私はテレビをほとんど見ない。現在、毎日必ず見るのはNHKのニュースと天気予報、それに夜寝る直前にJ-comチャンネルを15分程照明代わりにつける程度だ。
昔から見なかった訳ではない。親がNHKばかり見ていた影響で子どもの頃からNHKの番組は好んで見るものも多かった。 どんどん低俗なバラエティものの番組が増えるのと平行してテレビから離れ始め、そして近年はNHKの番組にも嫌気がさしてニュースと天気予報以外はスイッチを入れなくなった。
昔はNHKのドキュメンタリーものの番組や、ドラマとクイズ番組は民放も含めて結構好きで見ていた。
ドラマに関しては近年では「チャングムの誓い」と「ライフ」(本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー「ライフ寸評」を参照下さい。)を毎週見た。ちょうど寝る前に照明代わりにテレビのスイッチを入れたところ、たまたま放映されていたのが面白くて引き込まれ、そのまま毎週感情移入して見続けた。このように、私がドラマを見るきっかけは“偶然”である。おそらくこれからも偶然感情移入できるドラマに巡り会えれば見るであろう。
クイズ番組は出題のテンポが速く即答型の「クイズタイムショック」(田宮二郎が司会の頃は最高だったなあ)や現在放映中の「ネプリーグ」の漢字問題や5ボンバーが大の好みで、メラメラ闘志を燃やしながら食い入るように見る。今でも時間があれば見ている。
一方、ドキュメンタリーに関しては新聞のテレビ欄でチェックして計画的に見ていた。一昔前までは様々なドキュメンタリー番組に感動したものだ。
さて、本題に入るがこのドキュメンタリーものを近年すっかり見なくなってしまった。これには明確な理由がある。過度の演出が鼻に付いて嫌味ったらしく感じるようになってしまったのだ。
ドキュメンタリーとは、本来ならば虚構を用いず記録に基づいて制作される番組のはずである。昔はその通り、淡々と記録された事実を伝える番組が多かったように思う。ところが時代の趨勢なのか、近年のドキュメンタリーは“やらせ”に近い程の演出がなされている番組ばかりになってしまい、制作者の意図が見え見えなのだ。これには閉口させられる。
この現象の背景は一体何なのか。
報道とは本来、事実を正確に伝えるべき使命を担っているはずである。淡々とナレーションだけで記録映像を流してくれればよいものを、近年のドキュメンタリーは必ず司会者と解説者、それにゲストまでが出演して論評が入るのだ。これがうっとうしい。
しかも、ナレーションにまで制作者の価値判断が伴っていて耳障りである。
例えば、近年高視聴率を記録した人気ドキュメンタリーのひとつとしてNHKの「プロジェクトX」という番組があった。中島みゆきの「風の中の昴…♪」で番組は始まる。初っ端から既にドラマ仕立てだ。そして二人のアナウンサーによる司会に加え解説者が登場する。そして、俳優田口トモロヲによるナレーションが特徴的な番組であった。
私も最初の頃はこの「プロジェクトX」を比較的好んで見ていた。ところが回を重ねるにつれ、胡散臭さを感じ始めてしまったのだ。とにかく演出がくどい。毎回取り上げる人物のヒーロー仕立ての程があまりにも度を過ぎている。田口トモロヲ氏のあの特徴的なナレーションが週を追う毎に耳障りとなり、そして見るのをやめた。
ドキュメンタリー番組に限らず、近年ニュースでさえ様々な演出が施されうっとうしさがある。昔のニュースと言えば局のアナウンサーがニュース原稿を棒読みしているだけであった。本来のニュースとはそうあるべきでそれで十分なのだ。下手なコメンテーターも、騒がしい現場のレポーターも要らない。映像をそのまま流してアナウンサーが淡々と事実のみを伝えてくれれば十分である。
このようなテレビ番組の低俗化現象のひとつの理由として、視聴率の低下が挙げられると思われる。一昔前はテレビの番組制作側のスタッフもいわゆるエリートだったのであろう。ところが、視聴率が低下した今、マスメディアにおけるテレビの位置づけ自体影が薄くなってきている。現在は番組制作を下請けに頼っている時代であるようだ。
そういう現実を把握した上での話だが、主たる情報の入手先をテレビに頼っている人々は今なお多いのではなかろうか。テレビ番組制作者の方々、テレビを見てる奴等は皆馬鹿だという前提で番組制作をするのはもうそろそろ終わりにしませんか。ますますテレビ離れが加速し、自滅の一途を辿りますよ。
