだ、と安堵を重ねて微笑んだりしたのは、11月15日からであった・・。
               

しかしながら私はデジカメで撮る時は、画像サイズは殆ど4608X3456と設定してきたので、
この鮮明な写真を何とか、ブログ上で鮮度を保持しながら単純に縮小し、表示できる方法はないかしら、
と思案してきた。

この後、駅前の本屋に行った時、たまたまコンピュータ・コーナーに行き、
ひとつの本の背文字を見て、手にとってパラパラと内容を見たりして、驚いてしまった・・。
             
特に写真の専用の【Picasa(ピカサ)】を少し見て、遅ればせながら学ぼうと買い求めた。

そして、『ピカサ』を読んだりしたが、
どうして海のように広く、奥深いの・・と溜息〈ためいき〉を幾たび重ねたりした・・。

まもなく私は、『ピカサ』におぼろげながら挑戦したが、
私のこれまでの写真は、パソコンの【ピクチャ】に保存しているので、
『ピカサ』を活用して縮小作業をした結果の写真と肝要の従来ある【ピクチャ】の写真と、
どう関連されるのか、少しボケた私は解らず、あえなく敗退してしまった。

この後、やはりブログ上で鮮明写真を掲載したく、写真サイズの変更方法をネット上で調べていた時、
私のパソコンのソフトの中で、『ペイント』という機能の言葉を初めて知り、
この『ペイント』を活用すれば、私の目的が達成できるのかしら、と思い挑戦した・・。

そして『サイズ変更』の画面に於いて、『パーセント』と『ピクセル』も詳しく知らず、
適当に設定した。

このように私は、ブログ上に写真を掲載する揺れる思いを半年過ぎた5月下旬の頃、
私の愛用しているコンパクトのデジカメで撮り、ブログ上に於いては『ペイント』を活用して、
掲載して今日に至っている。
          
この間、デジカメの一眼レフの中級品の本体に、ズーム28~300ミリぐらいのレンズで撮ったならば、
圧倒的に鮮明に表現できる、と夢想を重ねたりしたことも事実である。

しかしながら私が愛用しているコンパクトのデジカメさえ、500グラムぐらいで、
平素は首廻りからネクタイのように前に提げて歩いているが、少し重く感じてしまう。
まして一眼レフの本体にズームレンスにすると、1キロは遥かに超えてしまうので、
常に片手に持ち、撮影を優先するスタイルの散策となってしまうので、あえなく購入することを断念した。

私はブログ上は、写真の主体の『写真』ブログの範疇ではなく、
『随筆』そしてシニア系の『日記』に所属しているので、その日のあふれた思いを投稿文を綴り、
無念ながら筆力が乏しいので、写真は付属品のイラスト絵柄のような代わりとして添付している。

このような思いになると、あふれる思いの描写こそが肝要なので、
写真の技量より、文章表現の修行をしなさい、もうひとりの私に叱咤させられている。

しかし昨今は、かっての写真添付のない私の投稿文を読んだりすると、
文章だけの投稿文は息苦しく感じ、その上に描写表現に乏しいこともあり、
されど写真掲載、と私の投稿文では、今や写真掲載は不可欠だなぁ、と微苦笑している。

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金木犀(キンモクセイ) の芳香の時節を迎え、亡き家内の父に、私は思いを重ねて・・。

2013-10-04 13:58:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む69歳の身であるが、
今朝目覚めた後、やがて玄関の軒下に下り立つと、どんよりとした曇り空を眺めたりし、
少し寒いじゃないの、と夏用の長袖のスポーツシャツを着ていた私は呟(つぶや)いたりした。

そして居間に戻り、地元の天気を見ると、
朝の6時は17度、昼下がりは18度前後、夜の6時は17度前後、
10月下旬のような肌寒い曇りの一日となります、
と報じられ、気温は日中横並びの日かょ、と私は微苦笑したりした。

そして昨日は9月上旬のような晩夏のように熱い日中であったので、
10度ばかり急激に下がり、私は天上の気候の神々の采配に戸惑いながら、
いくら暑さに苦手な私でも、どうしてなのょ、と空を見上げたりした。
          
朝食後、私は家内の援軍を借りて、昨日の続きの居間の本、映画、音楽の作品を
断捨離(だんしゃり)と称された《・・不要なものを断ち、捨て、執着から離れることを目指す整理法・・》に、
これも破棄しょう、と専念した。

そして私は一時間ぐらいすると、あぐらの姿勢で膝(ひざ)、背筋を伸ばす為に、
小庭のテラスに下り立ち、NHKの体操の真似事をしていると、
微(かす)かなかぐわしい匂いが漂〈ただよ〉ってきて、やがて金木犀(キンモクセイ)からの香りと気付き、
私は我が家の建物に一番近い金木犀(キンモクセイ)の樹に近づいた・・。

