原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

オピニオンと苦情

2008年12月04日 | 教育・学校
 近頃、どうも引っかかってすっきりしない言葉がある。「モンスターペアレント」というあれである。

 この「モンスターペアレント」とやら、先だってはテレビドラマにまで登場した様子である。(ニュースと天気予報以外テレビを見る趣味がほとんどない私は、残念ながらこのドラマは見ていないのだが。) どうやら、学校にご意見申し上げる保護者の存在自体を、世を挙げて悪者に仕立て上げようとするがごとくの社会風潮が蔓延してきているように感じるのは私だけであろうか。

 この言葉、元々はおそらく公教育を受ける側ではなく提供側から発せられたのであろうと推測するのだが、学校や教育委員会等自治体に対して、保護者をはじめとする社会一般から物を申させないようにする“言論統制”の意図が見え隠れしているようにすら感じられ、私は大いに憂えている。


 話を整理して考えてみよう。
 まず第一点であるが、“オピニオン(意見)”と“苦情”は似て異なるものである。これをごちゃ混ぜにしてしまう過ちを犯してはならない。
 そして“理不尽な要求”とは言わずと知れているが、上記二者とまったく異なる意味合いの言葉である。
 仮に、「モンスターペアレント」という言葉を学校に対して“理不尽な要求”をしてくる保護者のみに限定して使用しているのであれば、私も許容範囲である。
 ところが、学校に対して“苦情”ましてや“オピニオン(意見)”を述べてくる保護者までをも「モンスターペアレント」という言葉でシャットアウトしようという風潮があるとするならば、これは明らかに“言論統制”であろう。


 私自身、特に子どもが小学校在学中に所属していた公立小学校に対して、保護者の立場から何度か学校運営や教育方針に関する“オピニオン(意見)”を提出させていただいたことがある。 私の場合、電話等の口頭は一切避け、必ず文書化して「意見書」の形で学校長や担任宛に提出していた。
 これは提出するだけで嫌われる。それを重々承知の上での提出だった。
 学校側は最初の頃は案の定、意見書の内容を読みもせずに「学校運営に対する理解、協力を…」等の決まり文句で無視を決め込んでいたものである。ところが、諦めずに何度か意見書を提出しているうちに、私のオピニオン内容に信憑性、妥当性があることを学校側が認めるようになり、そのうち対話の場を設けてくれるようになってきた。例えば、緊急電話連絡網の濫用防止対策、通学路の安全性の確保等、において私が提出した意見書に基づいた話し合いにより相当の改善策が取られた事例もある。
 このように、保護者が提出した“オピニオン”を学校側が真摯に受け入れる例も皆無と言う訳ではないのだが、大抵の場合は門前払いが実情ではなかろうか。

 この「モンスターペアレント」という言葉は、ここ1、2年のうちに流行り始めた言葉であるが、もしかしたら過去において学校へ意見書を提出してきた私も「モンスターペアレント」と言われ後ろ指を指される立場だったのか??、と背筋がゾッとしたりもする。
 もしそうだとするとそれはとんでもない濡れ衣である。学校はこのような一種の差別用語を振りかざして、外部からの意見等の諸情報をシャットアウトするべきではない。公教育の場とは、社会に広く門戸を開放し積極的に外部と意見交換していくことにより進化し、より良い教育を提供してゆくのが使命であるはずだ。

 
 信憑性があって正当な意見は受け入れるが“苦情”は勘弁して欲しい、という声も学校側から聞こえてきそうである。 これは私の願望であるが、保護者からの“苦情”も一応聞く耳を持つ寛容さが学校には欲しいものである。“苦情”というのは意見の原点でもある。表現力や論理力の乏しい保護者が、もしかしたら直接的に“苦情”を学校側にぶつける場合もあるかもしれない。そのような“苦情”の中には教育改革の原石となる要求も含まれているものでもある。民間企業における新商品開発など顧客の苦情から始まると言っても過言ではない。
 公的機関のひとつである公教育現場の学校とは、一般社会に甘えたり逆に排除するのではなく、大きなキャパシティを持って一般市民社会を受け入れることがその役割ではないのか。

 そして、保護者側も学校と対等に対話したいのであれば、“苦情”を直接ぶつけず一呼吸置き、論点を整理し表現方法を考慮した上で冷静かつ良識的な対応を心がけたいものである。


 「モンスターペアレント」などという一種の差別用語が社会から消え去り、学校と保護者等一般社会が対等に対話し合える教育環境が確立されることを望みたいものである。 
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