大覚寺の南、嵯峨野の畑や田んぼの中に、京都府立北嵯峨高等学校は建っています。
私の青年時代には、まだこの高校は出来ていませんでした。
正子内親王(マサコナイシンノウ)(810~879)の父は第52代嵯峨天皇で母は皇后橘嘉智子で、後に第54代仁明天皇となる正良親王マサラシンノウ)と双子だったと考えられています。
北嵯峨高等学校の北西のグランドの端に、この正子内親王の円山陵墓参考地があるというので捜しましたが、こんな目立たない狭い入り口の向こうに、なんとか制札らしきものが見えたので、たどり着けました。
天皇に成ったばかりで叔父でもある第53代淳和天皇に入内、恒貞親王(ツネサダ)(825~884)・基貞親王(モトサダ)(827~869)・恒統親王(ツネムネ)(829~842)を産んで、皇后ともなっています。
夫の淳和天皇が譲位し、正子内親王の双子の片割れの同母兄正良親王が第54代仁明天皇として即位し、息子の恒貞親王がその皇太子に成りましたが、夫の淳和・父の嵯峨も亡くなった後、承和の変(842年)で息子恒貞親王が廃太子されたために、この陰謀を藤原冬嗣と共に首謀した自分の母親嘉智子を激しく恨んだと言われています。
別に柵もないので、そのまま少し陵を廻ってみましたが、丁度聡怩ノ来ていた宮内庁の職員らしき人に、「あまり入らないでください」と言われたので、外に廻り住宅の方から眺めるだけにしておきました。
正子内親王は承和の変後出家し、父嵯峨が過ごしていた嵯峨院を大覚寺と改めたり、仏の世界に身を置いて30年以上過ごし、70歳で亡くなりました。
このため、正子内親王の御陵とされる円山陵墓参考地(大覚寺円山古墳)(右京区嵯峨)は、大覚寺の目と鼻の先のここにあるのです。
肉親(特に親子)で 憎み合うと言うのは悲しいですね。
高校と言えば、こちらでも、新設校が出来たり、男子校や女子高が何時の間にか共学になっていて驚きました。
ボーっとしてたら、もうじき冬至で直ぐクリスマス。
アッと言う間のお正月来てしまいます。