そして小さな莟〈つぼみ〉が数多くあり、見惚(みと)れたりした。

この後、私は居間に戻ると、
『おとう〈義父〉さんの・・命日まもなくだねぇ』
と家内に言ったりした。

私は無念ながら俳句の素養もないつたない身であるが、確か4年前のこの時節に、
   金木犀(キンモクセイ) 想い残し 彩(いろ)どられ
と詠んだりしたのである。
          
家内の父が2004〈平成16〉年のこの時節に死去したのであるが、
亡くなったと病院にいた家内から知らせを私が聞いた時、
我が家の金木犀は満開となり、初七日を終えて私たち夫婦が帰宅した時、
金木犀の枝に橙黄色の小花が残っているが、大半は地上の黒土に絨毯のように敷き占め、
沈香の香りを残していた・・。

私は金木犀のまもなく橙黄色の小花を眺めたり、匂いが漂ってきた時、
家内の父との25年ばかりの交情が重ねることが、習性のようになっている。

そして過ぎし日の春の桜見、旅先のひととき、年末年始に我が家でお歳取りで泊まって頂いた時、
入退院のお見舞などが、走馬灯のように想いが去来する。

家内の父は、私が定年退職であった2004(平成16)年の秋の直前に亡くなり、
早くも10年目を向えることとなる・・。

確か15年前、家内の父は体調の不良で精密検査した結果、腎臓のガンが発見され、
家内の母の要望で、当人には悪性の腫瘍と伝えながら、
片方の腎臓を摘出した後、5年間は入退院を繰り返していた・・。

私たち夫婦は、家内の父、母と4人で、
家内の父が初めて入院する以前から、私は現役のサラリーマンの多忙の合間に、
ときおり代休を頂き、2泊3日前後の旅行に誘ったり、花見などに行ったりしていた。

その後の入退院を繰りかえしていたが、体調が良かった時、
やはり温泉滞在の旅行を幾たびか重ねてきた。

私の心底の思いのひとつとして、家内の父、母が万一寝たきりになった時、
のちの思いに、と思って頂ければ良いかなぁ、
と思いながら旅先のひとときを私たち夫婦は楽しんだりした。
          
そして私は小学2年の時に父に病死されたこともあり、家内の父には親愛を深めたりした。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったが、世の中の父親と息子の関係に於いて、
一部の息子が特に成人した頃からは、父親が現役で奮闘している場合は、
何かとライバル視する傾向が多く、素直な親子の心情のふるまいや会話ができなく、
と私は友人から教えて貰ったりした。

やがて父親が高齢者になり、しぐさが衰えたり、或いは死去されて、
初めて父親が家庭を守る為に、孤軍奮闘してきた長年の言動に感銘をする、
と聞いたりしている。

私たちの場合は、もとより義理の息子と父親の関係もあるが、
何よりも家内の父は私に対して、ある程度の遠慮された言葉、しぐさをされ、
こうした言動があったので、私も圧迫感を感じることが少なくなり、お互いに信愛を深めることができた、
と私は家内の死後に、改めて深く感じさせられた。

そして人生の機敏に家内の父は、私より遥かに上手な大人の人だった、と私は教示させられた。


家内の父は、長年連れ添った妻と娘が交互で、夜を徹して看病されながら、
最期となった入院の時、1ヶ月後に大学病院の個室で亡くなった。
          
そして仮通夜の日、前日の死去に伴い家内の母と共に家内は病院、葬儀の関係者など話し合った後、
家内が早朝に自宅に戻ってきた・・。

台風のような風は強く、豪雨の一日となった。

家内に2時間ばかり仮眠をしてもらった後、
私たち夫婦は、喪服を濡らすわけにいかないこともあり、タクシーで遠方の葬儀所に向かった。

『お父さんも・・お母さんに長年看病して貰ったり・・
お母さんも睡眠時間も削って、心身共々尽くしたのだから・・後悔はないと思うよ・・』
と私は疲れた顔立ちの家内に私は言ったりした。

そしてタクシーは雨が激しく降る中、我が家の調布市の外れから都心の高速道路を疾走し、
やがて千葉県の八千代台市に向かった。

それからの日々は、仮通夜、通夜、本葬、告別式、初七日と慌しいを私共は過ごした。

家内の母は、お墓を千葉県の木更津の付近に買い求めていたので、
四十九日の法要、納骨を終わった後、
家内の母と家内と私は、お寺の付近の最寄駅の延長にある亀山湖で、
温泉観光ホテルに3泊4日で滞在した。


そして家内の母は、一人住まいの生活になったので、
この時以来、年末年始は私たちの自宅に5泊前後泊まって頂き、
ときたま温泉滞在旅行に誘って行ったりしている。

こうした中で、家内は殆ど毎晩、家内の母に電話で長らく話し合ったりし、
或いは季節が変わるたびに5日前後、家内の母の宅に泊まっては、
母と娘で他愛ない話をしたり、雑事をしている。
         

