旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

奥州道中紀行8 佐久山宿~大田原宿~鍋掛宿・越堀宿~芦野宿

2017-12-09 | 日光道中・奥州道中紀行

10:00 「佐久山宿」
 那須塩原から市営バスを2本乗り継いで佐久山宿に戻って来た。歩きだしは10時と遅い。
今朝もずいぶんと冷え込んでいたけれど、冬の澄んだ青空に那須連峰の雄姿が際立つ。

佐久山宿を抜けると直ぐに箒川を岩井橋でわたる。街道当時から橋渡りだったようだ。
川瀬巴水の木版画に「野州佐久山 岩井橋」という作品があると云う。
近々、近代美術館に観に行きたいと思う。 

       

岩井橋から箒川の河岸段丘を上がる途中で馬頭観音をはじめとする石仏群が現れる。
道は新しくなれど、ここが奥州街道であったことを石仏群が教えてくれる。 

      

湧水から続く田谷川は、県の天然記念物である糸魚(いとよ)の生息地とされている。
川の中島には聖徳太子の碑がある。周囲の川はなるほど澄んでいる。 

 
 

大田原市親園(ちかぞの)辺りは、旧くは八木沢と云って間の宿があったところだ。
この辺りには、長屋門や四脚門、大谷石などを用いた蔵を持った立派な屋敷が多い。 

 

10:40 「浦蘆(ほろ)碑」
八木沢間の宿の外れに湯殿神社、その鳥居前に「浦蘆(ほろ)碑」が覆堂に納められている。
文化9年(1812年)のある日、兵士の隊列が刀を持って槍を立て行進する蜃気楼が現れた。
通りがかりの甲州の僧がこれは何かと土地の者に訊ねたところ「浦蘆(ほろ)」だと答えたという。

そんな話を後に石に刻んで建立したのがこの碑である。が説明板を読んでもよく解らない。

 

浦蘆碑の斜向かいに立派な四脚門と2つの蔵を持つお屋敷、その敷地に「町初碑」がある。
碑には「此町初寛永四卯年」と刻まれている。町の起こりの年を石に刻んでいるそうだ。
歴史的価値が高いものとされ、市の記念物に指定されている。

Navi84. 神明町交差点(右折)→<国道400号~国道461号>→アブラヤパン店 0.9km 15分

 

神明町交差点を右に折れると薬師堂が在る。この辺りが大田原宿の江戸方入口だ。
寛政5年(1793年)再建とされる堂内には江戸中期の金剛力士像が2体(彫刻)ある。
境内の貞享元年(1664年)の建立の七重の塔も立派なものだ。

本堂の彫刻も此の通り美しい、其々が大田原市の有形文化財に指定されている。

11:30~12:30 「大田原宿」
 大田原は平家物語で屋島合戦の「扇の的」で著名な那須与一の出生地として知られる。
宿場の規模は本陣2、脇本陣1、旅籠42軒、残念ながら旧い遺構は見当たらない。 
宿並みの中ほどに在る「金灯籠」は文政2年(1819年)に有志により上町十字路に建立。
宿場の防火や町内安全、旅人の夜道の無事を祈願し建てられたものだ。
当時の物は太平洋戦争末期に応召、現在の物は昭和54年に商店街有志により再現された。 

Navi85. アブラヤパン店(左折)→<市道>→カメヤ生活館 0.1km 2分

 

街道は金灯籠交差点の一つ先で、寺町商店街へと左折、その後100mで右折と鉤状に進む。
この間に昭和28年創業の「岡繁」に立ち寄る。今日の街道めしは "オムビーフライス"。
特製オムライスに逸品のビーフシチューをトッピング、2倍おいしいと自画自賛の一皿だ。 

Navi86. カメヤ生活館(右折)→<市道>→斎藤川魚店 0.5km 6分

宿並みの外れに「大田原神社」、大田原藩によって創建されたこの地の総鎮守だ。
神社の参道登り口に大久保の木戸が設けられていた。ここが白河方の入口になる。 

Navi87. 斎藤川魚店(左折)→<国道461号>→河原交差点 0.2km 2分

国道461号に戻って蛇尾川(さびがわ)を渡る。
街道時代は橋渡しで流失時は人足による徒歩渡しだった。1832年からは舟渡しになったと云う。

Navi88. 河原交差点(左折)→<県道72号>→伊豆屋菓子店 19.6km 250分

12:50 「中田原一里塚」
 工事現場の誘導員さんに声を掛けられた。「一里塚はこっちだよ」ってね。
ちょうど工事区間で見逃すところだった。親切に誘導いただき写真を撮らせてもらう。 
格好を見て判るのかな。案外街道歩きの旅人は頻繁に行き過ぎるのかも知れない。 

大田原城下を抜けて、街道は長閑な田園風景の中を北上していく。

 

