夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

都心の郊外でも、今年初めての小雪が舞い降り、やがて老ボーイの私は微笑みを重ねて・・。

2016-01-18 10:31:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
昨夕、天気情報をテレビで視聴していたら、
今夜から明日の18日にかけ、関東地方の広い範囲で雪が降り、大雪となるおそれが高くなくなり、
東京23区では明日正午までに、10センチの雪が降る見通しです、と報じられていた。

私の住む地域は都心に隣接しているので、明日は今年初めての小雪が舞い降る、と何かと雪恋しの私は微笑んだりした。
しかしながらここ10数年は、大雪が降る、と報じられても、2014年2月中旬に25センチ前後を除けば、
5センチ前後だったよなぁ、と微苦笑したりした。


今朝、6時過ぎに起床したら、積雪10センチ前後の雪景色となり、雪は少し舞い降ったりしたが、
やがて霙(みぞれ)となった・・。
             
              ★ 今回掲載した写真のすべては、午前7時半過ぎ、霙(みぞれ)が降る中、撮ったりした ★

この後、天気情報をテレビで視聴していたら、都心の中心にある北の丸公園でも、積雪6センチとなり、
積雪の影響で、新宿、東京駅など各地で公共交通は、運休、遅延を報じられていた。

私はサラリーマン時代には、都心に30年ばかり勤めていたので、
都心はわずか5センチぐらいの積雪でも、公共交通は影響を受けて、私は戸惑いながら出勤した体験が幾たびもあったりした。
こうした思いから、働いて下さる諸兄諸姉が、今回の積雪に寄る通勤は、何かと労苦が伴い大変ですねぇ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

やがて私は、霙(みぞれ)が降る中、たわむれに記念写真ねぇ、と思いながら小庭の雪情景を、
何枚か撮ったりした・・。
             

この後、居間でコーヒーを飲みながら、積雪を眺めていると、
私の住む家は生家にも近く、この地域には結婚前後の5年を除き、私は早や66年近く住んでいるが、
過ぎし65年前の小学一年生で、雪の中を通学していたことが思いだされたりした・・。
      
        
私の幼年期は東京郊外の農家の児として育ち、遥か65年前の頃は、
この冬の時節に30センチ前後の雪が降っていた。、

1951年〈昭和26年〉の春に私は地元の小学校に入学したが、初めての冬に雪が降り、登校した・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
ゴム長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、
コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
                              

その後、1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

やがて1964年〈昭和39年〉に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
                        

こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
                          
今回、突然の雪は私の地域では10センチぐらいの積雪であったが、
霙(みぞれ)から雨、やがて曇り空となり、昼下がりから快晴が予測され、
めまぐるしい日中となり、少しボケた私でも、戸惑いながら微笑んだりしている。

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若々しい「健康脳」、認知症が進む「不健康脳」の分岐点を学び、私は戸惑いながら微苦笑して・・。

2016-01-17 16:20:22 | ささやかな古稀からの思い
私は昼下りのひととき、愛読している『東洋経済オンライン』を読んでいたら、
【 若くいたいなら「脳のゆがみ」を直しなさい!
             認知症が進む人、若々しい人の「分岐点」 】と見出しを見て、
私が最も恐れていることは認知症であり、どういうことですか、とクリックして精読してしまった・・。

「脳の学校」代表の加藤俊徳・医学博士が、
『ゆがみをなおせば、毎日のワクワクが取り戻せる! 脳コンディショニング』(かんき出版)を上梓された内容を、
この『東洋経済オンライン』に連載形式で配信して下さった記事の一部と知り、
無断ながら大半を転載させて頂く。
             

《・・左脳と右脳の「ゆがみ」は放っておくと悪影響を与えます。

☆現代人の脳が「ゆがむ」原因とは?

現代人の多くは脳に「ゆがみ」があります。これがかねてからの私の持論です。

多くの方が小学校から大学までの約15年間、頭に知識を入れ、考えるという作業をひたすら繰り返します。
その間、言語処理をおもな役割とする左脳を活発に使いますが、
その反面、映像系の処理を担当する右脳をあまり使わずに過ごします。

また、就職して社会人になってからも、日々文字や数字と向き合い、左脳をフル回転させる生活をする人が多いでしょう。
このような「左脳化生活」を続けていくこと、「左脳グセ」が脳にしみついてしまいます。

このように、左脳だけが活発になっている状態は、左脳と右脳のバランスが崩れているため、脳にとってよくありません。

それに加えて、現代人の脳のゆがみを“促進”しているのは、
スマートフォンやパソコンといった外部ディスクへの過剰な依存です。

それに頼ることによって、「視覚系」「記憶系」「理解系」の脳番地をあまり使わない人が増えています。

脳には、適応力があります。
悪いことに対してもいいことに対しても適応してしまいますから、多くの現代人がこの3つの脳番地を使わないように適応しています。
スマートフォンやパソコンが手もとにないと、すごく不安になるのは、3つの脳番地が弱ってしまったからなのです。
             

☆脳の劣化を示す6つの症状

次にあげる6つの「自覚」や「症状」を感じたことがある方は、脳番地の働きが衰えている可能性があります。
また、全部当てはまった方は、次にお話する「不健康脳」の可能性の高い方です。

①年の差がある人と話ができなくなった
②立ち上がった瞬間に何をしようとしたのか忘れる
③会話中すぐに言葉が出てこない
④一度にいくつかのことを並行してできない
⑤新鮮な気持ちで朝が迎えられない
⑥怒りやすくなってしまった


☆「健康脳」と「不健康脳」

脳には「健康脳」と「不健康脳」があります。
私が考える「健康脳」とは、全体がバランスよく使われている脳です。逆にいうと、使わない場所がない脳です。

私は、MRI(磁気共鳴画像)を用いて、1万人以上の脳画像を1人ひとりと面談しながら分析しました。
その結果、「少しでも成長しようという状態を維持している脳」が「健康脳」であるという結論に達しました。

つまり、成長していない脳は、劣化が進む「不健康脳」であるとわかったのです。
単に脳に病気がないからといって「健康脳」ではないということです。

6つの症状に当てはまるものがあれば、使っていない脳番地が存在する可能性があります。
つまり、脳をバランスよく使えていない「不健康脳」ということです。
             

☆「不健康脳」の終着点は…?

「不健康脳」の状態が継続すると、うつの症状が出てきたり、やる気が起こらず、寝込んでしまうこともあります。
「偏った脳の使い方」でこだわりが強くなり、自分のこだわりを変えたいと思っても容易にライフスタイルを変えられない人、
わかってはいるけどやめられない脳の使い方が「不健康脳」を加速させます。


☆50歳を超えて成長する脳にするには

「不健康脳」を放置するといったいどうなるのでしょうか? その終着点は認知症です。
不健康な脳はやがて、SCD(Subjective Cognitive Decline)と呼ばれる自覚的認知機能の低下を助長し、
アルツハイマー型認知症への流れを加速しかねません。

多くの人は脳について勘違いをしています。
認知能力は3歳頃からグッと高まり、20歳くらいで能力が完成。
そのあとは徐々に脳は老化していき、そのまま40〜50歳になって脳の機能は放物線を描くようになり、
認知症になるのが70〜80歳。大体の人がこのように思っているかもしれません。

ところが脳の画像を見てみると、40〜50歳の領域で、脳の働きが上に伸びる人と下降する人がいることがわかってきました。
大人の脳には、かなりの個人差があることがわかったのです。
50歳を超えて劣化する脳もあれば、成長する脳もあるということです。
             

では、どうすれば成長する脳、認知症にならない脳を手に入れることができるでしょうか。

そもそも認知症は自分で予防できるのでしょうか? 答えは「できます」です。

これは、「健康脳」を意識してつくることで可能になります。
「健康脳」は、脳をまんべんなく使うことでつくることができますので、
脳の使い方を変える=脳コンディショニングをしていけば、右脳と左脳のバランスがとれ、
おのずと「健康脳」へと変わることができるのです。

人間の脳は、成長と劣化、どちらにもなりやすい性質を持っています。
ですから、今すぐ脳コンディショニングを始めれば、早い人だと1か月で効果が出てきます。

次回、最終回は、脳コンディショニングの実践法についてお話します。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
             

私は民間会社の苦楽の多い中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や12年生となっている身である。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。
         
私は71歳の身となり、家内は66歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして70代の心針初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、知的好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。
             

私は定年後の年金生活を始めて当初より、平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている買物メール老ボーイでもある。

そして最寄のスーパー、或いは駅前にあるスーパー、専門店に徒歩15分前後を歩いて往還している。
いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

この後も自宅周辺の3キロ範囲にある遊歩道、小公園を歩くことが多くなっている。
こうした根底のひとつには、認知症だけは勘弁してょ、という念願で歩いたりしている。

齢を重ねた今、体力の衰えを増す中、いつの日にか介護を受ける身になっても、
たとえタドタドしく依頼をお願いする事柄も、正常な思いで伝えたからである。

今回の記事を読み終わった後、このような思いを馳せたりした・・。
             

そして、今回の《脳の劣化を示す6つの症状》テストは、
①年の差がある人と話ができなくなった
②立ち上がった瞬間に何をしようとしたのか忘れる
③会話中すぐに言葉が出てこない
④一度にいくつかのことを並行してできない
⑤新鮮な気持ちで朝が迎えられない
⑥怒りやすくなってしまった

殆ど問題はないが、何かと単細胞の性格の為か《④一度にいくつかのことを並行してできない》
昨今は実感を増していることがあり、やむえないかなぁ、と苦笑したりしている。

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90歳過ぎて「幸せになる人」「不幸になる人」の分岐点を学び、71歳の私は微苦笑を重ねて・・。