私は死者には敬(うやま)うが、かといって3回忌、7回忌、13回忌と続く法事には、
生きている人の慰めと思っている。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、一代限りの身の為か、
私は家内には、俺が死んだ時は家族葬で、和花と音楽に包まれて、出来うる限り質素にして貰いたい、
とここ12年ばかり言ったりしている。

そしてお墓は要らず、死者は土に還る、という強い思いがあるので、
樹木葬のある墓地の里山に埋めて頂きたい、と私は独断と偏見である。
その後、四十九日の納骨が終われば、
何らかの雑木の下で永久に安らかに眠る、という考えの持ち主である。

そして残された人は、温泉滞在の帰りの気が向いた時、お線香の一本でも良いと思っている。
          

こうした思いもあり、家内の父の新盆の時は、
私は自宅で留守番役をして、家内の母は、独り住まいとなっているので、
こうした機会に家内と家内の妹に囲まれながら、娘の2人と他愛なくのんびり過ごすのも良いと思い、
近くの館山温泉観光ホテルに家内たちと3泊4日をして貰ったりしていた。

しかし、さすが一周忌だけは、私は家内に付いて法要にでかけた。
この時は、家内の妹は多忙の時であったので、
房総半島の白浜温泉観光ホテルで、私たち3人は4泊5日で滞在した。

これ以降は、私は家内の父の法要は、
おとう〈義父〉さんとは、生前の旅行先で楽しみを分かち合ったから、
心の思いは済んでいるので、一周忌が最後と言い、後は家内にまかせている。

そして2回忌からは、家内ひとりで参列した後は、
家内の母と家内、家内の妹の3人で命日の供養を兼ねた慰安旅行をして貰っている。

養老渓谷の滞在から始まり、その後は犬吠崎、青堀、養老渓谷などの各地に、
いずれもお墓から程近い周囲の観光温泉ホテルで宿泊している。
          
私は家内が毎年、父の命日に伴いささやかな慰安旅行に行くたびに、
私は家内をバス停まで見送ったりしているが、
家内はバスに乗り込み、車内から家内の笑顔と小さく振る手で、
私の身勝手な論理で世間をどこまで・・と思い返したが、せんなきことと思っている。

まもなく我が家のわずか3本の金木犀(キンモクセイ)はやがて満開となるが、
金木犀の香りが居間まで漂(ただよ)い、私は家内の父との会話、しぐさを思い馳せたりし、
過ごしたりしている。

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愚図の私、ときには我が家の居間の『断捨離』に奮戦して・・。

2013-10-03 17:56:11 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

ここ一カ月、我が家の17畳ばかりの洋間風の居間に於いて、
床板が老朽化してきたので、補強をする為に、
家内と共にホームセンターなどを訪れて、思案してきた。

居間はテレビ、食卓用のテープル、本棚、音楽のレコード、カセット、ヒデオ・テープ、CD、DVDの音楽棚、
或いは映画、ドキュメンタリー作品のヒデオ・テープ、DVDの映像棚などがある。
そしてパソコンの置いてある机、そして脇机もある。

このような状況なので、いざ床板の補強作業には、これらを一時的に各部屋に分散させ、
床板の作業をする為に、
過ぎし3日前に、家内の指導の下で、具体的な測定をしたりした。

そして本日の日中、いつものように私が買物する以外は、
家内の先導で、音楽棚、映像棚、そしてバソコン関連のフロッピー、CD系、DVD系を整理した。
          
一昨日、私は現役時代に音楽業界のあるレコード会社に勤めていた関係で、音楽作品はある程度多く、
映像棚も若き日に映画青年の真似事をした体験があり、少なくとも1000作品を保有しているが、
この際、やむなく一部を破棄しょうと決意したりしてきた。

本日の9時過ぎより、音楽棚にある作品本体と関連本、
映像棚にある作品本体と関連本などを整理を始めたが、
あなたがもう一度観たい映画、音楽をまだ聴きたい以外は破棄して下さいねぇ、
と家内から叱咤激励をされながら、この作品も・・さよならだ、と心の中で呟(つぶや)きながら、
破棄する段ボール箱に入れたりした。

何かしら2010(平成22)年の頃から、
《・・不要なものを断ち、捨て、執着から離れることを目指す整理法・・》を断捨離(だんしゃり)と命名されてきたが、
何かと世の中の流行に遅れている私は、断捨離かょ、と苦笑しながら破棄したりした。

その上、愚図の私は家内に多大に援助を受けても、先ほどの5時半すぎに、
8割ぐらい終えて、やむなく本日は終了とした。
そして不慣れな作業で疲れたが、何かしら破棄した段ボールの山積みを眺め、
もとより数多くの作品に愛惜もあり、苦笑を重ねたりした。

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