中田一里塚の先に八溝山地を越えて福島県棚倉地方へ抜ける棚倉街道の追分がある。
道標はすり減って読めないが、「之より左 奥殊道、之より右 たなくら」とあるらしい。
追分は
「紫衣事件」で流された沢庵と玉室が、其々の流刑地へと袂を分かった場所だ。

 

13:40 「練貫一里塚(不明)」
 日本橋から39番目になる練貫一里塚は何の痕跡もない。
所在が推測される辺りには、十九夜塔や永代常夜灯と書かれた道標がある。

 

 那須塩原市に入ると間もなく左手に樋沢神社が現れる。
後三年の役で陸奥平定に向かう源義家は、源氏の氏神である八幡神社を見かけて戦勝祈願したと云う。

 

14:30 「鍋掛一里塚」
 鍋掛愛宕峠の一里塚は片塚だけ残っている。日本橋から40番目の一里塚になる。
一里塚の脇、杉の森を進むと鍋掛神社が鎮座している。
愛宕神社、温泉神社、鶏鳥神社を合祀した旧鍋掛村の総鎮守である。

 

鍋掛宿の江戸方入口には清川地蔵尊がある。建立は延宝7年(1679年)と結構旧い。
清川地蔵は子育て地蔵として地元民の信仰が厚いそうだ。

14:40 「鍋掛宿」
 鍋掛宿は、那珂川を目前にした火の見櫓の在る静かな町並みだ。
その規模は本陣1、脇本陣1、旅籠23軒だ。本陣を担った菊池家は更地になっていた。
芭蕉はここで句を詠んでいる。
元禄2年(1689年)3月のことだ。
「野を横に 馬牽きむけよ ほととぎす」、道すがら手綱をとる馬子作り与えた句と云われる。
町並みのほぼ中央に芭蕉句碑が立っている。

那珂川を昭明橋で渡る。谷は深い。江戸初期は徒歩渡り、後期は舟橋・土橋であった。

橋を渡ると直ぐに越堀宿になる。越堀宿は鍋掛宿とニ宿で一宿の役割を果たした。
難所の那珂川が川止めになることも多かっただろうから、両岸に宿場を置いたのだろう。 

      

14:50 「越堀宿」
 越堀宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠10軒、本陣藤田家をはじめ、やはり何も残っていない。

 

宿場の白河方入口は桝形になっていて、今でも県道72号は緩やかにクランクしている。
桝形前の浄泉寺境内には、黒羽藩主が自藩と他藩との境界を明確に示した境界石が残る。
文化10年(1813年)に何箇所かに建てたひとつだそうだ。

      

15:20 「寺子一里塚」
 日本橋から41番目の寺子一里塚は、東塚だけが残るが、美しい形状を保っている。

 

寺子橋で余笹川を渡る。街道当時は橋が流失した時は人足による渡しとなったと云う。
穏やかに見える余笹川は平成10年8月の那須水害で大きな被害を出している。
確か寺子橋も流されたはずだ。付近の電信柱には最高水位を示す赤い線が引かれている。 

街道は那須町に入る。栃木県最北の町、関東最後の町でもある。間もなく「みちのく」だ。
深く谷を削る川を渡り、尾根を越えての連続で結構なアップダウンを繰り返し北上する。 

 

黒川橋を渡る。下を流れるのは黒川だ。
街道当時も橋があったが、流失すると人足による渡しをしたそうだ。。

      

16:15 「夫婦石一里塚」
 夫婦石の一里塚は東塚だけが残っている。日本橋から42番目の一里塚になる。

 

芦野宿に向かって尾根を下っていくと、この先白河まで連れ添う国道294号と交差する。

芦野の宿並みが見えてきた。夕闇せまる山際にはスーパームーンが幻想的に美しい。

 

石造りの橋で奈良川を渡ると芦野宿に入る。江戸方の入口で迎えるのは大きな石地蔵尊だ。
街道は左直角に折れ、下野国最北の宿場はこの奈良川に沿って続いている。 

Navi89. 伊豆屋菓子店(直進)→<県道72号>→遊行庵食堂 1.0km 12分

16:30 「芦野宿」
 桝方を抜けて宿並みの中心部に入る。
左右の家の軒先には屋号が書かれた常夜灯が設置され、宿場らしい雰囲気を醸している。
旧くからの屋号を染め抜いた、魚屋さん、酒屋さんの淡い灯りが宿並みに美しい。
 

 

芦野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒。関東最北の宿駅はすでに夕闇の中だ。
臼井本陣は何ら痕跡を残さず、代わりに武家屋敷平久江家で8日目の行程を終える。
佐久山宿から大田原宿、幾つもの深い川を渡り、鍋掛宿・越堀宿を経て歩いてきた。
関東最北の芦野宿までは28.9km、6時間30分の旅。白河までは約20kmを残すのみだ。