2016-01-16 14:33:32 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
昨夜、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を開き、
こうした中で、【 90過ぎて「幸せになる人」「不幸になる人」~分岐点はココにある 
              人生100年時代、あなたはどちらになるのか 】と見出しを見たりした。

私はとても90歳までは生きられないと思いながら、万一90歳まで生かされたなら、
どのような生活が待ち構えているか、と夢想を重ねながらも、クリックして、 精読してしまった・・。

この記事の原文は、『週刊現代』2015年1月16日・23日合併号に掲載されて、
【現代ビジネス 】に1月15日に配信された記事のひとつであり、無断ながら大半を転載させて頂く。
          
《・・「100歳まで生きる」ことが、当然の世の中がいよいよ現実味を帯びてきた。
長生きすれば幸せ―そんな甘い考えは通用しない。
90歳を過ぎて幸せになれるかどうかを左右するものは何か。
             

☆健康、カネ、そして―

「ばあちゃんたちの幸せの秘訣は、『いくつになっても、女であることを忘れない』ということではないでしょうか。
皆が集まれば、昔の恋愛やちょっとエッチな話なんかで、盛り上がるなんてこともしばしば。

以前、仕事のために、ばあちゃんたちと一緒のホテルに宿泊して、就寝前に急遽ミーティングを行った時も、
ばあちゃんたちは寝間着姿ではありましたが、きちんと化粧をして部屋から出てくるんです。
90歳を過ぎても、やっぱり男性を意識している。そういう姿は輝いて見えますね」

沖縄本島より南西に400km、八重山諸島のなかの小浜島で暮らす80歳から97歳までの女性たちによる
アイドルユニット「小浜島ばあちゃん合唱団」、通称「KBG84」のプロデューサー、つちだきくお氏はこう語る。

また91歳ながら、現役の風鈴職人であり、江戸川区伝統工芸会の終身名誉会長も務める篠原儀治さんもこう話す。
「この歳になったら隠居するのが普通だけど、それじゃあ人生つまらない。
今の私の仕事は、弟子たちが修業に励んでいるのを見守ってやること。
彼らの成長ぶりを間近で見れるのが幸せなんですよ」

篠原さんは毎朝5時に起きては、丸一日風鈴づくりの現場で弟子たちの指導にあたっている。
睡眠時間はたったの4~5時間。
身体への負担は計り知れないが、それでも幸せをかみしめる。
             

日本の平均寿命は年々上がっており、今や男性が80.50歳、女性が86.83歳。
計算上は、夫婦揃って60歳を迎えた場合、約40%の確率でどちらかが90歳まで生きることになる。
さらに、約20%の確率で95歳まで生きるのだ。
まさに「人生100年時代」の到来、90歳超えはごく当たり前となってきた。

「90歳を超えるような人の幸福度を考えた場合、何が一番大事かと言えば、当たり前ですが健康面でしょう。
健康に生活できれば、おカネはかからないし、介護施設や老人ホームも必要ない。
たとえ貯金が尽きてきて、限られた年金だけの懐具合でも、
自宅で生活を続けることができ、子供や親族に迷惑をかけない、自立した生活を送れます」

こう話すのは、高齢者の住まい選びで豊富な実績をもつ「シニアの暮らし研究所」代表の岡本弘子氏。
幸福への近道は、やはり健康を維持することにある。
だが現実的には、もっと大切なものがあると同氏は指摘する。

「そうは言っても、90歳という年齢になれば、どうしたって病気にもかかるし、介護が必要になる時もくる。
そんな局面で頼りになってくるのは、結局おカネ、そして面倒を見てくれる人です。
だから、おカネと頼りになる人が充足している人は、90歳を迎えても幸せでいられます。
一方で、どちらも無いという方は、不幸にならざるをえません。

もちろん、人が幸せか否かを、はっきりと線引きすることは難しい。
しかし、体調面や貯蓄額を鑑みて、このまま歳を重ねていけば、幸せになるはずだった人が、
思いがけず不条理な境遇となって、終末を迎えることは十分あり得ることなのです」


では具体的にはどうすれば、「超高齢」となった時に、幸せを維持することができるのか。
あるいは60~70代にも届こうとして、もはや悲惨な終末しか待ち受けていない、
とあきらめるような身の上であっても、90代で大逆転の幸せをつかむことができるものなのか。
             

☆月収20万円が分かれ目

そこで本誌は、複数人の90歳前後の方に取材。
彼らが今幸せなのかどうかを専門家に、あくまで客観的に判定してもらった。
 *
すでに息子も一人立ちした状態にある70代夫婦。
Aさんはサラリーマンとして会社を定年まで勤め上げ、年収は約600万円だった。妻は結婚するまで働いていた。
お互いの基礎年金が約6万円、厚生年金は夫が10万円、妻が6万円。
月額の年金収入は28万円となっていた。住まいは持ち家であり、すでにローンも払い込み済みだ。

しかし、90代に差し掛かったタイミングで妻が亡くなり、年金収入は16万円に大幅減してしまう。
ただ、生保と契約していた終身型の年金保険の受給を、あえて遅らせて80歳より開始。
そうすると月3万円が加算されるので、合計収入は以前よりも9万円少ない、19万円となる。

このケースを前出の岡本氏が解説する。

「90歳以上の世帯では、配偶者の方も亡くなり、子供たちが同居してくれるとは限らない。
結果、一人暮らしになる場合が、ほとんどだと思います。
そうした場合、経済的な幸せの分岐点は、ずばり月20万円の収入です。

Aさんのように老齢年金や厚生年金による年金収入などで月20万円近く貰えていれば、一人暮らしでも余裕が生まれます。
慎ましく自炊を心がければ、生活費も抑えることができます」

これなら、週1の割合で通院しても、医療費は月10万円もかからないため、積立貯蓄も可能になる。
また仮に介護を受ける必要が出た場合にも、やはり月20万円のラインが、一つの目安になると同氏は続ける。

「贅沢ではなくても、平均以上のサービスを受けられる老人ホームに入ろうとすれば、最低でも月15万円はかかります。
その点で言えば、Aさんは比較的余裕があります。
加えて多額な老人ホームの入居金も、この方のように持ち家があれば、それを売却して頭金にできるのも大きいですね。
また自宅での介護を選択するにしても、いくつかの介護サービスを使った生活ができます」

さて、いつどのような健康状態になるのか予測もつかなくなるのが自明な90代。
その時その時の身体の具合に応じて、介護やケアサービスについては選択の幅を広く持つことが、
健康面での幸せの条件にもつながってくる。
             

☆幸せが逃げる人のパターン

「なんだ、結局のところ、おカネがたくさんあれば、90歳になっても幸せになれるのか」
そう安直に結論づけてはいけない。
多くの高齢者のカウンセリングを行う心理カウンセラーのきくちみよこ氏は、自らの経験を踏まえて忠告する。
 *
都内で暮らしていた70代のCさん夫婦。
息子や孫とも近い場所で暮らしており、月30万円以上の年金収入と十分な貯蓄がある。
夫婦で頻繁にディナーへ出かけ、年に2~3度の国内旅行は欠かさない。

幸せな90歳を迎えるには、十分過ぎる環境にあったはずだが、
この後、妻に先立たれてしまったCさんは、予期もしない不幸な晩年を迎えることになってしまうのだ。

この夫婦、仲があまりに良かったことが、かえって災いしてしまった。
90歳を過ぎようという時に、Cさんは突然、最愛の妻を亡くしてしまう。

その結果、妻の死による喪失感と、あまりに長くなった老後生活に対する漠とした不安からか、
周囲に強くあたるように、変貌してしまったのだ。

「息子さんたちが会いに来ても、悪口や愚痴ばかり言い始めるようになったのです。
そのせいで家族は次第に疎遠になり、一層募る寂しさを今度は、友人たちにしつこく訴え続けたために、
余計に周囲から人が離れていったのです。

いよいよ介護が必要になったと気付いた時には、家族から同居を拒否されてしまうという不幸な境遇に陥ったわけです」(きくち氏)

会社勤めをコツコツと長く続けてきた人や、家事や子育てに一人で専念してきた人たち、とりわけ実直な人ほど、
「私は一生懸命頑張ってきたんだ」と自らを誇示する場合が多い。

そうした人が、いざ年を取って、急に孤独な立場になった時、周囲への不満を感じやすくなるようだ。
その不満をつい口に出してしまおうものなら、どんなにおカネがあっても、不幸になってしまう可能性がある。
             

「私の知る限り、90歳以上で幸せに生きている方は『私がここにいるのは、周りの方々のおかげです』
という他人を思いやる気持ちを持っています。
ある方は人の役に立ちたいと積極的にボランティアに参加したり、周囲の人と勉強会を開いたりしていますよ」(きくち氏)

冒頭で幸せな90代として紹介したKBG84。
彼女たちの幸せの源にも、人とのつながりがある。

「都会では、長年連れ添ったパートナーを失った途端に、家に引きこもりがちになって
孤立してしまうご高齢の方も多いと聞きます。
その点、この小浜島は良い意味で昭和の日本のように、隣人との距離感が近い。
KBG84のばあちゃんたちも、その多くが一人暮らしですが、それでも幸せそうなのは、
こうした島民たちの結び付きがあるからだと思います」(前出のつちだ氏)

健康を維持することは、容易ではなくても、おカネをうまくやり繰りし、人間関係を再構築することは
60、70歳になってもまだ間に合う。

人生100年時代、90歳を超えた時、不幸になってしまわないためにも、今から準備しておくにこしたことはない。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
             

私は民間会社の苦楽の多い中小業のある会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、あえなく出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

