原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学問は虚無からの脱出

2008年04月26日 | 学問・研究
 大学での教職免許取得課程の「教育原論」の授業において、「何のために勉強するのか」をテーマに小論文を書いた(書かされた)ことがある。
 この時既に私は30歳代前半。しばらくの職業経験を経た後、自らの意思で学業を修めるために再び入学した大学の授業でのことである。

 この小論文において、私は当時の持論を展開した。
「勉強すること、すなわち科学の探究とは“何かのため”にしなければいけないことなのか。私は純粋に学問を志し、再びこの年齢になって若者達といっしょに今、ここで学業に取り組んでいる。それはとても楽しく有意義なことである。勉強とは決して何かのためにすることではなく、人間が生きていくことそのものであると私は考える。」
 この私の小論文は「教育原論」担当教官に高く評価され、受講学生全員にコピーして配布された。


 さて話が変わるが、昨日(4月25日)の朝日新聞夕刊の連続コラム「悩みのレッスン」において、高校生の「勉強は役立つの」との相談に対し、私がファンである創作家の明川哲也氏が回答していた。

 まず、高校生の相談内容を要約しよう。
 私は進学校に通う受験生であるが、私には舞台役者になる夢がある。この夢が出来てから、勉強をする意味を見失い苦しんでいる。大学には行きたいけれど、それは単に4年間の猶予が欲しいだけだ。自分では勉強も芸の肥やしと言い聞かせるのだが本当のところはわからない。勉強って根性をつけること以外に将来何かに役立つのか?

 以下は、これに対する明川氏の回答の要約である。
 役者はスパークだ。心に火花がなければ何も伝わらない。あなたが役者の人生を選ぼうとすることは、むき出しの生をつかむこと、すなわち虚無との対決だ。今、意味がないと思える勉強にあなたの生は戸惑い、忍び寄る虚無に恐怖を感じている。それは理解できる。 ほぼすべての若者の対決は「生 vs 虚無」の構図にある。まず虚しさを知ることで、これに一度は敗北することが戦いの始まりだ。まさにそれが自主的に生き始めたあなたのような人に与えられた試練となる。 虚しさはあなたに選択と創作を強要する。スパークできる教科を思い切り楽しんで勉強すればいい。意味が感じられない教科は教科書をとっておき、いつか浸れば必ず花火を見せてくれる。 そしてその時、あらゆる学問は人類が虚無に引きずり込まれないために打ち上げた花火だったと気付く。人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさだったのだと。これを知った役者の花火はでかい。 
 

 私は明川哲也氏のファンであるため、氏に関しては当ブログのバックナンバーの記事で何度か取り上げている。
 その中で既に述べているのだが、なぜ私が明川氏のファンであるかというと、僭越ながら私の思考回路や価値観が氏と似ているように感じることがひとつの理由である。(私の単なる勘違いでしたら失礼をお詫び申し上げます。)

 今回のこの回答も我が意を得たりの思いなのである。まさに、明川氏の述べておられる通りである。
 
 勉強の意義を見出せないでいる若者をつかまえて、ただ「勉強しなさい」と連呼するのは無意味である。これは浅はかな大人がよくやる失敗である。しかも、この相談者の高校生は既に自分の夢が描けるほど生きる事に前向きであり、自主性を身につけ始めた上で、勉強の意義について悩んでいる。今の混沌とした、若者が目標の定めにくいこんな時代に、それだけでもすばらしいことであると私も考える。
 そんな若者にまずは「虚無」を認識させ、それに一度は敗北する事がスタートであることをアドバイスする明川氏はやはりすばらしい。

 学問とは人類が「虚無」に引きずり込まれないために打ち上げた花火であり、人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさである。
 そんな明川氏の考えに同感する私は、今後も学ぶ楽しさを満喫しながら人生を送りたいと考える。
   
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