旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

旧街道を歩く 日光道中・奥州道中を往こう!

2017-12-30 | 日記・エッセイ・コラム

 正月2日、快晴。東海道を下る21本の「襷」と反対に日本橋から北へと旅立った。
日光道中は東照宮まで二十一次の参詣の道、奥州道中は白河まで二十七次の江戸と陸奥と
を結ぶ人流・物流の道だ。今年は延べ11日を要して230kmを歩き陸奥(みちのく)に至る。

最初のハイライトは何と言っても「雷門」、門前には「浅草一里塚」があったはずなのだ。
参道には初詣に訪れた人でいっぱい。この光景は街道時代から変わらないことだろう。

 日光道中、奥州道中を歩くHOW TO本は少ない。日本橋を北へと旅立つ人は難儀する。
沿道自治体の教育委員会のWebなどを丁寧に下調べをするのが有効だと思われる。
数多あるブログの中には、距離や高低差、所要時間などを丁寧に解説しているものもある
ので参考にされると良い。雰囲気を大掴みするには当ブログもお役に立てると思われる。
HOW TO本がない代わりに「奥の細道」に関するガイド本をご覧になると旅は豊かになる
でしょう。この行程は芭蕉や曾良が辿った道でもあるのだから。

千住は元禄二年(1689年)、深川から舟に乗った芭蕉がここに上陸し矢立ての地とした。
行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」と詠んでいる。

 

古の旅人にとって、沿道の茶屋で甘酒やら甘味で一息つくのは愉しみだったことだろう。
幸手宿では粒餡いっぱいの大判焼を、間々田宿では、"かんぴょう" のお菓子を抓んだ。

 

将軍の行列も例幣使の行列も、市の賑わいも見つめてきた酒蔵は宿場の「華」だ。
今市宿には 
"日光誉" の渡邊佐平商店が在る。天保13年(1842年)の創業、日光山麓の
清冽な名水を汲み、吹き下ろす冬の寒気の中で酒を醸している。

 一方、奥州道中に入って白澤宿には井上清吉商店が在る。明治元年創業と新しい蔵だ。
こちらは 
"澤姫" の銘柄で地酒を世に出している。"澤" はもちろん白澤宿から受けている。

今市宿から先の日光道中は杉並木鑑賞道路となる。清流が流れる水路と杉並木が美しい。

日光東照宮「陽明門」に立ったのは7日目。
豪華絢爛な美しさは、40余年ぶりの大修理を終え、本来の輝きを取り戻したかのようだ。
正月2日に日本橋を発ってから140km、延べ7日間の日光道中の旅がここに終わる。

 日光道中と奥州道中の追分になっている宇都宮宿まで戻ったのは10月半ばのこと。
街の中心は二荒山神社、延喜式に名を連ねる歴史ある神社で
下野國一之宮といわれている。

鬼怒川までの道程は白沢街道の名称がついている。左右には近隣の農家が直売する梨や巨
峰が秋を感じさせる。海道新田一里塚あたりでは白い花をつけた蕎麦の畑が広がっている。

 

 決してはファミレスなんかに入ってはならない。ましてコンビニ弁当なんて言語道断だ。
色褪せた暖簾が架かった大衆食堂に入るべし。地元の風土を味わってこそ街道飯と云える。
ときにはご当地B級グルメを。宇都宮宿では餃子を、白坂宿では白河ラーメンを堪能した。

 12月半ば、行程11日目、いよいよ関東平野から陸奥へと抜ける。草地一面に白い霜が
降りて、冬の冷え込みを物語る。道祖神が1体、斜面を滑って助けを請っていた。

 栃木・福島県境を挟んで二つの「境の明神」、玉津島神社と住吉神社を越えると陸奥だ。
戊辰戦争(白河口の戦)の舞台となった白河宿の先、女石追分が奥州道中の終着点となる。

日光道中・奥州道中を歩いた延べ11日、230kmのひとり旅は、季節を感じ、暮らしを感じ、
思索に耽る機会となった。先人たちの歴史・文化に通じる身近な「街道」を歩いては如何か。
ボクはと云えば、年が明けたら東海道を西進しようと思っている。