そして私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、定年退職後から年金生活を始めた・・。
          
家内は私より5歳ばかり若く、私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。

年金生活を始めた当初は、定年の5年前の頃から、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。

こうした思いの底には、私の父は私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死されたこともあったりしたが、
何よりも私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、先輩の65歳、69歳で亡くなったことであった。
                       

私は年金生活を始めた当初でも、お酒は好き、タバコも喫うし、これといってスポーツもしなし、
散策する程度であるので、家内より先にあの世に行く、と漠然としながらも思っている。

このようなダラシナイ私は、私の葬儀、お墓、そして家内の独りの老後で程ほどに生活できそうな状況のことも、
話し合ったりしている。

こうした思いのある私は、定年退職後まもなく公正証書の作成できる処に出向き、
残された家内の生活が困苦しないように、私の遺言書を作成したりした。

そして自宅を処分して、2DKのマンションを購入して、残された人生を過ごされれば、
と私は家内に言ったりしている。
  
しかしながら、こうしたことは天上の神々の采配に寄るものであり、
家内に先立たれることもあり、私が独りぽっちとなることも、一年に幾たびか、
おひとりさまの生活を思いめぐらすこともある。
                       

最初の起因は、私が定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に家内の父が病死され、
家内の母は独り住まいとなった。

そして家内の母はこ自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で年に4回ぐらい母宅に泊りがけで行っている。
       
こうした中で、もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

こうした時の私の心構えは、何かとプラス思考の多い私は、
万一、いつの日にか私を残して家内に先立たれた場合、
私は『おひとりさま』となってしまうので、特別演習かしら、と思いながら、
大幅に手抜きした料理、掃除、洗濯をしたりして過ごしてきた・・。

しかしながら決定的だったことは、私が64歳の時、知人のひとりが奥様を病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは通夜に参列し哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、心痛な思いで深く学んだりした。
                          

私は71歳の身となり、家内は66歳となり、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして70代の心針初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、何かと家内と談笑したり、
ご近所の奥様、ご主人さまと話し合ったりすることが多い。

或いは、知的好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

私たち夫婦は年金生活を過ごして、早や12年目になっているが、
幸いにもお互いに大病に遭遇せず、過ごしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないことが多く、
私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えて、
ここ10年は安楽の日々を過ごしてきた。

そして今こうして過ごしている私たち夫婦は、最良の日々かしら、と私は感じたりしている。

これからの日々は、体力の衰えを増すことを実感しながら、
やがていつの日にか、どちらかが不運にも大病になったり、最悪の場合は死別して、おひとりさまとなったりする。

こうしたことは自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。
                        

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているが、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
小心者の私は一年に何回かは、家内に先立だれ『独りぼっち』になってしまうことを考えたりしている。

私は家内と日頃から、子供がいない一代限りの為か、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は兄妹などの親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。
          

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。

そして家内に先立たれた時、こうした古ぼけた家でも小庭の手入れも含めて維持管理するのは、
苦楽が伴なうので住めないだろう、と私は改めて感じたりした。

やむなく小庭のある古惚けた一軒屋を処分し、都立の大きな公園が隣接した場所で、
小さな2DKのマンションに転居すると思われる。

そしてスーパーと本屋に徒歩10分前後で行けた上で、
大学総合病院に公共の交通機関の利便性のある場所を選定するだろう。
                        

この前提として、もとより住まいが狭くなるので、
やむなく本の大半は処分し、500冊前後に厳選した上、
映画作品のDVD、そして音楽のCD、DVDは程々に多いがすべて移動する。

こうした独り身の『おひとりさま』になった時の私の日常生活は、
付近の公園で四季折々の情景を眺めながら散策したり、
スーパーでお惣菜コーナーの売り場で買い求めたり、本屋に寄ったりして、数冊を購入する。

過ぎし年、新聞の折り込み広告で、マンションの売却のひとつに、
私がこよなく散策している公園、遊歩道に隣接地帯のマンションのひとつが掲載されていた。

広い敷地の中で、数多く樹木もあり、広場もゆったりとして数10棟が10年前頃に分譲を始めた。
この中は殆ど広い3LDが多い中、小さい2DKの中古分譲があった。
                                           
何かしら12畳と6畳の二部屋に、バルコニーが有り、もとより台所、バス、トイレ付であった。
私は『おひとりさま』になった時は、こうしたスペースが最適かしら、と思案させられたりした・・。

12畳は居間として、少し大きめのテープルを置き、壁一面に本と映画・音楽の棚で、
テープルにはバソコンを置き、窓辺のバルコニー越しにマンション敷地内の大きな樹木が数多く観える・・。
                          
そして食事もこのテーブルを使い、四季折々の常緑樹、落葉樹の情景を眺める。

6畳はベットの下には収納棚に下着と靴下、壁側は衣服棚・・このように思い馳せたりした。
そして付近の区立の小公園を散策代わりに、毎日のように歩く。
                                               
                                              
こうした中で、週たった一度だけ定期便のような居酒屋に行き、
中年の仲居さんと談笑し、からかわれながら、純米酒を二合ばかり呑むだろう。

こうした中でも、私は家内の位牌の代わりに、
定期入れに愛用した革のケースに、家内のスナップを入れて、いつも持ち歩くと思われる。

こうした日常生活を過ごすと思われるが、
私は国内旅行も好きなので、少なくとも年に4回ぐらいは2泊3日前後で、各地を訪れるだろう。

劇作家のチェーホフの遺(のこ)された、
《・・男と交際しない女は次第に色褪せる、女と交際しない男は阿呆になる・・》
と人生の哲学のような名言は、
どうしたらよいの、と私は考えたりするだろう。

やむなく、私は宿泊先の仲居さんで、お酌をして下さる方たちと、
やさしくふるまいながら語りあうと想像される・・。

そして、その夜は枕元に革ケースを置いて、
人生はいつまで続くの・・、と天上の人となった家内に呟(つぶや)きながら、眠るだろう。
                        

このように小心者の私は思いめぐらす時がある。


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「身内が亡くなったときの届出と相続手続き」の本、これからの私たち夫婦の教科書と思い深めて・・。

2016-01-15 11:52:50 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅の地域に住む年金生活の71歳の身であるが、
住宅街が広がる中で、少しばかり広い雑木の多い小庭の中、築後37年ばかりの戸建てに住んでいる。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
お互いの趣味を尊重して過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や年金生活は12年生となっている。

そして家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
             

こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                                 
私たち夫婦は幸いにも大病もせず生活をしてきたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。

そして漠然としながらも、いつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。
             

私はお通夜、告別式は幾たびも参列してきたが、まだらに少し覚えてきた程度であり、
ときおりネットから葬儀に関することを含めた知識を学んできたが、
到来される事柄を順序だてては、あやふやになり、頼りにならない男である。

このような心情を重ねてきた私は、昨年の初秋に、もしかしたら白内障かしらと思い、眼科専門医院に訪ねる前に、
本屋に寄ったりした。

私は初めての病院で初診の時は、待合室で長く待たされることが幾たびか体験してきたので、
たまたま本を持参することを忘れて、やむなく本屋で一冊でも・・と思いながら本屋で探し求めたりした。

こうした時、「身内が亡くなったときの届出と相続手続き」と題された背文字を見て、
手に取りパラパラと見たりした・・。
               

本の帯には、《いつまでに 何を どこに 届け出ればいい? 》と大きく明示されていた。
そして帯の内面には、《あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ・・。
                  ゆっくりと故人を偲んでいる間もなく、
             遺族には、やらなければならないことが
                     たくさんあります。》と明記されていた。

私は立ち読みしながら、身内が亡くなった時に関して、届出、手続き、遺言書、遺産分割協議、保険証の返却、
クレジットカードの解約などの届出・手続きが、漏れがないようにできる108の事柄がチェックリスト付きで、
掲載されていたので、いつの日にか私たち夫婦が残された方は、確かな教科書になると思い、買い求めたりした。

この本は、編集著作は相続手続きセンターで、発行は日本実業出版社、2015年9月10日に発刊され、
税別1400円と記載されていた。

やがて、私は眼科医院の待合室で、この本を読み始めたが、
恥ずかしながら無知だったことも数多く、知らなかったょ、と齢ばかり重ねた私は、微苦笑を重ねたりした。

その後、ときおり私は本を開いたりしている。
しかしながら、出来る限り私たち夫婦は体力は衰えを増す中で、共に長く過ごしたいのは本音であるが、
こればかりは天上の神々の采配に寄ることだよなぁ、と微苦笑をしたりしている。

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♪人生は紙飛行機・・と心の中で唄いながら、老ボーイの私は微苦笑して・・。

2016-01-14 15:33:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                         
私は年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
最寄のスーパーに買物に行ったり、或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、季節の移ろいを享受している。
                                       

こうした私の根底には、定年前のサラリーマン時代の私は、数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた。
         
そして定年後の年金生活を始めた私としては、この家内のささやかな時間を崩すのは天敵と確信し、
平素の買物メール老ボーイを自主宣言したりした。
          

本日も買物をして帰宅した後、いつもように遊歩道、そして小公園などを歩いたりした・・。

冬晴れの中を歩き、やがて小公園に立ち寄り、木のベンチに私は腰を下ろしたりした。

おだやかな陽射しを受けた中、ぼんやりと早くも年金生活は12年生となったが、
定年後の年金生活は、つたない我が人生で何よりも安楽に過ごしているので、
幸(しあわ)せという言葉がこの世にあるならば、こうしたことかしら、と私は微苦笑したりした。
          

