漢字能力検定協会が公益法人でありながら暴利をむさぼり、その歪んだ体質の醜態を社会に晒している実態については、既に皆様も周知のことであろう。
この私が「漢検」の存在を知ったのは、かれこれ10年程前のことである。
“東大卒”を売り物にしている女優の菊川玲(あの方、今何をしているのかしら??)が、当時私が好んで見ていたテレビのクイズ番組“クイズタイムショック”に出演して、「私は漢検2級を取得していま~~す!」と高らかに豪語しているのを見聞してからだ。
それまで「英検」の存在は知っていたものの(一応この原左都子も、英検2級を取得していま~~す! 何の自慢にもなりゃしない…)、「漢検」なるものは初耳だった。東大卒業者が自慢する程の資格だとすれば、相当社会的権威があるのか??との印象だけは残ったものだ。
その後我が子が進学した中学校では、在学中に「英検」に加えて「漢検」「数検」を受験し、中学卒業までに全員が英漢数すべて最低限“3級”をクリアする事が在学中のノルマとして課せられた。(我が子の場合全部クリアしての卒業だった。「漢検」に関しては、中三の8月の受験で“準2級”まで合格済みである。)
その中で我が子の「漢検」受験に際して、(ははあ、あの東大卒の女優も合格しているとやらの「漢検」ね。)との記憶が蘇った私は、早速子どもの「漢検」指導に入ることとなる。
我が子の「漢検」準2級までの受験指導経験者の立場から結論を先に述べると、あの検定試験は「過去問」を繰り返し学習しさえすれば必ずや合格できる資格試験である。少なくとも準2級までに関しては、他に何ら受験対策は必要とせず、比較的簡単に取得できる資格との印象が強い。
私自身も子どもと共に家庭で「漢検」過去問に挑戦してみたのだが、既に老化の一途を辿り蜘蛛の巣が張り巡らされつつある私の頭でも、2級問題を9割方回答可能である。
3級あたりまでの問題はまずまず無難な内容であり、合格しておいても損はないかもしれない。
ところが準2級ともなると、早くも“奇問・珍問”と思しき出題がちらほらと出現してきている。半世紀以上日本語を操りつつ生きてきている私が、見たことも聞いたこともないような四字熟語の出題もある。類似語、反義語の出題においては、これを類似語、反義語と位置づけていいのか?、微妙なニュアンスにズレがあるように思うが…、との疑念が頭をもたげる出題もある。 準2級までの場合7割正解で合格のため、私の判断で奇問・珍問をはじめ、むしろ中学生に学習させると弊害がありそうな設問は切り捨てつつ子どもに過去問に取り組ませ、合格をゲットさせてきている。
このように、中学生時点で既に「漢検」準2級まで合格している我が子であるが、日常的に子どもに接している私の目から見て、我が子の漢字力は至って貧弱である。厳しい親であるかもしれないが、そう判断している。 一夜漬けで過去問を詰め込んで「漢検」に合格したところで、生きた漢字力が身につくはずもない。「漢検」に限らずそもそも試験とはすべてそういうものであろう。
4月24日(金)朝日新聞朝刊「声」欄に、77歳の女性からの“漢字検定ってほんとに必要?”と題する投書があった。
以下に、その一部を抜き出して紹介しよう。
難解な字が読める、書けることに級や段をつける。趣味としてなら分かるが、これが一つの資格ということになると首をかしげたくなる。難解な文字を知っていることが即、教養があることにはならない。
公益法人にして検定を実施する必要はない。何でも検定だの資格だのと称して利益を得ようとする機関があるようだ。もう一度よく考えてみる必要がある。
私論もまったく同感である。
日本語という言語体系の中で、一表現要素として位置しているのが漢字である。その位置づけは主要ではあるが、あくまでも言語の全体のバランスの中で機能するべき漢字でもある。
「漢検」とは、その中から漢字のみをえぐり出して一人歩きさせたような、一国の言語としての全体的バランスに欠ける出題内容である感が否めない。さらに、級が進むにつれマニアックになってくる様子だ。これでは、単に“漢字オタク”を育成するだけの趣味的資格でしかあり得ない。
「漢検」受験に挑戦し合格をゲットすることが、自己の今後のさらなる国語力の強化に連結していくひとつのきっかけになるならば、それはそれで受験が奨励されてもよいとも考える。 我が子の場合も、「漢検」に合格した事がその後の国語の学習への励みにはなっている様子である。
少なくとも「漢検」合格とは、決して国語力のゴールでもなければ自己の教養のアピール手段でもあり得る訳がない。これに合格したからといって、いい大人がテレビ番組で公共の電波を使ってそれを吹聴して、でかい態度を露呈する程の快挙でもないことは明白だ。
ましてや朝日新聞の投書者もおっしゃる通り、公益法人が実施するマニアックな検定試験が大きな顔をして長年まかり通り、暴利をむさぼることを容認してきている教育行政のお粗末さには、落胆させられるばかりである。
