原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

旅立ちの日の情景

2008年04月24日 | 雑記
 時候的には少しずれたが、何十年も経過した今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ情景がある。

 それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。


 東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。(私の父は造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
 出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
 さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
 もう出発しなければフェリーの時間もある。どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
 やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半の今なお気丈な母なのだが、普段は決して人前では涙を見せないそんな気丈な母が、私の出発準備を終えた後、影で泣きはらしていたのだ。旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも、私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
 あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
 父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。

 フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。

 フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。

 父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。

 そして父が田舎に帰る日がやって来た。どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に頼むのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父であった。そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
 後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
 そんな父ももう既に他界している。

 こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたのだが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。この東京で強く生きていかねば、とその日の午後早速出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。


 あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
 今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
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