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職後、
多々の理由で年金生活を始めた・・。
しかしながら、この間は幾たびのリストラを何とか通過したが、最後の5年半はデフレ烈風の中、
あえなく出向となったりし、私のサラリーマン時代は悪戦苦闘が多かったりした。

そして年金生活を当初は、解放感で高揚し、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。

何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時を過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりした。
          

こうした時、若き時期に映画、そして文学青年の真似事を敗退した私は、
情念の残り火のように西行、鴨長明、芭蕉が遺(の)こされた作品に思いを寄せることが多かった。

もとより西行(さいぎょう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人であり、
  ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 『山家集』もある。

そして鴨 長明(かもの・ ちょうめい)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけての日本の歌人・随筆家。
『方丈記』が代表作となっている。

松尾 芭蕉(まつお ・ばしょう)は、江戸時代前期の俳諧師。
数多い中で私は、旅に病んで夢は枯野をかけ廻る、一句に圧倒的に魅せられてきた。
          

しかしながら何かと身過ぎ世過ぎの多い年金生活を数年過ごすと、
日常生活とか幾たびかの旅先に於いては、春夏秋冬の情景、この間の季節のうつろう情景に、
心を寄せて、深めて今日に至っている。

そして人影の少ない遊歩道、小公園などで、今の時節であったならば、
♪さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の・・と作詞不詳で文部省唱歌のひとつの『冬景色』を、
かぼそい声で唄ったり、心の中で唄ったりしてきた。
          
そして私は幼年期に農家の児として育てられたので、あの頃に愛惜感があるかしら、と微苦笑したりしてきた。
          

やがて私は帰宅する道を歩いている中、
♪人生は紙飛行機・・と心の中で唄いながら、やがて人影がないを確認した後、
かぼそい声で唄ったりした・・。

この後、どうしてこのような歌を唄ったのかしら、ぼんやりと思い馳せたりした。

やがて家内が朝の8時過ぎ、昨年の秋の頃からNHK連続テレビ小説『あさが来た』を、
居間にあるテレビで視聴している。

私は居間で新聞を読んだりし、ドラマには興味はないが、主題歌を毎回聴いている中、
若き女性の唄声に魅せられ、やがて『365日の紙飛行機』の歌と知ったりした。

そして何よりも魅せられたは、つたない半生を歩んできた私は、この歌詞、人生を的確に巧く表現された、
と微苦笑を重ねたりした。

やがて何かと単細胞の私は、毎回聴いていると心の片隅に残り、
老ボーイの私でも、♪人生は紙飛行機・・と心の中で唄たったと思われる。
          

そして人生は・・それぞれ方は、その人なりに過ごしている、と知人、友人を思い浮かべて、
自宅に向い歩いたりした。

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遅ればせながら我が家も、平常体制になったなぁ、と老ボーイの私は微苦笑を重ねて・・。

2016-01-13 16:00:24 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

家内は私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                         

こうした中で、我が家の年末年始は、遠方にひとり住まいの家内の母に我が家に来宅してもらい、
年末年始の期間は我が家で共に新年を迎えることは、早や12年を迎えている・・。

今回も昨年の12月28日、家内の妹に引率されながら家内の母は、
定例の病院でリハビリ、やがて我が家の最寄駅まで来て頂いて、
料理をしていた家内が最寄駅に出向き、家内の妹から引き継いで、我が家に何とか到着し、
新年の3日の朝まで、我が家は3人で談笑を重ねながら過ごしてきた。

そして家内は家内の母宅まで送り届けて、我が家の年末年始の表面上の行事は終えた。

しかしながら、この後は膝(ひざ)と腰を悪化している家内の母に備えていた、家内の母が6泊7日で滞在した部屋、
居間、浴室などを家内が奮闘して、後かたずをしたりした。

そして『七草がゆ』の7日は、何かと慌ただしく平素の朝食を私たち夫婦を頂いたりした。

やがて世の中で働いて下さる諸兄諸姉の多くが、3連休となる9日から11日まで、
家内は年末年始の疲れが出て、風邪がひどい状況となった・・。
          

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

そして今回は11日となったが、家内は結果、風邪で頭痛と寒む化を感じているので、
『今回の会合・・休んで暖かして静養すれば・・ボクが二人前に振舞うから・・』
と私は微苦笑しながら家内に言い、家内はためらいながらも、結果として初めて欠席とした。

私たち夫婦は結婚して39年を迎えているが、家内は風邪などを含めて、床に伏していることはなかったが、
昨年は家内の母は膝(ひざ)と腰を悪化し、幾たびか家内は家内の母宅に滞在して介護したり、
或いは病院に数10回ぐらい付き添ったりしてきたので、疲れが出たと思われる。

このような関係で、遅ればせながら12月度の家計簿の締めを昨日の午後のひととき、
私たちは行なったりした。
平年だと4日前後で、12月度、そして連動しさせた昨年度の年次決算の真似事をしたが、
やむえないなぁ、と私たちは微苦笑したりした。
          
               
今朝、私たちは朝食を頂き一時間を過ぎた頃、
家内は新聞の折込みに入っていた最寄りのスーパーにチラシを取りだして、
家内が赤のサインペンで丸印を付けたりする。

まもなく、この赤丸が我が家の本日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

この後、家内から、
『本日は・・これだけお願い・・』
と家内は最寄のスーパー2店のチラシを私は手渡しながら、私に言ったりしている。

私は現役サラリーマン時代の緊張感から解放されて、早や11年が過ぎいるが、
体力の衰えも感じている中、せめてボケてはいけないと思い、
『はい! 了解致しました!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく返事をしている。

このような我が家の平素の買物パターンで、私は独りで指定された駅前のスーパー、専門店に行ったり、
或いは最寄のスーパーに行くこともある。

しかしながら本日は、家内から、
『この前の買物・・とろけるチーズとお願いしたのに、大きなスライスチーズでした・・
ボケるのは、少し早いんじゃない!』
と家内は苦笑しながら、私に言ったりした。

『そうだったよねぇ・・気を付けます!
ボケるのは、10年早いよねぇ・・』
と私は家内に詫びながら、明るく応(こた)えたりした
                         

私は2004年(平成16年)の秋に定年後の年金生活を始めて以来、
平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

我が家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
                                

やがて私は買物に出かける為に着替えが終わった後、
『郵便局とXX銀行・・昨年の12月中旬より通帳を記載していなかったから、
ついでに寄って、通帳記入してくるねぇ』
と私は家内に言ったりした。

私はスポーツシャツにフリースを着て、防寒着のフィードシャケット、
そしてストレッチパンズの長ズボン、ウォーキング・シューズを履き、身を整えて颯爽として出かけた。

やがてXX銀行、近くにある郵便局で、私たちそれぞれ通帳を記載した後、
『無念ながら、それぞれ通帳の一千万円も満たない貯金も・・年金生活を過ごせば、確実に減るばかりだものなぁ・・』
と苦笑しながら心の中で、こっそりと呟(つぶや)いたりした。

この後、スーパーで節分用の豆を見かけて、三種類ばかり衝動買いをしたりした。
そしてまもなく2月3日を迎えれば、『節分の日』を思い馳せて、
月日の余りにも早く過ぎて行く、と深く感じたりした。
          

やがて足早に自宅に向かって歩いている時、
遅ればせながら我が家も、平常体制になったなぁ、と老ボーイの私は微苦笑をしたりした。

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「ミニマリスト」の風潮の時代、時代遅れの老ボーイの私でも、微苦笑しながら、やがて憂(うれ)い・・。

2016-01-12 13:15:28 | ささやかな古稀からの思い
今朝、私はいつものように配達された読売新聞の朝刊を読んでいる中、
特集連載と思われる『ワカモノミクス 2016』を少し読んでいると、
昨今の若き世代の風潮に、微苦笑させられた・・。

《・・「ミニマリスト」はなるべく持ち物を減らし、モノに頼らず生活しようという考え方だ。
2010年前後に米国で流行し始め、日本でも昨年、「新語・流行語大賞」にノミネートされた。

モノにこだわりがなくなるので、物欲や掃除に煩わされることが少なくなる。
脱・物質主義がもたらす精神の余裕に、意義を見いだす人々が増えている。

その中心が若者だ。
立教大の有馬賢治教授(マーケティング論)は、
「不景気が当たり前のバブル後に、育ってきたためぜいたくをする考えが薄い。
『体験』で自分をアピールできるソーシャル・ネットワーキング・サービスが普及したこともあり、モノに執着しない」と分析する。・・》

このような若き世代の風潮を学び、時代遅れの老ボーイの私でも、微苦笑したりした。
やがて、こうした風潮が蔓延すると、日本の消費は益々冷え込んで、日本経済は衰退して、国力は劣化する、
と憂(うれ)いたりした。

こうした影響として、少なくとも私たち高齢者にも、社会保障基盤の年金は削減が加速され、医療、介護も劣化するので、
困るよなぁ・・と漠然と思い馳せたりした。
               

私は民間会社の中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く奮戦し、
2004年(平成16年)の秋に定年退職した身である。

こうした中で、この間に幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えてきたが、
やがて最後の5年半はリストラ烈風の中、30年間奮戦してきた本社から放り出されて、出向となり、
つたない私なりに失墜感にさいなまわれたりした。

そして出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励して奮闘し、やがて出向先で定年迎えることができたので、
敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
        
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在である。

このように悪戦苦闘の多い中で、敗残者のような状況であったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活を始めた・・。
               

私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭の中で、古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

そして世の中は、夫65歳以上、妻は60歳以上の夫婦のみの無職世帯は、
高齢夫婦無職世帯と称しているが、我が家も同じだよなぁ、と私は心の片隅にあるが、
私たち夫婦は息子、娘がいなく、もとより孫もいないので、実感が乏しいが本音である。


