![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/59/3f1a6742c07eebfdbc39cc3135890b18.jpg)
第26代継体天皇と目子媛との間に産まれた第2子で、古事記では建小広国押叙ス(タケヲヒロクニオシタテノミコト)・日本書紀では檜隈高田皇子(ヒノクマノタカタノミコ)と書かれ、兄の第27代安閑天皇の同母弟になります。
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兄の安閑天皇には子がいなかったので兄の死後、檜隈廬入野宮(ヒノクマノイオリノミヤ)(奈良県明日香村)で即位し第28代宣化天皇(センカ)になりました。
旧臣であった大伴金村と物部麁鹿火(アラカヒ)を大連(オオムラジ)にし、蘇我稲目(イナメ)を大臣(オオオミ)にしましたので、ここからいよいよ蘇我氏の台頭が始まるようです。
橿原神宮から橿原高校へ向かって自転車を走らせ、案内杭に従って左を見ると、写真のように住宅の間からこんもり盛り上がった陵(鳥屋ミサンザイ古墳)が見えてきました。
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古事記では、仁賢天皇の娘である橘之中比売命(タチバナノナカツヒメノミコ)との間に3人の娘をもうけ、又若子比売(ワクゴヒメ)との間に2人の息子をもうけたと書いてあるだけで、その陵の場所さえ記述はありません。
仁徳系統から続く第24代仁賢天皇の子供は、1人は第25代武烈天皇になり、3人の娘はそれぞれ第26代継体天皇・第27代安閑天皇・第28代宣化天皇の皇后になったということです。
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日本書紀では、仁賢天皇の娘、すなわち義理の叔母にあたる橘仲皇女(タチバナノナカノヒメノミコト)を皇后にして、石姫皇女(イシヒメ)・小石姫皇女(コイシヒメ)・倉稚綾姫皇女(クラノワカヤヒメ)と1人の皇子をもうけ、又別の妃との間に1皇子いたようです。
拝所の裏側の周濠には堤があって、横にひろがる水鳥の遊ぶ池に繋がっていました。
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兄の後を継いで即位し、在位4年で73歳で崩御し、この身狭桃花鳥坂上陵(ムサノツキサカノエノミササギ)(奈良県橿原市)に仁徳王朝から続く系統の出である奥さんの橘仲皇女と一緒に仲良く葬られています。
ここの制札の字はちょっとへたくそですね。
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ただし、宣化天皇の息子は天皇には成れず、父親継体天皇が偉くなってからの後妻の子である異母弟の欽明天皇が次の代を継ぎました。
でも欽明天皇の皇后に宣化天皇の娘の石姫皇女が成って第30代敏達天皇を産んだので、仁徳系統の血は女系ではありますが、手白香皇女の血と共にわずかに今に繋がってるようです。
宣化天皇陵の前の道からは、写真のように目の前に畝傍山が大きく見えていました。
前回の記事は読んでいたけど、コメント入れられず
先生が既に更新・・申し訳ありませぬ。m(__)m
他の読者の方に、コメント入れましょうと言うコメント入れようとして、この失態。
言い訳めいてますが、天皇陵巡りの記事と写真だけでは、地味過ぎて、そそられないかも。
時々、食べログみたいのをお願いしますね。