昔から見なかった訳ではない。親がNHKばかり見ていた影響で子どもの頃からNHKの番組は好んで見るものも多かった。 どんどん低俗なバラエティものの番組が増えるのと平行してテレビから離れ始め、そして近年はNHKの番組にも嫌気がさしてニュースと天気予報以外はスイッチを入れなくなった。
昔はNHKのドキュメンタリーものの番組や、ドラマとクイズ番組は民放も含めて結構好きで見ていた。
ドラマに関しては近年では「チャングムの誓い」と「ライフ」(本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー「ライフ寸評」を参照下さい。)を毎週見た。ちょうど寝る前に照明代わりにテレビのスイッチを入れたところ、たまたま放映されていたのが面白くて引き込まれ、そのまま毎週感情移入して見続けた。このように、私がドラマを見るきっかけは“偶然”である。おそらくこれからも偶然感情移入できるドラマに巡り会えれば見るであろう。
クイズ番組は出題のテンポが速く即答型の「クイズタイムショック」(田宮二郎が司会の頃は最高だったなあ)や現在放映中の「ネプリーグ」の漢字問題や5ボンバーが大の好みで、メラメラ闘志を燃やしながら食い入るように見る。今でも時間があれば見ている。
一方、ドキュメンタリーに関しては新聞のテレビ欄でチェックして計画的に見ていた。一昔前までは様々なドキュメンタリー番組に感動したものだ。
さて、本題に入るがこのドキュメンタリーものを近年すっかり見なくなってしまった。これには明確な理由がある。過度の演出が鼻に付いて嫌味ったらしく感じるようになってしまったのだ。
ドキュメンタリーとは、本来ならば虚構を用いず記録に基づいて制作される番組のはずである。昔はその通り、淡々と記録された事実を伝える番組が多かったように思う。ところが時代の趨勢なのか、近年のドキュメンタリーは“やらせ”に近い程の演出がなされている番組ばかりになってしまい、制作者の意図が見え見えなのだ。これには閉口させられる。
この現象の背景は一体何なのか。
報道とは本来、事実を正確に伝えるべき使命を担っているはずである。淡々とナレーションだけで記録映像を流してくれればよいものを、近年のドキュメンタリーは必ず司会者と解説者、それにゲストまでが出演して論評が入るのだ。これがうっとうしい。
しかも、ナレーションにまで制作者の価値判断が伴っていて耳障りである。
例えば、近年高視聴率を記録した人気ドキュメンタリーのひとつとしてNHKの「プロジェクトX」という番組があった。中島みゆきの「風の中の昴…♪」で番組は始まる。初っ端から既にドラマ仕立てだ。そして二人のアナウンサーによる司会に加え解説者が登場する。そして、俳優田口トモロヲによるナレーションが特徴的な番組であった。
私も最初の頃はこの「プロジェクトX」を比較的好んで見ていた。ところが回を重ねるにつれ、胡散臭さを感じ始めてしまったのだ。とにかく演出がくどい。毎回取り上げる人物のヒーロー仕立ての程があまりにも度を過ぎている。田口トモロヲ氏のあの特徴的なナレーションが週を追う毎に耳障りとなり、そして見るのをやめた。
ドキュメンタリー番組に限らず、近年ニュースでさえ様々な演出が施されうっとうしさがある。昔のニュースと言えば局のアナウンサーがニュース原稿を棒読みしているだけであった。本来のニュースとはそうあるべきでそれで十分なのだ。下手なコメンテーターも、騒がしい現場のレポーターも要らない。映像をそのまま流してアナウンサーが淡々と事実のみを伝えてくれれば十分である。
このようなテレビ番組の低俗化現象のひとつの理由として、視聴率の低下が挙げられると思われる。一昔前はテレビの番組制作側のスタッフもいわゆるエリートだったのであろう。ところが、視聴率が低下した今、マスメディアにおけるテレビの位置づけ自体影が薄くなってきている。現在は番組制作を下請けに頼っている時代であるようだ。
そういう現実を把握した上での話だが、主たる情報の入手先をテレビに頼っている人々は今なお多いのではなかろうか。テレビ番組制作者の方々、テレビを見てる奴等は皆馬鹿だという前提で番組制作をするのはもうそろそろ終わりにしませんか。ますますテレビ離れが加速し、自滅の一途を辿りますよ。