こうした中で、インターネットに関して、私が定年退職した2004年(平成16年)の秋を迎る前の夏に、
遅ればせながら我が家にインターネット回線を導入した。

これ以来、固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
据え置き型のパソコン、予備機としてノートパソコンを設置して、今日に至っている。

ここ11年、据え置き型のパソコンに関しては、故障とか新製品に戸惑いながら、
三回ばかり買い改めたりしてきた。
               

こうした中で私は、ガラケーと称される携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
6年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には携帯電話が必要と思ったりした。

過ぎし昨年の3月中旬、家内用に携帯電話の入門者に最適と思われる『らくらくホン』コースを一台ばかり買い求めた・・。
そして選択コースは毎月2200円の『かけ放題』とした。

『かけ放題』にした理由は、我が家は固定回線の光ファイバーの『ひかり電話』を愛用しているが、
家内が独り住まい家内の母宅に、毎晩夕食前のひととき30分前後電話をし、
健康の状況など尋ねたり、聞いたりしている。

こうした結果として、固定の廉(やす)いと思われる『ひかり電話』でも、
毎月利用料金として3000円前後となったりしてきた。

このような事情で、従来の『ひかり電話』をできる限りやめて、
これから携帯電話の『かけ放題』を活用すれば・・という思惑があり、
メールとか写真などを利用できず、単なる移動できる電話機として使用している。
          

このような状況であり、ましてスマホと省略されているスマートフォンも使えないのである。
そしてスマホは、ここ7年急速に普及して、2012年(平成24年)には世帯保有状況が40%となり、
最近は60%になった、と私は学んだりしてきた。

そして私は、フェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように私は、無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
                          

或いは自動車の免許証に関しても、定年後まもない更新時に、無念ながら齢を重ね、判断力も鈍り、
何かと小心者の私は、自動車を運転して、人身事故でも起こしらと危惧し、断念してきたので、
自動車もない我が家となっている。

こうした中で私は、定年後の年金生活を始めて以来、平素の買物は自主的に専任者となった私は、
家内の依頼された品物を買い求めに、殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

我が家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に住み、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分である。

或いは小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
そして私が長年通勤で利用した『成城学園前』駅は徒歩30分となっているが、
何かしら京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
               

私の衣服に関しては、年金生活でも、だらしがないのはみっともないわ、と 家内の指示で、
程々良き品をデパートで買い求め、長らく外出着とした後、やがて普段着、最後は庭の手入れの制服としている。

そして靴、帽子、紳士バックも同様に買い求めてきたので、
ときおり私は、イギリス風の中高年の思考と同じかしらと思ったりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
過ぎし東大日本震災後、晩年期に備えて大量に処分してきたが、今や3000冊ぐらいになってしまったが、
高校生以来、読書が好きで、相変わらず本屋に寄り、魅せられた本を購読している。

或いは居間にある映画棚から、やはり大量に処分してきたが、
ときおり保管してあるビデオテープ、DVDの300作品ぐらい作品を、居間のテレビを通して鑑賞したりしている。

ときには音楽棚から、CD、DVDの1000作品ぐらい作品を聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
               

私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、幾たびか旅路を重ね、遊学しているが、
昨年より、家内は家内の母の介護で、国内旅行がままならず、
ときおり私たち夫婦は微苦笑している。

このように私たちは、程ほどの貯金を取り崩して年金生活をしているが、
何かと根がケチな私でも、関心のあることに散財しているが実態となっている。

そして散財をやめて、ひたすら貯金の残高にこだわり、
私は死後にあの本を買って読めばよかった、あのスポーツシャツを買い求めて着たかったなど、
と後悔することも多いと思われ、何事も程ほどにねぇ、と時代遅れの私は、微苦笑している。

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天上の母に私たちは見守られて、幾たびか年を重ね、早や18年は過ぎ去り・・。

2016-01-11 16:30:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

こうした中、私の母の命日が近づくと、私たち夫婦と私の妹の2人で、
この時節に4人でお墓参りをしているのが、恒例となっている。

今回は、家内は年末年始に何かと孤軍奮闘した結果、風邪で頭痛と寒化を感じているので、
『今回の会合・・休んで暖かして静養すれば・・ボクが二人前に振舞うから・・』
と私は微苦笑しながら家内に言い、家内はてためらいながらも、結果として欠席とした。

やがて私は妹の2人と待ち合わせしている駅前の喫茶店に向った・・。
そして10時に私たちは合流して、お墓に向かった。
          
               ☆通称『泉龍寺』である曹洞宗 雲松山泉龍禅寺☆

私の母は、婦人系の癌で入退院を3年ばかり繰り返した後、
1998年(平成10年)1月12日を過ぎ、13日になったまもない深夜に亡くなったのは、
私は53歳の時であった。

少し前の年末に体調が悪化して、入退院をしていた都心の広尾にある日本赤十字の病院に
救急車で運び込まれた。
そして年始を過ぎると、医師より危篤状態が続いていると教えられたので、
私は会社で勤務していた時は、何かと少し緊張気味で、死がまもないことを覚悟はしていた。

こうした中、12日に会社より帰宅し、家内と夜の9時過ぎに食事し、
平素は弐合徳利で辛口の日本酒を弐合ばかり呑んでいた私は、
さすがに自重して、ぐい呑みで少し呑んだりしていた。

まもなく夜10時過ぎに長兄より連絡があり、母の容態が更に悪化した、と聞いたりし、
長兄夫婦、そして私たち夫婦は長兄の自動車で病院にかけつけた。

母は少し息苦しいそうであったが、私たちは死去の前に駆けつけられることが出来たのは、
何よりの慰めと思ったりした。
そして私にとって甥にあたる長兄の二人の青年も、まもなく到着したり、
妹のふたりも着き、深夜の1時過ぎに、私たちに見守れる中、
母は78歳になって、わずか11日ばかりで他界した・・。

この後は13日からは私の生家である実家の長兄宅で葬儀が始まった・・。
          

私の祖父と父は、農家で程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手を借りて耕し、
雑木林、竹林などがある東京郊外のよくある旧家であった。

私は長兄、次兄に続いて1944年〈昭和19年〉の秋に生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので跡取りの憂い万全となり、
今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私は幼児なりに感じ、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。

この当時のどの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は小学6年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

このような生活苦の中で、もとより母、そして父の妹である叔母が嫁ぐまで、
私たち兄妹は育てられ、やがて成人したのである。
          

母の葬儀は13日に『仮通夜』をした翌日の14日には『本通夜』の日であったが、
朝から雪が降りだして、ときおり風も吹き、この地域として稀(まれ)に15センチぐらいの積雪となり、
公共交通機関にも影響をもたらしたので、私は会社関係の方たちに辞退の連絡をしたりした。

親戚、知人、近所の方々に雪が舞い降り、風も吹き荒れる中に来宅して頂き、
私たち親族は恐縮しながら、出迎えたりした。

そして翌日の15日の告別式は、まばゆい快晴の青空となり、雪解けの中、火葬場に行ったりし、
帰宅後、『初7日』が行われ、忌中(きちゅう)の法事を終った。

そして、『四十九日』の法要の日、ときおり雪が舞う寒い日となったが、
『お母さん・・私を忘れないでねぇ、と言っているように、雪が降ったりしている・・』
と私は本通夜の雪が降った情景に思いを重ねて、妹、そして叔母に微笑みながら言ったりした。


そして『百日』、『新盆』の法事が過ぎて、
その後は『一周忌』、『三回忌』、『七回忌』、そして2010年(平成22年)の『十三回忌』の法事があった。

この法事以外は、この間に私たち夫婦と妹ふたりで、命日が近づくとお墓参りをしている。
長兄も多忙で、そして長兄の子の青年たちを含めた家族のスケジュールこともあり、
別にお墓参りをしているので、
何となく私達4人は、お互いに日取りを調整して、お墓参りの後、
付近の食事処で昼食をしながら懇親会を重ねてきた・・。

最初の頃は、お互いに勤めていたので、命日の前の休日が多かった。
そして私は60歳を過ぎて定年退職になったり、やがて数年過ぎた後は妹のふたりも60代となった。
たまたま本日の11日は妹のひとりの関係で、母の命日に際してのお墓参りの日となった。
          

寺院の境内は広く数多くの大木があり、冬枯れの情景で静寂で、
風もなく淡い暖かな陽射しが差し込んでいた。

そしてお墓に行き、私たちは墓石を水で清め、生前の母が好きだったお花を挿し、
お米を備え、母の好みであったお線香を奉げた。
そして紫煙は香りを残しながら、ゆったりと空に向かい昇っていく・・。

花の匂い、お線香の香り中、もとよりお墓参りは生者の慰めと知っているが、
亡くなった父と母、そして祖父に守られ、
こうして私は生きてこられてきたので、私は感謝の一心で、手を合わせたりした。

生前の母と私の家内は、ある程度の遠慮がお互いにあった上、
何かと心身の波長が合い、私は家内、母に秘かに、今でも感謝している。

この後、母のおもかげがよぎっていった。

私の場合は、父が私の小学校の2年の時、
そして一年後に祖父も死去されたので、何かと母の存在が多かった。

このためか、ときたま生前の母のちょっとしたしぐさ、言葉づかいが想いだされる。

『命日のお墓参り・・このように風もなく、おだやかで・・よかったよねぇ』
と私は妹に言ったりし、
お線香の煙が芳香を残して、澄み切った空の中、立ち昇りながら消えいくのを見たりしていた・・。


