原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校が嫌いで何が悪い

2008年04月02日 | 教育・学校
 いきなり結論から書くが、学校が嫌いな君、大丈夫だよ、安心して。学校なんか嫌いなくらいの人間でないと、将来大物にはなれないよ。 学校に迎合する必要など何もないんだよ。学校が嫌いだという気持ちを今は大切にして。

 先だって、小学校の卒業式での挨拶で学校が嫌いである旨表明した小6の男の子が、卒業式当日に自殺に追い込まれてしまった。何とも痛ましい事件である。
 事件の詳細は把握していないのだが、周りの大人は卒業式の後、この少年に何を言い、何をしたのか。何とか自殺を食い止めてあげられる理解者は周りにひとりとしていなかったのか。 誰だって嫌いなものは嫌いだ。ましてや、まだ小学生の子どもが素直に嫌いなものを嫌いだと言って何が悪いのか。本当に腹立たしくてやるせない事件である。今はただ、命をかけて学校が嫌いであること表明した君の冥福を祈るばかりである。
 

 4月と言えば新しい年度のスタート月であり、学校や職場では新人を向かえ、新たな1年が始まる月である。
 学校嫌いや職場嫌いの人間にとっては、この時期は何とも憂鬱な季節である。

 かく言う私も、学校嫌い、職場嫌いの部類である。 私の場合は、基本的に組織に所属することが苦手な人間である。 組織の何が嫌なのかというと、そもそも集団行動、共同作業が性に合わない。 私は基本的に一匹狼タイプの人間だ。物事を独力で成し遂げたい思いが強い。そういう人間にとって集団や組織からの管理、干渉は足かせでしかない。

 義務教育過程に在籍する子どもを持つ親の立場からも、この4月は憂鬱な季節だ。子ども本人にとってはクラス替えのメンバーが一番の関心事のようだが、親にとっての一番の関心事は子どもの新担任である。担任如何で1年間の明暗が大きく分かれるのだ。
 運悪く担任に恵まれないと、保護者としては1年間が苦労の連続である。我が子の場合、大体3年に一度は“はずれくじ”を引いてくる。この人格でよくまあ教員になったなあ、よくまあ首にならないなあ、という担任に3年に一度は当たってしまう。要するに3人に一人はそういう教員が平気な顔をして教育現場にはびこっているというのが学校の実態なのであろう。 私の年齢になると大抵の教員は私より年下であり、これがまた扱いに難儀する。人生の先輩としての包容力がこちらに要求されるのだ。何分、子どもを人質にとられている身でもあり、担任をあやす、という無駄な労力が1年間の負荷としてのしかかってくる。家庭での子どものフォローも大変な仕事だ。担任の言動を子どもを通じて見聞きしては、子どもの健全な成長のための軌道修正の負担も増える。
 逆に担任が信頼できる人格者である場合は、親としては1年間心底楽をさせてもらえるものである。
 子どもが中学生になっている今はこの負担も軽減されているが、幼稚園と小学校在校中は苦労したものだ。我が子の場合、学校等の集団や組織が嫌いなタイプの子でないのだが、担任はじめ教員のせいで学校嫌いになることを避けるために、親は苦労するものだ。


 話を子どもの学校嫌いに戻そう。

 本当は皆にとって楽しく、有意義な学校であることが一番望ましい。でも、その実現までにはまだまだ時間がかかる。 

 学校が嫌いな君、それでも勉強はしようね。たとえ学校が嫌いでも勉強は大事だ。その後の人生につながる。例えば、大学とは学問を修める機関だ。ここは今までの高校までの学校とはまったく異質の学び舎であり、自分でカリキュラムを組んで自分が学びたいだけ学べる場である。大人になっていくとそんな楽しみもある。だから今、勉強はしておこう。

 学校が嫌いな君、それでいいよ。学校が嫌いな自分を責める必要など何もない。学校が嫌いである自分を認めよう。どうしても学校へ行くことが辛いのなら“不登校”という選択肢だってある。(当ブログの教育・学校カテゴリーの「不登校という選択肢」を参照下さい。)
 学校へ通う期間なんてまだまだ人間としての成長過程で未熟な時期であるし、後で考えたら自分の人生において取るに足りない一時に過ぎないのだ。 
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