原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

理念なき教育改編

2008年05月08日 | 教育・学校
 連休前の4月25日(金)朝日新聞朝刊の報道によると、文部科学省は改定された小中学校の学習指導要領のうち、理科と数学の授業時間と内容の大幅増を、09年度すなわち来年度から前倒しで実施する方針を発表した、とのことである。
 その結果、小学校においては11年度春の全面実施を待たずして、来春から各学年で授業時間が週1コマ増えることになる。
 その他、小学校低学年での体育の増加、同高学年に導入される「外国語活動」の各校判断での実施、「総合的な学習の時間」の削減も前倒し実施となる。
 11年度春からの全面実施後は、小学校低学年でさらに週1コマ、中学校では各学年で週1コマ増える。


 今回のこの学習指導要領の改定においては、現行の「ゆとり教育」が批判を浴び、国際的な学力調査でも日本の成績低下が問題となる中、学力向上の姿勢を明確に打ち出している。そのため、現行の「生きる力の育成」は掲げたまま、知識の習得、それを活用する力、学習意欲を身につけさせることを趣旨とし、40年ぶりに総授業時間と学習内容を増やすことを決めたものである。 
 その他の内容としては、教育基本法の改定を受けて「公共の精神」の育成や伝統、文化の尊重も盛り込まれている。
 なお、道徳の教科化に関しては、本ブログ教育・学校カテゴリーのバックナンバー記事「道徳教育私論」において既述の通り今回は見送られており、道徳の教科化案を憂慮していた私は胸を撫で下ろしている。


 さて、今回の教育改編において一番懸念されているのは、「詰め込み教育」の復活である。

 実は、私論もこの点を大いに懸念している。
 「ゆとり教育」の反省、国際的な位置づけでの日本の学力低下からの脱却を歌い文句に、短絡的に授業数と学習内容を増やすだけの今回の安易な改定案に首を傾げるばかりである。
 この改革案の全面実施を待たずして、既に「ゆとり教育」は崩壊しつつある。 この「ゆとり教育」の趣旨を、“個に応じたきめ細かな教育指導”、“人為的に作出される競争の排除”と勝手に解釈した上で、私は「ゆとり教育」賛成派である。公教育が、詰め込み教育、偏差値偏重、へと逆戻りしていく現状を大いに憂えている。

 本来、“教育”とは子ども個々の学力向上を含めた全人格的成長を育む使命を担うべき事柄である。子ども個々の成長がひいては社会全体の発展をもたらし、国際競争力の向上へとつながっていくのであろう。
 「ゆとり教育」の“社会が言うところの失敗”に関しては、実は公教育現場の勘違いが大きいのではないかと私は懸念する。
 「ゆとり教育」の趣旨は底上げにあったはずだ。すなわち、いわゆる“落ちこぼれ”、言い換えると学習困難者にもわかる教育の実施だったはずなのだ。上記の私の解釈に基づく「ゆとり教育」を遂行するには、教える側にとっては多大な時間と労力を要する。個々の生徒の能力に応じたきめ細かな指導を実施することは、教える側にとっては重労働となろう。ところが、学校が週5日制になったこともあり、大変失礼ではあるが、教える側が“ゆとり”の意味を勘違いし、自ら“ゆとり”を堪能してしまったというような失敗がなかったと言い切れるのであろうか。
 
 私はあくまでも教育についてはボトムアップ思想を支持したい。というのも、学習に関して述べると、学習強者すなわち学習能力のある人間というのは、放っておいても自ら学習に取り組む意欲やその環境にあると判断するからである。ボトムアップ教育を実施することが、結果として全体の学力向上につながると私は推論する。

 社会全体のレベルアップひいては国際競争力の復活、維持を望みながら、義務教育において国を挙げて強者育成の教育に安易に走るのは短絡的過ぎる、との私論をこの記事において主張したいのである。

 公教育の本来のあり方とは、学習困難者に重点をおいた学習指導を遂行するのがその使命だと私は考える。
 さらに教える側に深い思慮と能力と広い視野、そして何よりもすべての子どもの成長を願う愛情と教育指導に対する熱意があるならば(公教育とは、そういう人材を指導者として採用し育成するべきである。)、子どもの学習能力に応じた対応、すなわち“個に応じた教育指導”を望みたいものである。 
Comments (8)