私たちは幼年期よりお互いに『・・ちゃん』付けで呼び合っているので、
平素、お互いに連絡し合ったりする中で、亡くなった母の話題になったりすると、
『XXちゃん・・あの時は・・お母さんは・・このように言っていたよ』
と言ったりしている。

このように私達は、幾つになっても、亡くなった母に見守られて、今日に至っている。
          

この後、個室でゆっくりと昼食を頂くことができる食事処を妹のひとりが予約していたので、
新百合ヶ丘にある『梅の花』に移動して、
私たち3人は、お互いに談笑し、懇親したのであった。

そしてお互いに過ぎ去ったこの一年の出来事のこぼれ話しなどを、
微苦笑しながら私は妹のふたりに話したりした・・。

私は今年の誕生日で年男の72歳となり、妹は69歳と67歳となる身であるが、
心身健在であればこそ、こうして母の命日に近い日に、
お墓参りをしたり、その後は昼食を兼ねて懇親できる、と思いを深めたりした。

私の現役時代の50代の時、私と余り変わらない齢の同僚の方が亡くなったり、
先輩の方の中で、60歳を少し過ぎた時、突然に訃報に接したりしてきたのである。
その上、3年前には私と余り変わらない65歳、或いは59歳の知人も死去された・・。

このような体験もあり、いつこの世と告別するか、
もとより天上の神々の采配によるので、私は1日を大切にし、切実に過ごしたりしてきた。

この後、私たちは食事処の『梅の花』を辞した後、駅まで5分ばかりの道を歩きながら、
『毎年・・こうして・・逢えるといいね・・』
と私は妹の2人に言ったりした。

『そうよねぇ・・お互いにねぇ・・』
と妹のひとりが私に微笑みながら言ったりした。


私はこの寒い季節になると、私の住む地域では雪を舞い降る時もある。
こうした情景を私は見つめたりすると、
          

『私を忘れないでね・・』
と母のおもかげと共に声が聴こえたように思い、
ときには心の中で『おかあさん・・』と呟(つぶや)いたりする時もある。


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『「ぴんぴん老後」と「寝たきり老後」の分かれ道!』の本、シニア世代の必読書、と私は思い深めて・・。

2016-01-10 15:23:48 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。

今朝、いつものように配達された読売新聞の朝刊をを読んでいる中、3ベージの下段には、
出版社の発刊された数多く本の案内が掲載されていた。

こうした中で、何よりも私が関心を感じ深めたのは、
『「ぴんぴん老後」と「寝たきり老後」の分かれ道!』と題された本で、案内文を精読してしまった・・。

たとえば、『認知症になりやすい性格がある?』、『「スロージョキング」で脳も元気に』、
『心身の「痛み」を放置すると寿命が縮む』などが明記されていた。

そして心身溌剌と思われる82歳の黒柳徹子さんでも、
《この先10年のために生き方を変えました》と、この本に推薦を寄せられていた。

或いは、『寝たきりになりたくない!40代予備軍から、シニアまで必読』と掲げられていた。


やがて私は、平素の買物メール老ボーイで、たまたま本日は駅前のスーパーで買物するので、
本屋に寄って買い求めよう、と固く決心した・・。
               

私は中小業の民間会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始めた身である。
 
こうした中で、私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
知人は定年前の59歳で病死し、残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。

或いは定年後の62歳で、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
       
何よりも思いがけないことは、知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
                                 

やがて私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、一昨年の9月に古稀と称せられる70歳になり、
家内もこの年12月に高齢者入門の65歳となり、お互いに介護保険を支払う無職高齢世帯となった。
     
やがていつの日にか私たち夫婦は、片割れとなり、残された方は『おひとりさま』となるが、
果たして・・と年に数回は思案したりしている。

しかしながら私は、何とか60代を大病もせず卒業できたが、
不幸にも知人の病死、大病で入退院している友人を思い重ねれば、涙を浮かべたりしてきた。
                          

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。

私は健康寿命は、平均として男性は71歳、女性74歳と学び、
健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
認知症だけは勘弁してょ、と念願しながら、歩いたりすることもある。


やがて長寿になれば、いつの日にか介護を受ける身となり、
いずれかの老人ホームにお世話にならざるを得ないだろう、と漠然と思案したりしてきた・・。
               

こうした思いを秘めて、老人ホームについては漠然としながらも、注視したりしている。
          
しかしながらファイナンシャルプランナーの有田美津子さんによると、
有料老人ホームの相場(家賃や食費などの月額)は地方では15万円程度。
東京都内ではそれが25万~30万円ほどに跳ね上がり、23区内ともなると40万円ほどにもなる・・》
と教示され、私も切実な難題である。
          
私たち夫婦のどちらかが、要支援になった時は、『特別養護老人ホーム(特養)』は、
介護に要する負担金は少なく済むので、 少なくとも52万人の待機者いて、
国からの公費が1人あたり年間180万円程度多くかかるともされ、
財政的に『特別養護老人ホーム(特養)』を増やし続けることは難しい、と新聞などで読んだりしてきた。

その上、原則的として要介護2以下の人は、入居は困難である。
                          

『サービス付き高齢者住宅』に関しては、入居条件は60歳以上であることだけで、
要介護度に関係なく誰でも入れる上に、要介護・要支援認定を受けていれば、60歳未満でも入居が可能。

そして 館内および部屋はバリアフリーで、日中は館内にケアの専門家の職員が常駐して、
安否確認と生活相談のサービスを提供する。

ただし、サービス付き高齢者住宅は、介護や食事、健康管理などのサポートはセットではなく、
あくまで高齢者向けの賃貸住宅である、と学んだりしてきた。

そして民間の『有料老人ホーム』に関しては、
少なくとも入所一時金は1000万円、そして毎月は最低として利用料金は20万円が要し、
更に手厚い介護を受ければ高額となり、私は溜息を重ねたりしてきた。
               

その上に昨今、民間の『有料老人ホーム』でも倒産が多くなったと知り、
要介護となった時の身を思い馳せると、住まいの迷子は勘弁してほしい、と思ったりしている。


先程、本屋で購入した『「ぴんぴん老後」と「寝たきり老後」の分かれ道!』(中央公論新社)の本を読み始めている・・。
                  

最初に驚いたのは、女性専用月刊誌の『婦人公論』の別冊特別号であったので、
私は微苦笑しながら、もとより女性も男性も「寝たきり老後」は、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
困苦する晩年期になる、と思いながら読んだりしている。

そして今回の本に於いて、数多くの教訓を学び、何とか80歳を迎えた時は体力は衰えても、
自立した生活できるように、秘かに念願している。


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安倍首相、来年4月の消費増税を再延期!?学び、政治・経済に疎(うと)い私でも、微苦笑して・・。

2016-01-09 14:40:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
朝食後のひととき、ネットでニュースを見たりしていた中で、
【 安倍晋三 選挙のため「消費増税やめる」衝撃発表の可能性 】と見出しを見て、
政治・経済に疎(うと)い私でも、どういうことなのょ、とクリックして読んでしまった・・。

やがて私は、微苦笑しながら安倍晋三氏に関する本を二冊ばかり読んできた私は、
消費増税の再延期もあり得る、と思いめぐらしたりした・・。

この記事は、『女性自身』が1月8日6時51分に配信された記事であり、
無断ながら転載させて頂く。
               

《この夏、日本は重大な岐路を迎えることになりそうだ。
来年4月の消費増税をめぐり、自民党と公明党が大モメしたものの、
最後は安倍晋三首相(61)の“決断”で一件落着した軽減税率の適用品目。
だが、一部で早くもこんな噂が――。

「今年7月に参院選があります。
その直前、“国民生活を考え、消費増税を再延期します”と、安倍首相が“決断”してみせるというんです。
そこで一気に国民の支持を集めて、衆参ダブル選に突入すれば、自公が衆参両院で3分の2の議席を取れる――。
そんな“計画”が囁かれているんですよ」(政治部記者)
 
言うまでもなく、両院でそれぞれ議席数の3分の2を押さえれば、憲法改正の発議が可能になる。
だが、本当にそんな“荒業”はあるのか。
政治評論家の有馬晴海さんに聞くと、安倍首相が衆参ダブル選挙に突入する確率を「80%」と断言した。

「“改憲”は、祖父の故岸信介氏以来3代にわたる首相の悲願。
安倍政権の大目標です。
アベノミクスによる景気対策や、最近も高齢者への3万円給付金を決めて、バラマキを強行するようですが、すべて憲法改正のためでしょう」

安倍政権は昨年9月、集団的自衛権の解釈改憲を行い、安保法案を成立させたばかり。
「本音では、解釈改憲でなく、憲法そのものを改正して、すっきりさせたいはず。
その“最初で最後の機会”が、次の参議院選挙なんです」
               

最大のネックが、参議院での与党の議席数だと有馬さんは言う。
「現在、参議院の議席数は、自公で55%ほど。
3分の2以上に底上げするには、前回同様に圧勝が見込まれる衆院選に、ぶつけるのが最善なんです」

参院選で「30議席増」の大勝利となれば、改憲に必要な162議席を余裕で超えることになる。
その“秘策”が衆参ダブル選だというわけだ。
ならば、噂どおりに“消費増税再延期”の決断表明もある――?

