原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学ぶ意欲は育つのか?

2008年12月15日 | 教育・学校
 2007年に実施された子どもの「国際数学・理科教育動向調査」の結果を受けて、文部科学省は「学力低下に歯止めがかかった。各学校における取り組みが一定の成果を上げつつある結果であり、国の教育政策の方向性は間違っていないことが確かめられた。」と自己評価した。

 ところが、この国際学力調査の結果を2003年に実施された前回の同調査と比較すると得点は横ばいか微増でしかなく、文部科学省の自己評価に信憑性があるのか疑問との声も聞かれる。
 某大学数学研究所教授は「算数や数学の学力が下げ止まったとは言えない。むしろ学力低下の“定着”ではないか。」と反対意見を述べている。そしてその原因のひとつとして、入試で数学が要らない大学が増え勉強の動機付けが難しい点を指摘している。
 注意すべきは得点の上下や順位のわずかな上下ではなく、子どもの意識がきちんと学びに向かっているかどうかだ、という専門家からの指摘はかねてより多い。

(以上、朝日新聞12月10日記事「学ぶ意欲 なお低迷」より抜粋、要約)
 

 数学、理科に限らず、子どもの学力向上を議論する場合にその前提となるのは(上記の朝日新聞で取り上げられている通り) 「学ぶ意欲」 の向上である。学習をせずして学力が向上するはずもない。 子どもが学習に向かおうとする意欲を如何に育てていくかの議論がまずはなされるべきであろう。


 この「学ぶ意欲」についての私論を先に述べさせていただこう。

 小中学生位の年齢の子どもを捉まえて「学ぶ意欲」とはいささか大袈裟ではなかろうか。
 今や、学問を追究するべくはずの大学生でさえ「学ぶ意欲」もないのに大学へ入学し、在学中に学問に触れることもなく、学問とは何かすら知らずに卒業していく不届き者の学生が多い現状である。

 しかも小中高とはそもそも“学問”を追究する場ではない。学問の前段階の“知識の習得”が小中高の役割である。 小中高における「学ぶ」という言葉の意味は、あくまでも“既存の知識の習得”すなわち“学習”の意味合いでしかない。

 そして“意欲”という言葉も多少ひっかかる。既存の知識の習得にしか過ぎない“学習”に対して年端もいかない子ども達に“意欲”を要求するのも少々酷ではなかろうか。
 私自身の小中高の経験を思い起こしてみても、学習とは正直なところ概してつまらないものであった。にもかかわらずなぜ私が子どもの頃比較的精力的に学習に励んだのかを分析すると、それは向上心であり、律儀で負けず嫌いな性格によるのであり、決して学習そのものに対する“意欲”とは言えないのである。

 加えて“意欲”とは長続きしないものでもある。年端もいかない子どもを学習に向かわせるのは本人の“意欲”よりも“習慣”ではなかろうか。

 という訳で、私論としてはこの「学ぶ意欲」を「学習習慣」という言葉に置き換えて考察してみたい。
 すなわち、子どもの学力向上のためには子どもの「学習習慣」の定着が肝心なのである。


 では、子どもに如何にこの「学習習慣」を定着させるか?

 いつも私事で恐縮だが、現在中3の我が子にはこの「学習習慣」が身に付いている事だけは私は自負している。
 我が子は決して私ほどの向上心はなく負けず嫌いでもないタイプの子である。早い話が放っておいたら学習をしない部類の子どもなのだ。そんな我が子の特質を早期に見抜いた私は、「学習習慣」を身に付けさせるべく小1から我が子の学習のフォローをしてきている。そのフォローとは“共に歩む”ことである。

 一般的な親がよくやる失敗は「勉強しなさい!」という言葉だけ投げかけて後は我関せずで、後に子どもの成績の悪さだけを責めることである。これは子どもを相当傷つける行為であり、反発をくらうだけで逆効果だ。
 結果よりも過程が重要なのは言うまでもない。子どもの普段の学習の様子を見守る(一声かける等、少し気にかけるだけで十分)ことで子どもの「学習習慣」は育つものであると私の経験から申し上げたい。


 子どもの学力向上のため、学校も理科の実験を多く取り入れる等、実体験学習を導入する等の“小手先”の工夫はしているようではある。 だが、残念ながら現在の学校における個性を重視し得ない一斉授業システムにおいて、“小手先”のまやかしのみでは、今後も個性豊かな子ども一人ひとりに対応することは不可能に近いであろう。
 
 結論としては、子どもの「学ぶ意欲」すなわち「学習習慣」を身につけさせるのは、やはり家庭での子どもへの理解と愛情が基本となるのではなかろうか。
     
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