「初恋はいつですか?」という質問はよくあるが、「初めての失恋はいつですか?」という質問は滅多になく、聞かれても意外と即答できないものではなかろうか。
この世の中、成就する恋よりも失う恋の方が圧倒的多数である。そして恋の終焉に自然消滅ということはあり得ず、必ずや“失恋”という痛みを伴い終わりを告げるものである。 恋の数だけ失恋があると言っても過言ではない。
この失恋とは誰にとっても辛いものであり、稀にこの失恋がきっかけで鬱病を患い自殺により命を落とす人もいる。 一方で、あれだけ辛い思いをした割りには、喉元過ぎると意外と忘れ去っているのが失恋というものの特徴でもなかろうか。
さて少々古くなるが、朝日新聞10月24日(金)夕刊、“こころ”のページ“悩みのレッスン”のテーマは「失恋」であった。
それでは早速21歳大学生の女性の「初めての失恋」と題する相談を以下に要約してみよう。
私は21歳になって初めて失恋をした。交際をしている間、私はメールが来れば心が躍り、彼の一言で何でも頑張れる気がしていた。私たちは別れることはない、と思っていた矢先に急に「好きな人ができたから別れて欲しい」と伝えられた。トンカチで頭を殴られた気分で、心はズタズタ、涙しか出ない。 「合コン行こう!」「新しい人をみつけなよ!」などと周囲から言われても、心に響かない。他の男の子を見つけることが本当に私にふさわしいことなのか。
この相談に対する回答者は哲学者の森岡正博氏である。以下に回答内容を要約しよう。
失恋はつらい。絶望じみた気持ちになってくるものである。友達からの「合コン行こう!」の声もきっと空虚に響くことだろう。今はつらい気持ちを抱えながら毎日を過ごしていくことしかできないかもしれない。失恋した後とは皆そんな気持ちになるものだ。そしてある程度時間が経つと、少しずつ世の中の見え方が変わってくる。その見え方とは人それぞれだ。あなたにはあなたの新しい世界が広がることであろう。
ところで、「失恋したら次の恋人!」というアドバイスはそれほど正しくないかもしれないということを知っておいて欲しい。「若者は恋愛しなければならない」というイデオロギー(固定観念)を“恋愛至上主義”と言う。これに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性もある。人生を豊かにするために“恋愛”があるのであって、“恋愛”するために人生がある訳ではないだろう。
失恋を通過したあと見えてくるものこそが、あなたにとって真の宝となるはずだ。人生の意味や勉強をする意味について、立ち止まって考えるチャンスにしてみるのがよいと思う。
それでは“失恋”に関する私論に入ろう。
この相談者の女子大学生は、心がまだまだ純粋で楽天家のように私は感じる。
私の場合は、若かりし頃から恋愛中に“失恋の予感”のようなものがあった。この相談の例のように、突然恋愛相手から「好きな人ができた」などと切り出される前に、相手の心が離れようとしている予兆を感じ取って先手に出る作戦に出たものだ。
そのような行動は、若かりし頃の私の自己防衛本能から発していたものだったと考察する。心がズタズタになり破滅することを回避したかったのだ。そんな私の行動の背景には、恋愛よりも自分の生活を優先したいという心理が強かったためであろうと分析している。
恋愛において、上記の過去の私のような自己防衛本能が強すぎる人間は不幸であるような気が今はする。我が身可愛さに危険回避のために常にアンテナをはって自己防衛に回っていたのでは、恋愛の喜びを自ら捨て去っているようなものだ。
その点、この相談者の女子大生の純粋さを羨ましくも思う。心をズタズタにされてしまうような失恋の痛みとは、真の恋愛上必要不可欠のもののようにも感じる。
回答者の森岡氏が記されている“恋愛至上主義”というイデオロギーは一種特殊な世界であり、それに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性があるという回答には一理あると私も考える。
とは言え、今現在心がズタズタになっている失恋直後のうら若き女子大学生をつかまえて、人生の意味や勉強について考えるようアドバイスをするのは無理難題であり、ある程度人生経験を重ねた私など、かえって虚しさを感じてしまう。
この女子大学生に限って言えば、今はとことんズタズタになっていればよいのではなかろうか。まだ若い世代の学生でもあるし、ズタズタになった自分に浸り、涙が枯れるまで泣き果てているうちに、合コン(や“ダンパ”)に少しでも行く気になったら行ったらどうか、と私ならばアドバイスしてあげたい。
(ただし、あくまでも鬱病にならない程度にね。)