「衆参ダブル選挙は80%あると見ますが、“消費増税再延期”はできないでしょう。
日本の財政健全化は、国際公約と言っていい状況です。
ここで無理して延期すれば、国際的に“日本売り”が加速し、経済がとんでもない状況になってしまいますから」

この夏、日本は重大な岐路を迎えることになりそうだ。》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
               

安倍晋三氏の政治生命の最終目的は、主要国と同様に国家のありかた、そして国民の生活、安全を守れるように、
確かに現代に適応した憲法に改定する、
こうしたことは同じ敗戦国のドイツでも幾たびか憲法を改定してきた。

日本の憲法は、敗戦後まもなくアメリカを中核とした国際占領軍の監視下で作成されたので、
特にここ50年、継ぎはぎのように解釈して歩んでき、遅ればせながら現世にふさわしいように改定する、
と私は解釈しているひとりである。

こうした怜悧で真摯な目的を実施する際、当然ながら国民から信託されている国会議員の3分の2以上の賛意が必要であり、
この前提として、来たる衆参議選で、有権者から圧倒的な支持を受けることが不可欠である。

数多くの国民は、消費増税は険悪され、幾たびか消費増税が実施される毎に、実施後は時の政権が予測した以上に、
買い控えなどで国内経済は冷下してきた。

消費増税は少子高齢化が増す社会の中で、社会保障費が膨張し、やむなく財政の更に悪化を防止する為と理解してきた。
               

今回、《・・日本の財政健全化は、国際公約・・。
ここで無理して延期すれば、国際的に“日本売り”が加速し、経済がとんでもない状況になってしまいますから・・》
と記載されているが、私は大丈夫と感じているひとりである。

私は昨年の12月下旬に、私が愛読している講談社の基幹サイトのひとつの【現代ビジネス 】を見たりし、
大蔵省(現財務省)入省、理財局資金企画室長、内閣参事官など歴任し、
小泉内閣、安倍内閣では 「改革の司令塔」として活躍された高橋洋一(たかはし・よういち)氏の寄稿文で、
《 「日本の借金1000兆円」はやっぱりウソでした
       ~それどころか…なんと2016年、財政再建は実質完了してしまう! 
               この国のバランスシートを徹底分析 》を驚愕しながら、 精読した・・。

そして数年、「日本の借金1000兆円」と財務省が公表されて、新聞、テレビなどで報じられてきたが、
子会社のような日銀などが欠落しているので、こうした子会社を含めた連結決算をすれば、
《・・実質的に借金は150~200兆円程度、GDP比で30~40%程度だろう。
ちなみに、アメリカ、イギリスで、中央銀行と連結したネット国債をGDP比でみよう。
アメリカで80%、65%、イギリスは80%、60%程度である。・・》
と学び、私は安堵したりした。

こうした日本の財政実態を学び、たとえ来年4月の消費増税を再延期しても、主要国の財政専門家は理解し、
国際間でも信頼は揺るがないだろう、と私は思ったりしている。
               

今回の『安倍晋三 選挙のため「消費増税やめる」衝撃発表の可能性】の記事を読み、
少しボケた私は、このようなことを漠然と感じ深めて、微苦笑したりしている。


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昨年の11月に白内障の手術を受けた私は、昨今はともすれば忘れることが多く、微苦笑を重ねて・・。

2016-01-08 13:55:06 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の71歳の身であるが、
本日の8時15分過ぎに自宅を出て、最寄駅の近くにある眼科医院に向い、
澄み切った青空の中を歩き、徒歩15分ばかり歩いて向かった。

昨年の11月17日は白内障に伴い、左眼、そして一週間後に右眼を手術を受けた私は、
ここ一か月は2週間サイクルで検査で通院してきたが、新年初めて検査日であったので、
澄み切った青空の中、徒歩15分ばかり歩き、やがて眼科医院に着いた。
               

まもなく麗(うるわ)しき女性スタッフから、いつものように精密眼圧、精密眼底、視力検査などの検査を受けた後、
そして手術して下さった医院長から、幾種類から検査を受けた後、
『順調ですょ・・3種類の『点眼薬』は、一日2回からは、これからは一日1回にして下さい・・』
と医院長から、私は言われたりした。

『お蔭さまで感謝致します・・ありがとうございます・・』
と私は医院長に、御礼の言葉を重ねたりした。

『次回は、一か月後に来院して下さい』
と医院長から、私は言われたりした。

『先生・・次回は一か月後となりますので、点眼薬を多めに出して下さるように、お願い致します』
と私は医院長に懇願したりした。

『XXさん・・貴方がお持ちの点眼薬を使い切ったら、その後は不要ですから、今回からお出ししません』
と医院長は微笑まれながら、私に言ったりした。


私は、白内障の手術後は、翌日、三日後、一週間後と通院を重ねた後、
12月になると、私は朝夕には瞬間湯沸かしの湯で特選おしぼりで、顔を丁重にふき、首回り、耳周辺を拭いたりした後、
抗菌薬『クラビット点眼薬』、消炎薬『サンベタゾン点眼薬』、鎮痛消炎薬『ブロナック点眼薬』を
必須事項のように欠かさず実行してきた。

こうした点眼薬もまもなく不要と知り、戸惑いながらも微笑んだりした・・。
               

私は酷(ひど)い近眼で0.03ぐらいの視力で、メガネを掛けて0.7の視力であったが、
ここ数年視力が低下し、眼科医院で白内障です、と診断されて、
何かと小心者の私でも、これからの人生の日々を考えて、左眼、そして右眼の手術を受けた。

やがて幸運にも視力は1.0前後となり、メガネが不要となったりした。

私は秘かに念願していた視力0.7よりも向上し、神様、そして仏様にも感謝し、
年賀状にも一節として、書いたりした。

《・・私は昨年晩秋に白内障に遭遇し、やむなく手術を受けました。
私は高校生以来、ひどい近眼で長年メガネを愛用してきましたが、
手術の結果、視力が1.0前後となり、メガネが不要となり、
戸惑いながら微笑んだりしています。・・》このような文面を加えたりした・・。

このようなことを思い重ねたりしたが、過ぎ去った今としては、遠い昔の出来事ように感じて、
昨今はともすれば忘れることが多く、微苦笑を重ねたりしている。

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私のブログ投稿文、二十四節気に準拠して投稿しているなぁ、と微苦笑を重ねて・・。

2016-01-07 13:54:26 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
いつもように午前中のひととき、家内から依頼された品を買い求める為に、独りでスーパーに行った後、
その後は、やはり独りで自宅の近くにある遊歩道を歩いたりした。

やがて帰宅後、私はブログの投稿文は、定年後の年金生活の中で、パソコンの故障、国内旅行以外は、
殆ど毎日投稿してきたので、本日は・・と少しぼんやり思案したりした・・。

そして昨日は『小寒(しょうかん)』を迎え、寒さの始まりの『寒の入り』と伝えられ、
この頃から寒さは厳しくなり、その後の1月20日には『大寒(だいかん)』を迎えて、
一年で最も寒い時期と伝えられている。

そして『小寒』から『大寒』までの15日間、
その後の『大寒』から2月4日の『立春(りっしゅん)』までの15日間の合計30日間を『寒の内』と
古人から長らく伝えられてきている。

『寒の内』と称せられる『小寒』、『大寒』そして『立春』までの時節は、
旧暦であるので、今の暦(こよみ)に於いては2月中旬頃から始まると思われるが、
私の住む地域でも寒い時節となる。
      
こうした中で、3月中旬のような暖かい日もあれば、平年より寒い日もあり、
この時節は三寒四温の時節、と遥か千年前の頃から名言されている・・。
          

このようなことをぼんやりと思い馳せたりし、今朝は私たち夫婦は七草粥を取りやめて、
私は平素の一汁三菜の朝食となったり、家内はパン食だったし、
この後は、家内は我が家のお正月に彩〈いろど〉ってくれた松飾りを取り外した・・

こうした事ぐらいしかないよなぁ、と溜息をしながら私は苦笑したりした。

やむなく昨年に私が投稿した1月7日を読み返したりした・・。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20150107
☆【夢逢人かりそめ草紙】
        ==>2015年1月7日『七草粥の朝食の日、我が家は今年も無縁となり、私は平素の一汁三菜の朝食となり・・。』☆

やがて読み終わった後、私のブログは二十四節気(にじゅうしせっき)のように、季節のうつろいに準拠して記載されているなぁ、
と苦笑したりした。

そして何かと単細胞の私は、やはり幼年期には農家の児として育てられた為かしら、と微苦笑したりしている。


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都心の郊外でも、早くも純白の白梅、そして紅梅にめぐり逢えて、老ボーイの私は微笑みながら・・。

2016-01-06 14:18:44 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅みに住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
午前中のひととき、私はいつもように独りで自宅から少し離れた遊歩道を歩いた・・。

我が家の周囲は住宅街であるが、周辺には幾つかの遊歩道をあり、
本日はめずらしく曇り空になっている中を歩いた。

私の住む地域は、東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みであり、
私の生家も近くにあり、結婚前後の5年を除き、私は早や66年ばかり住んでいる。

昨年の12月24日から暖かな冬晴れが続き、昨日まで春のような陽気に恵まれ、
年末年始としては生れて初めてだょ、と私は微笑んだりしてきた・・。

こうした影響で我が家の小庭では、日本水仙、純白な白玉椿(シラタマ・ツバキ)、そして紅色、或いは桃色の藪椿(ヤブ・ツバキ)が咲き、
私は平年よりも数週間早いじゃない、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
                     


本日、歩いた遊歩道は、近くに流れている野川が大幅に整備された1960年(昭和35年)の前に、
遥か江戸時代から野川が流れていた流域を狛江市が遊歩道として整備して、
これ以来、数多くの住民から親(した)しまれている遊歩道であった。
          

私は数多くの落葉樹は、春夏秋冬に順応して、それぞれ変貌し、季節を映す鏡、
と私は幼年期には農家の児として育てられた為か、こよなく愛している情景となっている。
          

こうして歩いていると、私と同世代の前後の男性、女性が散策されたりしている。

私は過ぎし65歳頃に、遅ればせながら健康上の問題がない状態で日常生活を送れる期間の健康寿命は、
平均として男性は71歳、女性74歳と私は学んだりしてきた。

もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私も午前中のひととき歩き、やがて長寿になれば、いつの日にか介護を受ける身となるが、
認知症だけは勘弁してょ、と念願しながら、歩いている。

