『中国の思い出 1(春秋・戦国時代の万里の長城)』
ー日本料理店で一期一会の方と「放牧民族と農耕民族境界の長城」を見るー
北京への商用出張時に、シンガポールからのフライトの都合で土曜日の夕方に北京に入り、ゆっくりと日本料理店のカウンターで食事をしてますと、偶然となり合わせになった方から、明日の日曜日には、ハイヤーの相乗りで八達嶺長城に,ご一緒しませんかとお誘い頂き、二つ返事でお受けして、お陰様で、念願の『放牧民族と農耕民族』境界の長城を見ることができました。
八達嶺長城(これは明時代の万里の長城です。)
ウキペディアより引用
万里の長城と言えば、秦の始皇帝が、初めて造ったもの、いまの完成した状態になったのは明の時代と言われます。 さらに、噂スズメは、こうも言います。 世界三大無用の長物として、万里の長城、大ピラミッド、戦艦大和を世界で認識されているそうですが、大和や武蔵って、そんなに無駄な物だったのでしょうか? 漫画の『紺碧の艦隊』のようにすべきだったのでしょうか? ともかく、あとの二つは、『後世に大変な外貨稼ぎをしている、エジプトの大ピラミッド』と、『騎馬民族の侵略を、失敗もあったけど、長い間に、何回も、未然に防いだ万里の長城』は、かなり役に立ったのではないでしょうか?
春秋・戦国(BC476-221)の時代の長城
七雄が並立した戦国時代は、長城もそれを象徴した配置になっており、自国自身を隣国から守りながら、匈奴に対しては、周囲の国とも連携できる。
ウキペディアより引用
春秋時代万里の長城(紀元前770年~476年)
この時代に長城は初めて築かれたといわれ、その当時、現在の中国の東ないしは中央部の地域に支配国があったとされています。 この地域を守るために城壁が築かれ、それが万里の長城のような造りのものでした。 しかし規模は小さかったようです。 最も早いものは紀元前650年頃に魯と斉国の間に造られました。 そしてそれは後に楚国の一部になりました。
戦国時代の万里の長城 (紀元前475年~221年)
領土と権力のために争いを起こすとき、周の王の影響力が衰えていました。小さな国は戦国時代の初めまでに7つの大きな国(楚、斉、魏、燕、趙、秦、漢)を築くため統治者によって吸収されました。 それぞれの国は小さな長城のような自国の防護壁を作りました。 秦(Qin)、魏(Wei)、燕(Yan)、趙(Zhao)の城壁は、上の地図をごらんください。
群雄割拠の春秋戦国時代ですので、趙(ZHAO)は単独での防衛は困難であったと思われます。 『趙・匈奴の戦い』紀元前256年に趙の名将の李牧が匈奴の大軍に大勝した戦い。 匈奴の小隊が偵察に来た時、李牧は数千人を置き去りにして偽装の敗退を行い、わざと家畜を略奪させた。 これに味をしめた匈奴の単于が大軍の指揮を執ってやってきたが、李牧は伏兵を置き、左右の遊撃部隊で巧みに挟撃して匈奴軍を討った。 結果、匈奴は十余万の騎兵を失うという大敗北に終わった。 その後、さらに「代」の北にいた東胡を破り、林胡を降したため、単于は敗走した。 当時、匈奴は十余万の騎兵を、動員統率できたか興味は尽きません。
この時代の趙王である武霊王は、異民族の騎馬隊と服装に目をつけて自国の臣下達や兵士達に、異民族が着ている服を着せて、騎射を行うように命令して騎馬隊を作り上げます。 この制度を「胡服騎射」といいます。 この制度をきっかけにして中国の人々が徐々に馬に乗る文化が出来上がります。 しかし戦いにおいては歩兵や戦車の技術が向上していたので、他国はあまり騎馬隊というものを作りたがりませんでした。
また武霊王が騎馬隊を作り上げた時の中国の諸国は、この馬に乗る文化は異民族の文化で、文明を持っている中華の人間は、胡服を来て馬に乗るものではないとの理由や、馬を育成するのに多大な費用がかかることから、騎馬隊はあまり他国で作られることなく従来通り戦車や歩兵、弓兵を中心とした戦いが、繰り広げられて行くことになります。
余談です。ずっと後の時代ですが、日本で最強の騎馬軍団は、有名な、長篠の戦い、鉄砲隊VS武田の騎馬軍団ですが、騎数9,100頭余でした。 対して織田・德川連合軍の鉄砲隊は、3,000丁(1,000丁の三段撃ち)と言われるが、実際はこの半分と思われる。 匈奴は、紀元前に十余万の騎兵動員とは、スケールが違います。
まず、武霊王の時代では胡の服を来て馬に乗って、騎射を行っておりました。 その為、騎馬隊の主な攻撃方法は馬に乗って馬上で弓矢を敵に向かって射る攻撃方法が一般的でした。
この攻撃方法を行うにも血の滲むような訓練をしないとできなかったと思われます。 また剣や矛を裸馬に乗って振り回すのは、馬上で踏ん張りが聞かないためほぼ不可能な攻撃方法でした。 もしかしたら超人的な古代中国人の幾人かは馬上で矛を振り回して戦っていた可能性が、あると思いますがほとんどの兵士や将軍は馬に乗って弓で攻撃を行う方法が取られておりました。
ここで気になったのが馬上で使い易い『弩』、これを使いこなしたのは、前3世紀末より約5世紀間にわたってモンゴリアに繁栄した遊牧騎馬民族。 周の記録に見える遊牧民族獫狁(けんいん)の子孫であろうといわれているが,確証はない。 しかし匈奴はすでに中国の戦国時代には,オルドスを根拠地として盛んに燕,趙,秦の北境を侵していた。スキタイに発生した騎馬戦法を東アジアにもちこんだのは彼らで,従来馬にひかす戦車と歩兵とによる車戦,歩戦をもっぱらにしていた中国人は,彼らより騎馬戦の技法を学んだのである。
弩(ど、いしゆみ、おおゆみ)は、東アジア、特に中国において古代から近世にかけて使われた射撃用の武器の一種。 「いしゆみ」と読むことも少なくないが、これは厳密には正しくはなく、石弓と混同されたものと思われる。
秦は、趙が匈奴の弩で武装した軽騎兵に攻められたのは知っていたでしょうが、匈奴のような騎兵を、簡単にはつくれなかったのは、いい馬が手に入らなかったのではないでしょうか。
紀元前4世紀頃から中国は遊牧騎馬民族の侵入を受け続けた。 動作が機敏で頑健な北方民族の騎兵に比べ漢民族の使う馬は痩せて非力な馬が多く、重装した兵士が跨って戦う事ができなかった。 紀元前2世紀初めの匈奴との戦いでは漢民族側の騎兵は10万頭の馬を失い、強く健康な北方の馬を手に入れることが防衛の要と考えられるようになった。
『放牧民族と農耕民族』は、万里の長城を挟んで、攻防を続けますが、農耕民族側が、いい馬を手に入れられるかが、攻防のキーファクターあったようです。
(20200510纏め #163)
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