この私が「漢検」の存在を知ったのは、かれこれ10年程前のことである。
“東大卒”を売り物にしている女優の菊川玲(あの方、今何をしているのかしら??)が、当時私が好んで見ていたテレビのクイズ番組“クイズタイムショック”に出演して、「私は漢検2級を取得していま~~す!」と高らかに豪語しているのを見聞してからだ。
それまで「英検」の存在は知っていたものの(一応この原左都子も、英検2級を取得していま~~す! 何の自慢にもなりゃしない…)、「漢検」なるものは初耳だった。東大卒業者が自慢する程の資格だとすれば、相当社会的権威があるのか??との印象だけは残ったものだ。
その後我が子が進学した中学校では、在学中に「英検」に加えて「漢検」「数検」を受験し、中学卒業までに全員が英漢数すべて最低限“3級”をクリアする事が在学中のノルマとして課せられた。(我が子の場合全部クリアしての卒業だった。「漢検」に関しては、中三の8月の受験で“準2級”まで合格済みである。)
その中で我が子の「漢検」受験に際して、(ははあ、あの東大卒の女優も合格しているとやらの「漢検」ね。)との記憶が蘇った私は、早速子どもの「漢検」指導に入ることとなる。
我が子の「漢検」準2級までの受験指導経験者の立場から結論を先に述べると、あの検定試験は「過去問」を繰り返し学習しさえすれば必ずや合格できる資格試験である。少なくとも準2級までに関しては、他に何ら受験対策は必要とせず、比較的簡単に取得できる資格との印象が強い。
私自身も子どもと共に家庭で「漢検」過去問に挑戦してみたのだが、既に老化の一途を辿り蜘蛛の巣が張り巡らされつつある私の頭でも、2級問題を9割方回答可能である。
3級あたりまでの問題はまずまず無難な内容であり、合格しておいても損はないかもしれない。
ところが準2級ともなると、早くも“奇問・珍問”と思しき出題がちらほらと出現してきている。半世紀以上日本語を操りつつ生きてきている私が、見たことも聞いたこともないような四字熟語の出題もある。類似語、反義語の出題においては、これを類似語、反義語と位置づけていいのか?、微妙なニュアンスにズレがあるように思うが…、との疑念が頭をもたげる出題もある。 準2級までの場合7割正解で合格のため、私の判断で奇問・珍問をはじめ、むしろ中学生に学習させると弊害がありそうな設問は切り捨てつつ子どもに過去問に取り組ませ、合格をゲットさせてきている。
このように、中学生時点で既に「漢検」準2級まで合格している我が子であるが、日常的に子どもに接している私の目から見て、我が子の漢字力は至って貧弱である。厳しい親であるかもしれないが、そう判断している。 一夜漬けで過去問を詰め込んで「漢検」に合格したところで、生きた漢字力が身につくはずもない。「漢検」に限らずそもそも試験とはすべてそういうものであろう。
4月24日(金)朝日新聞朝刊「声」欄に、77歳の女性からの“漢字検定ってほんとに必要?”と題する投書があった。
以下に、その一部を抜き出して紹介しよう。
難解な字が読める、書けることに級や段をつける。趣味としてなら分かるが、これが一つの資格ということになると首をかしげたくなる。難解な文字を知っていることが即、教養があることにはならない。
公益法人にして検定を実施する必要はない。何でも検定だの資格だのと称して利益を得ようとする機関があるようだ。もう一度よく考えてみる必要がある。
私論もまったく同感である。
日本語という言語体系の中で、一表現要素として位置しているのが漢字である。その位置づけは主要ではあるが、あくまでも言語の全体のバランスの中で機能するべき漢字でもある。
「漢検」とは、その中から漢字のみをえぐり出して一人歩きさせたような、一国の言語としての全体的バランスに欠ける出題内容である感が否めない。さらに、級が進むにつれマニアックになってくる様子だ。これでは、単に“漢字オタク”を育成するだけの趣味的資格でしかあり得ない。
「漢検」受験に挑戦し合格をゲットすることが、自己の今後のさらなる国語力の強化に連結していくひとつのきっかけになるならば、それはそれで受験が奨励されてもよいとも考える。 我が子の場合も、「漢検」に合格した事がその後の国語の学習への励みにはなっている様子である。
少なくとも「漢検」合格とは、決して国語力のゴールでもなければ自己の教養のアピール手段でもあり得る訳がない。これに合格したからといって、いい大人がテレビ番組で公共の電波を使ってそれを吹聴して、でかい態度を露呈する程の快挙でもないことは明白だ。
ましてや朝日新聞の投書者もおっしゃる通り、公益法人が実施するマニアックな検定試験が大きな顔をして長年まかり通り、暴利をむさぼることを容認してきている教育行政のお粗末さには、落胆させられるばかりである。