やがて歩いていると、陽だまりの良いと処に、純白の小花が視(み)えて、近寄ったりした。
          

我が家の小庭は、平年ならば1月には日本水仙の花は咲き、冬麗の美を感じ、
2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきたが、
早くも純白の白梅にめぐり逢えて、少し早いじゃない、と戸惑いながら微笑んだりした。

そして少し離れていた所には、華やかな紅梅にも、めぐり逢えたりした。
          

私は仲良し恋し、と瞬時に感じ、記念写真ねぇ、と心の中で呟きながら撮ったりした。

このように冬木立の情景に心を寄せて歩いたりしている中、
白梅、紅梅にもめぐり逢え、私は今年は恥ずかしながら年男なので、
天上の神々より、何よりのプレゼントと称される贈物を頂けた、と思いながら自宅に向かったりした。

尚、書き終わった今、もしかして白梅、紅梅の花に似た花かしら、と少し不安もあり、
少しボケてきたのかしら、と思ったりしている・・。

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買物メール老ボーイの私、昨今は御節(おせち)の単品が残り、平素の買物もなく、冬眠のように過ごし・・。

2016-01-05 11:55:48 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

過ぎし年の2004年(平成16年)の秋、定年退職となり、多々の理由で年金生活を始め、
せめて平素の買物ぐらいは、私が果たさなければと思い、
これ以来、家内から依頼された品を買い求める為に、独りで殆ど毎日のようにスーパー、専門店を廻ったりしている。

この後は、やはり独りで自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園など、季節のうつろいを享受している。
そして認知症が怖くて、ひたすら歩いている。

こうしたことが、私の定年後の年金生活の中で、午前中の標準サイクルとなっている。
          

そして年末になると、家内は簡素であるが御節(おせち)料理の真似事をするので、
家内の要請のひと声に基づき、買物メール老ボーイの私は、駅前のスーパー、専門店に出陣回数が多くなっている。

或いは家内のボディガード兼お供、そして荷物持ちで、駅前に買物に幾たびか同行するのが、毎年の習(なわ)しとなっている。
                          

我が家の年末年始は、独り住まいの家内の母に来宅してもらい、
私たち夫婦と共に年末年始を過ごしながら共に新年を迎え、
年末の28日の夕方から新年の3日の朝まで過ごしたりした・・。

私の母が亡くなる1998年(平成10年)の新春の前の年までは、
家内は黒豆、栗などの素材を吟味して買い求めて、
そして御節(おせち)の品々を3日ぐらいで仕上げたりしていた。

そして我が家、独り住まいの私の母用に、家内が世間並みに御節(おせち)料理を三段重として、
それぞれ三段のお重を20年間ばかり料理してきたが、
お互いに齢を重ねてきたので、御節(おせち)料理は簡略となっている。

ここ10年は駅前、最寄りのスーパーで五店ぐらい廻り、
伊達巻、かまぼこ、栗きんとん、黒豆、田作り、昆布巻、酢蛸(スダコ)などの単品を買い求めたり、
やつがしら、里芋、くわい、蓮(ハス)、ごぼうなどの農作物は、家内は相変わらず料理をしている。

ここ10年、通信販売の盛況の中、我が家も遅ればせながら4年前からは、
製造元の現地などの販売所に連絡して、ホタテ、数の子などを購入したりしている。

結果として、我が家の食卓は、御節(おせち)料理の単品を中心に、各自が好みの品を食べたり、
朝食は元旦の朝から定例のお雑煮となっている。

このような昨年の28日に家内の母が来宅してからの夕食の時からは、
家内、家内の母はビール、私はウィスキーの濃い水割りを呑みながら、
御節料理のそれぞれ単品を食べたりして、談笑しながら頂いている。
                     
       
こうした生活をして新年を迎え、元旦から三が日、私だけの昼食は、
大根(ダイコン)を下(お)ろして、お醤油をかけて、温かい白米のご飯にのせて食べたりしている。
そして食後は煎茶を飲み、至って満足している。

このような私の昼食を見ていて、 家内たちは最初の頃は呆れ果てていた・・。
『あなたは・・やはり幼年期に農家の児として育ったせいかしら・・』
と家内は苦笑したりしていた。

『こうした食べ物は・・この世で一番美味しく・・贅沢な食事だょ・・』
と私は笑いながら言ったりして、早や11年が過ぎている。

こうした中で家内と家内の母は、黒豆とかキントンなどの甘さのある食べ物などを
談笑を重ねながら、食べたりしていた。

そして私は、夕食の酒宴の時は、ウィスキーの濃い水割りを呑みながら、
御節料理のそれぞれ単品の里芋、蓮(ハス)、ごぼう、数の子、酢蛸(スダコ)を盛んに食べたりした。
          

やがて3日の朝、家内の母が帰宅する時、家内は家内の母宅まで同行し、
数多くが御節(おせち)料理の単品を持参したが、
やはり今年も、我が家でも御節(おせち)料理の単品が残こってしまった・・。

こうした事情から、買物メール老ボーイの私、スーパーなどに買物に行く必要がなくなってしまった。

そして昼前後のひととき、やはり独りで自宅周辺3キロ範囲にある遊歩道、小公園などを歩いたり、
或いは我が家から近い神社、寺院を初詣をしたりし、
これ以外は読書をするぐらいであったので、冬眠のように過ごしたりしてきた。

私の年始は毎年ながら、このように過ごすことが多く、
買物メール老ボーイとして、スーパー、専門店に買物に行くのは、
世の中の多くの人が、7日の朝食に七草粥を食べる後、7日の午前中かしら、と微苦笑したりしている。

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時折とりとめなく思い馳せて、老ボーイの私は、独り微苦笑し・・。

2016-01-04 10:50:41 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の老ボーイの71歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、6時半過ぎに起床した私は、台所のある市から配布された『調布市ごみリサイクルカレンダー』を見て、
本日は本年最初の『燃やせないごみ』の日だ、と私はボケてはいけないと自身に言い聞かせたりした・・。

そして市から指定された『燃やせないごみ』の有料袋に、家内は既に整理して終えていたので、
この『燃やせないごみ』の入った袋を私は持ちながら、
市から指定された所の道路に面した門扉の内側に置いたりし、
この周辺の家では我が家が一番早いかしら、と思いながら何かと愚図の私でも微苦笑してきた。
          
       
この後、玄関の軒下に戻ると、遠くに路線バスも走る大通りを見ると、
久々に頻繁に自動車が走るいつもような状景を視(み)たりした。

こうした中、門扉の前の道路をコートを召した諸兄諸姉が通り過ぎ、
働いて下さる諸兄諸姉の年末年始の休暇も昨日で終わりを告げて、
いよいよ本日から官公庁は『御用始め』となり、
これに準拠した数多く民間会社も『仕事始め』と思ったりした。

私も現役サラリーマン時代は、民間の中小業の会社で35年近く奮闘してきたが、
ここ10数年は短期に成果が問われる時代の中、常時リストラともいわれたりして過酷な時代になっている、
と深く憂いたりする時もある。

私は何かと働いて下さる現役の諸兄諸姉に注視するのは、
もとより日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実からでもある。

そして私は無力ながら、働いて下さる諸兄諸姉は、明るい家庭を維持できるように、
今年も程ほどにお身体を自愛しながら、業務の成果を上げて下さい、と強く祈願したりした。
          

この後、居間に戻り、テレビで天気情報を視聴していたら、
朝の6時は4度、昼下がりは16度前後、夜の6時は11度前後で、
本日も快晴に恵まれ、4月のような暖かさになります、と報じられていた。

私の住む地域は、年末年始は幸いにも暖かな冬晴れが続きたが、
桜が満開になる4月上旬が本日到来です、と言われても戸惑いながら微苦笑したりした。
          
          ☆ここ数日前から、ツツジかサツキが不明であるが、早くも花が咲いている☆

やがてぼんやりと、我が家の近くにある明照院を昨日も散策した時、
この中で、美人の神様と称せられている観音堂に祀ってある弁財天があるが、
この横に掲げられていた格言を突然に思いだされた・・。
          

私は恥ずかしながら齢ばかり重ねた身で、このように達観できず、少しは出来るように致しますから・・
勘弁して下さい、と苦笑したりした。

そして帰路、独りトボトボと歩きながら、ひとつの格言が思いだされた・・。

醜いことは、他人の生活をうらやむこと、
尊いことは、奉仕して恩に着せぬこと、
素晴しいことは、感謝の念を忘れぬこと

確か福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)さんの遺(の)こされたひとつの名言と記憶している。

もとより福澤諭吉さんは、天保5年12月(1835年1月)に生を受けられ、
亡くなわれる明治34年(1901年)2月までは、月3日)は、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者となり、
慶應義塾の創設者であり、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、
そして伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力されたりした。

更に新聞『時事新報』の創刊者であり、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務め、
こうした業績を元に明治六大教育家として列される御方である。

私は大学を中退し、やがて民間の中小業の会社でサラリーマンをしてきた身とは、天と地の差は歴然としている。

まして私が大切にしている一万円札の表面には、この御方の肖像が掲げられ、
私からすれば、地に伏して見上げるような御方でもある。
          

こうした御方の名言には、少しは理解できるが、実行となれば恥ずかしながら遠いのが実情となっている。

つたない私は、時折とりとめなく、こうしたことも思い馳せたりしている。

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