昨夜はゆっくり読書ができた。というのはかなり疲れていて横になりたかったからだ。お友達が貸してくださった「野いばら」(梶村啓二著)がなかなか面白かった。(興味深かった)生麦事件ののち頃、幕府の軍事情報探索の命を受けた英国軍人の手記。それを現代で手にした男の話だが、「野いばら」めぐるロマンがうつくしくはかない。悲恋でもあるが、何かそこに生きるひたむきな心に救われる。
そんな夜に窓を開けて空を見ると、大家の蔵の向こうに三日月が見えた。この蔵のある景色は、情緒がある。昨日は教会の草とりで疲れ、一昨日は、92歳のサッカーおじいちゃんからの「寝ているが、食べるものがない」の留守電から急遽料理作りだった。
来週楽しみに作る予定の栗ご飯だがせっかくなので作ることにした。めったに弱音を吐かない頑固じいが言うのだからたいへんなのだろう。(むすめさんに頼んでよ と言いたいが)財布には4500円しかない。なんとか安くて栄養があるものをつくらないと。栗ご飯の栗剥きがたいへんだった。我が家の夕食にありついたのが9時近く。後片付けして10時だった。翌日日曜日に教会から帰ってチルドで送った。
今日は「届いたよ。今食べている」と2時ごろじいちゃんから電話があった。うれしそうだった。奥さんの介護施設の手続き書類等を必死で探したりあまり寝ないで無理をして、めまいがひどくなりドクターストップで静養だったらしい。ほんとうにもう と思うがよかったわ。
同じころ、お送りしたこちらで編集した冊子(詩集)が手元に届いて、「きれいにできていてうれしい!」とメールが届いた。想像よりもきれいだったのだろう。よかったかな。
イエスは言う。「富を全部捨てて、神に仕えなさい」と。でも、神父様がその時出来ることを全力ですれば、いつか全部捨てたことに等しくなると言われた。あの時、財布には1000円しか残らなかったけど、だれかが喜んでくれたことはうれしい。人の役に立とうではなくて、少しでもだれかが喜んでくれればと思うようになった。