今日は11月の第4木曜で、サンクスギビングデーだ。
名前のとおり収穫に感謝する日。
日本でいうと正月みたいなもので、遠く離れている家族が集まって食事をする日であり、
正月はあっさりと過ごすアメリカ人だが、この日は特別だ。
夫の両親がシアトルに行くので、私達は一足早くサンクスギビングのディナーを囲んだ。(その記事はコチラ)
私は仕事が休みで、夫と二人で一日中、家の外に出ずに過ごした。
日本人の私が、サンクスギビングは普通の日と変わらないのはいいにしても、
アメリカ人の夫まで、まったくこだわっていないというのはおもしろい。
外は、晴れ間が見えたかと思うと雨が降り、また晴れては曇るというような天気で
家で過ごすにはぴったり。
今日も、暖炉に火を入れた。
火を見ていると、落ち着く。
ちょっと、瞑想。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻といたしむ」
なんだこれ。
石川啄木の歌が川上から流れてきた。
カラ元気でも、笑っているほうがいい。
状況の良い面だけにフォーカスすればいい。
最悪ってわけじゃない。
だけど、人はごまかせても自分だけはごまかせない。
人をうらやむ気持ち、自分が小さくみえる気持ち、それは消しても消してもそこにある。
いや、消すから、そこにある。
その気持ちがあることに気づきながら、気づかないふりをするのはイライラする。
イライラ度でいうと、子供がおもちゃの笛を「ヒュー、ヒュー」とだらだらと吹き続けているのを聞いているぐらいの。
しあわせってなんだっけー。
先月、日本に行って帰ってきたら、頬の目立つところにシミができた。
このシミがなかった2ヶ月前の私は、今よりも幸せだったろうか。
夫がちゃんとした仕事をしている頃の私は、今よりも幸せだったろうか。
前に比べたら、ちゃんとした仕事じゃないけど、夫が仕事をしている頃の私は、今よりも幸せだったろうか。
そうじゃない。
状況を私がどう感じるかで、いつだって簡単に幸せにも、不幸せにもなれる。
どんなにあの時は最高だった、と思うような時でも、不幸せはたくさんあった。
幸せは、私が決める。
幸せも、不幸せも、私が選ぶことができる。
状況だけでいったら、夫が今無職でも、特段困らずに笑っていられる私はすごい幸せなんじゃないか。
だから今、私はやっぱり幸せであることを選ぶ。
でも、それと、心の隅でくすぶる気持ちはまた別だ。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日は・・・」
私は心の河の真ん中に立って、流れてくるその歌を体全体で受け止める。
ネガティブがあっても、いい。
ネガティブにならないことがポジティブではなくて、ネガティブがあっていいと認めることが、ほんとのポジティブ。
たぶんね。
シアトルにいる夫の両親と兄が、電話をしてきた。
離れた場所に住む叔母たちも、それぞれに電話をくれた。
私は日本にいる母に電話をかけた。
たまに不幸な気分になるだけで、私が不幸だったことはない。
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名前のとおり収穫に感謝する日。
日本でいうと正月みたいなもので、遠く離れている家族が集まって食事をする日であり、
正月はあっさりと過ごすアメリカ人だが、この日は特別だ。
夫の両親がシアトルに行くので、私達は一足早くサンクスギビングのディナーを囲んだ。(その記事はコチラ)
私は仕事が休みで、夫と二人で一日中、家の外に出ずに過ごした。
日本人の私が、サンクスギビングは普通の日と変わらないのはいいにしても、
アメリカ人の夫まで、まったくこだわっていないというのはおもしろい。
外は、晴れ間が見えたかと思うと雨が降り、また晴れては曇るというような天気で
家で過ごすにはぴったり。
今日も、暖炉に火を入れた。
火を見ていると、落ち着く。
ちょっと、瞑想。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ花を買ひ来て妻といたしむ」
なんだこれ。
石川啄木の歌が川上から流れてきた。
カラ元気でも、笑っているほうがいい。
状況の良い面だけにフォーカスすればいい。
最悪ってわけじゃない。
だけど、人はごまかせても自分だけはごまかせない。
人をうらやむ気持ち、自分が小さくみえる気持ち、それは消しても消してもそこにある。
いや、消すから、そこにある。
その気持ちがあることに気づきながら、気づかないふりをするのはイライラする。
イライラ度でいうと、子供がおもちゃの笛を「ヒュー、ヒュー」とだらだらと吹き続けているのを聞いているぐらいの。
しあわせってなんだっけー。
先月、日本に行って帰ってきたら、頬の目立つところにシミができた。
このシミがなかった2ヶ月前の私は、今よりも幸せだったろうか。
夫がちゃんとした仕事をしている頃の私は、今よりも幸せだったろうか。
前に比べたら、ちゃんとした仕事じゃないけど、夫が仕事をしている頃の私は、今よりも幸せだったろうか。
そうじゃない。
状況を私がどう感じるかで、いつだって簡単に幸せにも、不幸せにもなれる。
どんなにあの時は最高だった、と思うような時でも、不幸せはたくさんあった。
幸せは、私が決める。
幸せも、不幸せも、私が選ぶことができる。
状況だけでいったら、夫が今無職でも、特段困らずに笑っていられる私はすごい幸せなんじゃないか。
だから今、私はやっぱり幸せであることを選ぶ。
でも、それと、心の隅でくすぶる気持ちはまた別だ。
「友がみなわれよりえらく見ゆる日は・・・」
私は心の河の真ん中に立って、流れてくるその歌を体全体で受け止める。
ネガティブがあっても、いい。
ネガティブにならないことがポジティブではなくて、ネガティブがあっていいと認めることが、ほんとのポジティブ。
たぶんね。
シアトルにいる夫の両親と兄が、電話をしてきた。
離れた場所に住む叔母たちも、それぞれに電話をくれた。
私は日本にいる母に電話をかけた。
たまに不幸な気分になるだけで、私が不幸だったことはない。
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