それにしても、心をズタズタにされる程の失恋が訪れるような大恋愛でもしてみたいものだなあ。
この世の中、成就する恋よりも失う恋の方が圧倒的多数である。そして恋の終焉に自然消滅ということはあり得ず、必ずや“失恋”という痛みを伴い終わりを告げるものである。 恋の数だけ失恋があると言っても過言ではない。
この失恋とは誰にとっても辛いものであり、稀にこの失恋がきっかけで鬱病を患い自殺により命を落とす人もいる。 一方で、あれだけ辛い思いをした割りには、喉元過ぎると意外と忘れ去っているのが失恋というものの特徴でもなかろうか。
さて少々古くなるが、朝日新聞10月24日(金)夕刊、“こころ”のページ“悩みのレッスン”のテーマは「失恋」であった。
それでは早速21歳大学生の女性の「初めての失恋」と題する相談を以下に要約してみよう。
私は21歳になって初めて失恋をした。交際をしている間、私はメールが来れば心が躍り、彼の一言で何でも頑張れる気がしていた。私たちは別れることはない、と思っていた矢先に急に「好きな人ができたから別れて欲しい」と伝えられた。トンカチで頭を殴られた気分で、心はズタズタ、涙しか出ない。 「合コン行こう!」「新しい人をみつけなよ!」などと周囲から言われても、心に響かない。他の男の子を見つけることが本当に私にふさわしいことなのか。
この相談に対する回答者は哲学者の森岡正博氏である。以下に回答内容を要約しよう。
失恋はつらい。絶望じみた気持ちになってくるものである。友達からの「合コン行こう!」の声もきっと空虚に響くことだろう。今はつらい気持ちを抱えながら毎日を過ごしていくことしかできないかもしれない。失恋した後とは皆そんな気持ちになるものだ。そしてある程度時間が経つと、少しずつ世の中の見え方が変わってくる。その見え方とは人それぞれだ。あなたにはあなたの新しい世界が広がることであろう。
ところで、「失恋したら次の恋人!」というアドバイスはそれほど正しくないかもしれないということを知っておいて欲しい。「若者は恋愛しなければならない」というイデオロギー(固定観念)を“恋愛至上主義”と言う。これに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性もある。人生を豊かにするために“恋愛”があるのであって、“恋愛”するために人生がある訳ではないだろう。
失恋を通過したあと見えてくるものこそが、あなたにとって真の宝となるはずだ。人生の意味や勉強をする意味について、立ち止まって考えるチャンスにしてみるのがよいと思う。
それでは“失恋”に関する私論に入ろう。
この相談者の女子大学生は、心がまだまだ純粋で楽天家のように私は感じる。
私の場合は、若かりし頃から恋愛中に“失恋の予感”のようなものがあった。この相談の例のように、突然恋愛相手から「好きな人ができた」などと切り出される前に、相手の心が離れようとしている予兆を感じ取って先手に出る作戦に出たものだ。
そのような行動は、若かりし頃の私の自己防衛本能から発していたものだったと考察する。心がズタズタになり破滅することを回避したかったのだ。そんな私の行動の背景には、恋愛よりも自分の生活を優先したいという心理が強かったためであろうと分析している。
恋愛において、上記の過去の私のような自己防衛本能が強すぎる人間は不幸であるような気が今はする。我が身可愛さに危険回避のために常にアンテナをはって自己防衛に回っていたのでは、恋愛の喜びを自ら捨て去っているようなものだ。
その点、この相談者の女子大生の純粋さを羨ましくも思う。心をズタズタにされてしまうような失恋の痛みとは、真の恋愛上必要不可欠のもののようにも感じる。
回答者の森岡氏が記されている“恋愛至上主義”というイデオロギーは一種特殊な世界であり、それに振り回されると「恋愛依存症」になってしまう危険性があるという回答には一理あると私も考える。
とは言え、今現在心がズタズタになっている失恋直後のうら若き女子大学生をつかまえて、人生の意味や勉強について考えるようアドバイスをするのは無理難題であり、ある程度人生経験を重ねた私など、かえって虚しさを感じてしまう。
この女子大学生に限って言えば、今はとことんズタズタになっていればよいのではなかろうか。まだ若い世代の学生でもあるし、ズタズタになった自分に浸り、涙が枯れるまで泣き果てているうちに、合コン(や“ダンパ”)に少しでも行く気になったら行ったらどうか、と私ならばアドバイスしてあげたい。
(ただし、あくまでも鬱病にならない程度にね。)
それにしても、心をズタズタにされる程の失恋が訪れるような大恋愛でもしてみたいものだなあ。