原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

残した捨てゼリフ

2008年05月17日 | 音楽
 ♪追いかけてヨコハマ、あのひとが逃げる~、残した捨てゼリフに誰か、見覚えはありませんか~♪♪

 中島みゆき作詞作曲、桜田淳子が歌った“追いかけてヨコハマ”のさびの部分の歌詞である。


 さて、先週末に続きネットの動画の話をしよう。
 ネットの世界とは私のような年寄りはアッと驚くほど瞬時に移り変わる時間の次元に存在しているようだ。 昨日聴けていた曲が今日は配信停止になっている。おそらく著作権上の問題があり、著作権者から配信停止措置が取られるのであろう。

 上記の桜田淳子の“追いかけてヨコハマ”はどうやらまだ聴けるのだが、同時に楽しんでいた“リップスティック”が数日前から聴けなくなっている。 ♪紅く、紅く、紅く~♪♪ の曲である。
(ところが、本日確認したらまた聴けるようである。一体、どういうシステムなんだ??)


 ところで、今さら何でまた私のようないいおばさんが“桜田淳子”にはまっているのかと言うと、これが何とも魅力的で惹きつけられるのだ。
 元々は山口百恵を聴いていて、例の“芋づる式”で桜田淳子に入ったのだと思う。(何分カラオケ好きなもので、山口百恵あたりの前後20年程度の時代の曲はほぼ全曲歌えるのです…)

 山口百恵の動画を毎晩飽きるほど見聴きしていて気が付いたことがある。山口百恵の引退コンサート(おそらく武道館?)の影像があるのだが、当時このスーパースターの引退劇はひとつの社会現象とも言えるほどのトピックスであった。人気絶頂期の結婚による電撃引退であり、日本中を震撼させたものである。
 さて何に気が付いたのかと言うと、この引退コンサートのクライマックス「さよならの向こう側」を歌っている山口百恵の涙が嘘臭いのである。(ファンの方々から袋叩きに合いそうだが…。)何度影像を繰り返し見ても、私の目には涙がわざとらしくて鼻につく。どうも演出が過度であり、あのすべてにおいて超越しているがごとき山口百恵にして、華々しく去り行く勇姿を演じきれていないのだ。
 ついでに言うと、キャンディーズの“「普通の女の子に戻りたい」引退コンサート”の動画も見たのだが、これも山口百恵引退コンサート同様に3人娘が過度の演出を演じきれておらず、私の目にはわざとらしい。

 そんないきさつがあって山口百恵に少し愛想を尽かした私は、芋づる式で桜田淳子に乗り換えたというのがそもそものことの運びだ。

 実は私は桜田淳子に実際に会ったことがある。能登半島へ友人と旅行中に、デビュー後間もない頃の初々しいベレー帽時代の桜田淳子がたまたま取材の撮影中だったのに出くわした。その場には私たち2人と取材陣しかいないという場面で、よせばいいのに友人が桜田淳子に「サインして下さい!」と迫った。突然の事で戸惑った桜田淳子は即答は避けマネージャー(?)に相談し、そのマネージャーから「撮影中ですのでご遠慮下さい。」との回答が来た。 私は当時桜田淳子のファンでも何でもなかったのだが、まだ中学生(?)の桜田淳子がブラウン管で見るよりもはるかに小柄で華奢で美人だったという印象がある。

 そんな桜田淳子の、プロの歌手としてある程度経験を積んだ頃の“追いかけてヨコハマ”“リップスティック”あたりの影像がなかなかなのだ。
 この人は元々演技派であるようだが、このプロに徹した身のこなしが小気味良くて惚れ惚れする。その歌に入り込んでいる演技の徹し方が半端でないところがいいのだ。そして、今見ると何とも艶っぽい。現在の若手女性歌手達がやたらと露出してかえって色気が感じられないのと比較して、とても色っぽい。しかも歌唱力もある。
 その存在感は山口百恵とは全く異質なものである。当時は山口百恵の人気が爆発し過ぎていて桜田淳子の存在感が相対的に影を潜めていた感があるが、何の何の十分に輝ける存在である。プロとしての能力はこちらが上回っているのではないかと私は評価する。
 おそらく、半端ではない人間性なのであろう。 宗教団体の広告塔になって以降はピタリと姿を見せないのも、そんな徹底ぶりを物語っている。

 
 実はまだまだあるのだ。私の動画お気に入りアーチストが。またの機会に紹介することにしよう。
 (洋楽もクラシックも…♪ ジャンルを問わない音楽好きです。)
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