原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

近代市民法の基本原理とその修正(その3)

2007年12月20日 | 左都子の市民講座
 “左都子の市民講座”の今回のテーマ「近代市民法の基本原理とその修正」はいよいよ最終回です。本記事においては基本原理の残りのひとつ「過失責任の原則とその修正」について解説します。


○過失責任の原則とその修正

   まず、法律用語の意味から説明しよう。

    ①故意…自己の行為が違法な結果を生ずるであろうことを認識しながら
          あえてその行為にでる場合の心理状態。
    ②過失…不注意のため、違法な結果が生ずるであろうことを認識しない
          場合の心理状態
    ③無過失…故意も過失もないこと

   さらに、現在注目されている法律用語に“未必の故意”という概念がある。
     未必の故意…自分の行為からある結果が「発生するかもしれない」と
              知りながら、「発生してもしかたがない」と認めていた
              場合の心理状態
      例: 子どもが病気で寝ている。このまま放置しておくと死ぬかも
         しれないと認識しながら、死んでもしかたがないと思って何の
         手立てもせず放置しておいた結果死んでしまったような場合

         近年では、飲酒運転による事故がこの“未必の故意”に準ずる
         とされる場合もある。

  近代市民法は、個人の“自由な意思”を法律関係の前提とする。
              ↓
  故意、過失により他人に損害を与えた場合のみ、加害者に損害賠償責任を
  負わせる。    →    民法第709条(不法行為)
  
   ※参考※ 刑事においては… 
      例:刑法第38条(故意・過失)
         故意犯を原則とし、過失犯は例外としている

  「過失なければ責任なし」   =  “過失責任の原則”
    すなわち、非難されるべき者に対してのみ責任を負わせるという原則

  これに対し、アンシャンレジウムの時代は 
      「結果責任主義」  無過失でも責任を負わせた

  過失責任の原則により人々は自由に行動できるようになり、これにより
  資本主義経済が今日のように発展した。

  しかし、例えば、
   公害をもたらしている企業が、公害を出すことにより地域住民に損害を
   与えているにもかかわらず、企業の経営者には故意も過失もないという
   理由で責任が問われなくて済むのか。

       ↓  正義と公平の観念に反し、それで済むはずはない

  「無過失責任論」の登場
     特定の加害者と被害者間の法律関係においては、過失がなくても
     加害者に責任を負わせるべき、とする考え方

   経済高度成長期には、企業の公害により多くの人々の尊い命や健康が犠牲に
   なった。

    例:「イタイイタイ病事件」(富山)1971年
        企業から流れ出た鉱毒によるカドミウム中毒により123名が
        死亡
      「新潟水俣病事件」1971年
        企業が排出した有機水銀による中毒により55名が死亡

        両者共、原告(患者、遺族)側の勝訴が確定した。

     1972年に、大気汚染防止法
             水質汚濁防止法 が改正され、
              事業所の無過失責任が認められるようになった。