原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

喋りの洪水は暴力行為

2008年04月22日 | 人間関係
 あなたは、話し上手? それとも聞き上手?

 朝日新聞夕刊「こころ」のページに先週から「悩みのレッスン」という連続コラムが新設された。これは若者の悩み事の相談に見識者が回答するQ&Aの形式をとったコラムである。
 先週4月18日(金)の相談は「心を開けない」と題して、周囲の人に対して自己表現がうまくできない高校生からの相談に対し、作家のあさのあつこ氏が回答していた。

 以下にあさの氏の回答を要約する。
 あなたはちゃんと自分の思いを表現できていて見事なほどだ。こんな的確な文章が書ける人がどうして「自分を表現できない」と悩むのか。おしゃべりが苦手なのであれば、聞き役に回ってみたらどうか。周りの人の話に耳を傾けて共感したらうなずいてみる、それも感情表現だ。(中略) 他者に心を開け放つことは簡単ではない。開け放てる相手に、巡り合ってこそできる。変わらなくてもいい自分に気付こう。自分を好きになることが心を開く第一歩になるはず。

 このあさの氏の回答に私もほぼ賛同する。この相談者の高校生が書いた相談文は見事なまでに自分の思いを表現できているのだ。 
 おそらく口述が下手なのであろう。その背景には心を開ける相手にまだ巡り合えていないという事情があるのだと私も考える。誰だって心を開いている相手とは楽しくおしゃべりができるものだ。逆に顔も見たくない奴とはそもそも話をしようとも思わない。自分を変える必要など何もない。まずは心を開ける相手と巡り合うことが先決問題であろう。

 あさの氏の回答で一箇所気になるのは、口下手な人間は聞き役に回らなければいけないのか、という点である。
 とかく最近は一方的に自己主張をしたがる人間が多い。複数の人間が集まって談話するような場面でも、場の雰囲気が読めずに自分のことばかり話す人は少なくない。そういう人に限って話がひとりよがりで面白くないものだ。自分を客観視できていない証拠である。それでもやむを得ず回りは聞いている振りをしているということに、しゃべっている本人は最後まで気付かない。まさに喋りの洪水だ。3名以上いる場合は、この難儀な聞き役も休み休みできるのでまだましだが、1対1の時は悲惨だ。この言葉の洪水が常時暴力的に押し寄せてくる。 私は人が良すぎるのか、はたまた理性がはたらき過ぎて場をわきまえ過ぎるのか(?)よくこの目に合うのだ。 相手はこちらの苦悩がわかっていない。とことん喋ってスッキリしているようで、また会って話そうね、とうれしそうに別れていく。(単細胞のあんたが一人でくっちゃべっただけだろうに…) こちらは無駄な時間を費やしたことを悔やみ胃痛とストレスを抱えつつ、金輪際こういう奴の聞き役はご免被るぞ、と決意しつつ帰路に着く。
 もちろん、こういう相手というのはそもそもこちらは心を開いていない相手である。心を開いている仲良し相手なら、とにかく話していて面白い。そういうツーカーの相手とはどちらかが話し役でどちらかが聞き役という役割分担など一切ない。自然と会話のキャッチボールがうまくいっていて、充実した時間が過ぎていく。初対面でこういう相手に巡り合えることもある。思考回路や価値観等に共通項があって、いわゆる“相性”がいいのであろう。

 この相談者の高校生も、もしかしたら私と同じような経験をして同じような考えを抱いているのかもしれない。ただ未成年であるしまだまだ人生経験が浅くて、今のところ心を開ける相手に巡り合えていないだけなのであろう。十分な自己表現力を内に秘めているのだから何も自分を変える必要はないし、ましてや無理をしてまで心を開いていない相手の“聞き役”をしてさらなるストレスを溜め込む必要などさらさらないと、私ならばアドバイスしてあげたい。
 

 確かに思う存分喋ると爽快感が得られる。そして“喋る”という行為はストレス発散の優れた方法のひとつとして一般的に推奨されてもいる。
 ところが、“喋り”とは“聞き役”という相手の人間なくして成立し得ない行為でもある。“喋り”も度を過ぎれば言葉の洪水となりそれが“聞き役”に限りないストレスをもたらす“暴力行為”であることを肝に銘じ、場を読み自分を客観視しつつ“喋って”いただきたいものである。
 
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