『権力を握ると弟(兄弟)を討つ 権力者の兄弟は利用されやすいから』
『「鎌倉殿の13人」に見る権力を握るには弟(兄弟)・身内を討つ』
権力者の兄弟殺しは、新しいことではありません、北朝鮮の金正恩の兄暗殺から歴史上枚挙にいとまがない。 兄弟に能力があったら『それ自体が危険』であると言われるのはもっともな理由だが、実際は『存在さえも許さない』例もあり、どちらも枚挙にいとまがない。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ながら、数年前(2018/10/10)日経新聞の記事(天皇と将軍の関係が分かりやすく説明)を思い出し、詩歌教養欄『日本史ひと模様』引用です。
過去に日本では、足利尊氏は弟の直義を天下二分して、争い滅ぼした。 織田信長は弟たちの信行・信勝を殺害した。 毛利元就は相合元綱を、伊達政宗は小次郎を。 源頼朝の義経に対する仕打ちに対して『判官(ほうがん)贔屓』と言う言葉が使われ始めた。 兄弟殺しの権力者が皆無常・冷徹かと言うとそうでもないらしい。
源頼朝の義経殺しは、なぜこれほど、突出して責められるのか、室町時代に『義経記』が愛読され、義経=ヒーロー、頼朝=かたき役・悪のボス、みたいな図式ができたためと言われる。
平治の乱で捕縛された時に、頼朝・義経兄弟を『この子らを助けて』と言って助けてくれた平氏側の池禅尼の実子・平大納言頼盛は、爾後、討伐はされず鎌倉で歓待された。 伊豆で20年に渡る流人生活に付き従ってくれた藤九郎盛長は有力御家人に。
そして何より、世間に名高い・恐妻政子を、頼朝は終生大事にした。 政子は当時、結婚適齢期を過ぎた、有力な家柄の出のお姫様というガラでもなかった。 まして、鎌倉に政権樹立の後であれば、京都から美姫をめとることはできたハズ、でも頼朝はやっていない。 たまに浮気がばれると『ゴメンナサイ』といったと云われる。 一つは計算があったとも、『垢ぬけない政子』は、公家の『色白の姫様』より関東の荒武者に『うけた』。 これに真逆であったのは、暗殺された三代の歌人実朝でしょうか。
頼朝自身が意識していたかどうかは別として、中世社会は『権門体制論』とそれを批判してできた『東国国家論』があると。 『権門体制論』は、天皇の王家・武士の武家・僧侶の寺家であった。 これらはみな世襲によって、特権を受け継いでゆく『権門』であるので『権門体制論』と言われる。 『東国国家論』は、日本は本当に一つの国家だったのか問いかける。 関東の幕府は一つの国家とまで考えずとも、東の国家たる幕府(王は、将軍・武士が支える。 都は鎌倉)と西の朝廷は(王は天皇、貴族が支える。 都は京都)が並び立っていた。
二つの考え方の相違点は、天皇と将軍の相違点は、天皇と将軍の関係にある。 将軍は武家を率いて天皇に仕える。 天皇が上、将軍が下。 これが権門体制論。 これに対して、将軍と天皇も共に王様で横並び、これが東国国家論。
平清盛は権門体制論、源頼朝は東国国家論。 駿河の富士川で平家に率いられた朝廷の追討軍を打ち破った頼朝は、京に上ろうとしたが、東国の武士たち止められ、関東を治めることになった。
頼朝は、『権力を握ると弟(兄弟)を討つ 権力者の兄弟は利用されやすいから』の表題からは外せるほどの人物かなと思う、傘寿のズブ素人です。 頼朝の後400年後に関東江戸に幕府を開いた家康は、権門体制論を形骸化させて東国国家論を実践したのではないでしょうか。 さらに明治時代は、権門体制論になります。 日本の天皇制興味は尽きません。 大山古墳(仁徳天皇陵古墳)発掘して、諸懸案事項の解明に期待しています。
表題の『権力を握ると弟(兄弟)・身内を討つ 権力者の兄弟は利用されやすいから』もレベルの違う、凄まじい骨肉の争いがあります。 先ずは、今後の継続調査に備えて、イスラム世界のオスマン帝国の皇帝が「兄弟殺し」をする理由を調べてみました。
ウエブ情報から引用です。
オスマン帝国の「兄弟殺し」の慣習、皇帝になった者は「兄弟を殺してもよい」という慣習です。 もちろん、どこの王朝でも後継者争いや王族間の権力争いは起こります。 その争いを避けるために始まった制度です。
とってもオスマン帝国では最初から兄弟を殺していたわけではありません。 反乱者を処分することは行われていました。 やがて反乱を起こしていない兄弟への処分も行われるようになります。 なぜこのような習慣ができたのか!
オスマン帝国の皇帝はなぜ兄弟を殺すのか?
ムラト1世が行った反乱者への目潰し。
1362年ごろ。第3代皇帝ムラト1世が即位。
1371年、息子のサヴジュがビザンツ帝国の皇子アンドロニコスと同盟して反乱を起こしました。
ムラト1世は反乱を鎮圧。息子のサヴジュを捉えて目を潰しました。 アンドロニコスもビザンツ皇帝に捕まり目を潰されました。 このときは反乱を行った者への処分。 兄弟ではなく息子でした。
ムラト2世が行った兄弟への目潰し
1421年。第6代皇帝 ムラド2世が即位しました。ところが即位直後の不安定な時期を狙って反乱が起こりました。
ひとつは伯父ムスタファ(オスマン帝国では偽ムスタファと呼んでいました)。もうひとつは弟ムスタファの反乱です。
即位したばかりのムラト2世は伯父と弟の二人のムスタファの反乱を鎮圧。捉えて処刑しました。彼らは反乱を起こしたので処刑されても仕方ないかもしれません。
ところがムラト2世は反乱をおこしていない2人の弟ユースフとマフムトの目を潰しました。
目が見えなければ将来、王の役目を果たすことはできません。ふたたび反乱がおこらないように弟たちの目を潰したのです。
王位争いに負けた者への処分はオスマン帝国だけではなかったビザンツ帝国(東ローマ帝国)では王位争いに破れた者が「目潰し」されるのはよくあることでした。
他にも手を切り落とす、鼻を削ぎ落とす、去勢することもありました。またイスラム社会ではカリフ(イスラム国家の指導者)になる者は「五体満足でなければいけない」という決まりがありました。
身体障害者は指導者にはなれないのです。そのためイスラム教国でも王位争いに破れた者が「目潰し」された例がありました。ムラド2世はこうした当時の習慣に従って処分をおこなったのでしょう。
兄弟殺しの始まり メフメト2世
メフメト2世
ウエブ情報から引用
反乱を起こしていない兄弟を殺した皇帝はメフメト2世が最初です。1451年。メフメトは第7代皇帝になりました。このとき、メフメト2世は弟のアフメトを処刑しました。
当時、アフメトは生まれてまもない乳児でした。すぐに反乱を起こすとは考えられません。ところがメフメト2世は幼い弟の処刑を命じたのです。
『権力を握ると弟(兄弟)を討つ 権力者の兄弟は利用されやすいから』、『権力を握るには弟(兄弟)・身内を討つ』、人間の『業(ごう)』、『性(さが)』は、やはり恐ろしいです。
(記事投稿日:2022/11/12、#599)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます