朝日新聞毎週土曜日夕刊“こころ”のページに連載中の「悩みのレッスン」は、若者からの相談内容のレベルの高さがその特徴と以前より私は捉えている。
ところがどういう訳か5月9日(土)付夕刊の当コラムの今回の相談内容が、珍しくありきたりでレベルが低いことに拍子抜けさせられた私である。
早速、その「悩みのレッスン」の19歳の大学生男性の“ゴールが見えない”と題する相談内容を以下に紹介してみよう。
中学でいじめを受けたために、人間不信で自身が持てない。当時「お前より成績は良い」といじめた相手に言ったが、「運動やルックスで勝っている」と言い返されいじめはエスカレート。今も引きずり「すべて他人より上でないと」との強迫観念に駆られる。大学に通り資格も取得したが気分は晴れない。不信感、敗北感を一生背負っていく恐怖と絶望に苦しみ、プライドが高く反社会的で攻撃的な性格の自分に嫌気がさす。自暴自棄の自分にゴールはあるのか。
今回の相談の回答者は本ブログではお馴染みの創作家の明川哲也氏であるが、明川氏もこの相談を読み私同様に“拍子抜け”された模様だ。
その、いつもながら“冴えた”明川氏の回答の冒頭部分を紹介しよう。
悩んでいる人に向かって「笑っちゃいました」と言うのは立場上まずいが、ずい分みみっちいことを言い合っていじめたりいじめられたりしているんだね。 そのまま大人になって居酒屋で顔を合わせたりすると、「俺の給料はお前より高い」「福利厚生で勝ってるし、かみさんがセクシーだから悔しくない」とか言い合うのかな。最近のお父さん向け雑誌と同じだね。大企業の給料をばらす特集が多くて、お父さん達はそういうページに引っ張られ、不幸な顔をして電車に揺られている。 比較さえしなければ、今夜のお酒も美味しかったはずなのに。
ほぼすべての不幸は比較から始まる。… (以下は略すが、明川氏は相談者に対し、大袈裟に苦しむ前に、比較を絶つ勇気を持つことを勧めている。)
さて、私論に移ろう。
まったくもって、他者との比較とは大抵の場合は“みみっちい”ものでしかなく、端で見聞していると明川氏がおっしゃるように呆れて“笑っちゃう”しかない場合が多いものである。
「私の方が美人だわね」 「でも、胸は私が大きくてナイスバディよ」
「うちの家の方があんたんちより大きいわよ」 「でも、うちの方が都心に近いし路線価も資産価値も高いわね」
………
口には出さずとも内心で他者と比較して、“みみっちく”密かにほくそ笑んでいる俗人は世に蔓延していることであろう。
他者との比較とはあくまでも自分の内心で行って(「内心の自由」は法的にも保障されている)、一人芝居で優越感に浸ればよいレベルのものである。 それを材料に不信感、敗北感を抱く程度までならばまだしも、反社会的で攻撃的になって自暴自棄に陥られてしまっては、社会がますます混乱し危機に陥ってしまう。
大学生男性の相談内容に話を戻そう。
冒頭の「成績云々…」と「運動とルックス云々…」の会話だけを読んだ場合、これは単なる“売り言葉に買い言葉”で中学生の痴話喧嘩の範疇であって、これを“いじめ”とまで言うのか?との疑問と、そもそも喧嘩を売ったのは相談者の方との感想を抱く。
悩んでいる人を捉まえて厳しい見解を述べ申し訳ないが、この相談者はどうやら“いじめられる”素質を生来持っているのか、とも推察してしまう。人格的背景に何らかのコンプレックスが見え隠れしていて、それを他者との比較によりカバーすることにより自己の存在を肯定しつつ、何とかバランスを取って今まで生きてきたかのような印象さえ受ける。
では、今後この若者が他者との比較という“悪癖”を乗り越えて、自らが背負っているコンプレックスを根本的に解消していくには、如何なる手立てを打てばよいのか?
この若者の場合、“自称”成績が良いらしく、大学にも通り資格も取得したとのことである。 それらの長所、武器を“みみっちい”他者との比較の材料にして一時の優越感に浸るのではなく、今後の更なる成長のための素材として活用したいものである。 その目標の内容は何であってもよいと思う。
自らの長所をこの若者が自己の何らかの「成功」に結び付けることにより達成感が得られたならば、きっと世に対する視界も少しずつ違ってくるのであろう。
人生とは、“目標設定”とその目標到達への努力、そして目標到達後の達成感、満足感の享受、これらの繰り返しで年月が過ぎ去っていくものと私は心得ている。
その過程において、「他者との比較」が自己評価を行うためには欠かせない一指標と成り得ることは確かである。 ただし、元々人それぞれの「目標設定」が千差万別であるが故に、その比較はあくまでも一指標としか成り得ないことも明白であろう。
以上の私論に基づいた上で、今回の相談者の若者の心情はこの原左都子おばさんにも重々理解できるのだ。
ちょっと似てると思うのよ、私はあなたと。
若かりし頃は「すべて他人より上でいないと」気が済まないとの強迫観念に駆られて、下手なりに我武者羅に頑張ってきたような気が私もするのだ。
今だってそうだよなあ。
何でこんな一銭にもならないブログを、日々貴重な時間を割いて執拗なまでに綴り続けているかというと、それはまだ自分の人生の「ゴールが見えない」からだと自己診断してるよ。
だけど、どういう風に生きたって、ゴールとは一生見えないものかもしれないね。
そしてその方が、この先もずっと我が人生を楽しめそうにも思えるのがこれまた不思議だよね。
ところがどういう訳か5月9日(土)付夕刊の当コラムの今回の相談内容が、珍しくありきたりでレベルが低いことに拍子抜けさせられた私である。
早速、その「悩みのレッスン」の19歳の大学生男性の“ゴールが見えない”と題する相談内容を以下に紹介してみよう。
中学でいじめを受けたために、人間不信で自身が持てない。当時「お前より成績は良い」といじめた相手に言ったが、「運動やルックスで勝っている」と言い返されいじめはエスカレート。今も引きずり「すべて他人より上でないと」との強迫観念に駆られる。大学に通り資格も取得したが気分は晴れない。不信感、敗北感を一生背負っていく恐怖と絶望に苦しみ、プライドが高く反社会的で攻撃的な性格の自分に嫌気がさす。自暴自棄の自分にゴールはあるのか。
今回の相談の回答者は本ブログではお馴染みの創作家の明川哲也氏であるが、明川氏もこの相談を読み私同様に“拍子抜け”された模様だ。
その、いつもながら“冴えた”明川氏の回答の冒頭部分を紹介しよう。
悩んでいる人に向かって「笑っちゃいました」と言うのは立場上まずいが、ずい分みみっちいことを言い合っていじめたりいじめられたりしているんだね。 そのまま大人になって居酒屋で顔を合わせたりすると、「俺の給料はお前より高い」「福利厚生で勝ってるし、かみさんがセクシーだから悔しくない」とか言い合うのかな。最近のお父さん向け雑誌と同じだね。大企業の給料をばらす特集が多くて、お父さん達はそういうページに引っ張られ、不幸な顔をして電車に揺られている。 比較さえしなければ、今夜のお酒も美味しかったはずなのに。
ほぼすべての不幸は比較から始まる。… (以下は略すが、明川氏は相談者に対し、大袈裟に苦しむ前に、比較を絶つ勇気を持つことを勧めている。)
さて、私論に移ろう。
まったくもって、他者との比較とは大抵の場合は“みみっちい”ものでしかなく、端で見聞していると明川氏がおっしゃるように呆れて“笑っちゃう”しかない場合が多いものである。
「私の方が美人だわね」 「でも、胸は私が大きくてナイスバディよ」
「うちの家の方があんたんちより大きいわよ」 「でも、うちの方が都心に近いし路線価も資産価値も高いわね」
………
口には出さずとも内心で他者と比較して、“みみっちく”密かにほくそ笑んでいる俗人は世に蔓延していることであろう。
他者との比較とはあくまでも自分の内心で行って(「内心の自由」は法的にも保障されている)、一人芝居で優越感に浸ればよいレベルのものである。 それを材料に不信感、敗北感を抱く程度までならばまだしも、反社会的で攻撃的になって自暴自棄に陥られてしまっては、社会がますます混乱し危機に陥ってしまう。
大学生男性の相談内容に話を戻そう。
冒頭の「成績云々…」と「運動とルックス云々…」の会話だけを読んだ場合、これは単なる“売り言葉に買い言葉”で中学生の痴話喧嘩の範疇であって、これを“いじめ”とまで言うのか?との疑問と、そもそも喧嘩を売ったのは相談者の方との感想を抱く。
悩んでいる人を捉まえて厳しい見解を述べ申し訳ないが、この相談者はどうやら“いじめられる”素質を生来持っているのか、とも推察してしまう。人格的背景に何らかのコンプレックスが見え隠れしていて、それを他者との比較によりカバーすることにより自己の存在を肯定しつつ、何とかバランスを取って今まで生きてきたかのような印象さえ受ける。
では、今後この若者が他者との比較という“悪癖”を乗り越えて、自らが背負っているコンプレックスを根本的に解消していくには、如何なる手立てを打てばよいのか?
この若者の場合、“自称”成績が良いらしく、大学にも通り資格も取得したとのことである。 それらの長所、武器を“みみっちい”他者との比較の材料にして一時の優越感に浸るのではなく、今後の更なる成長のための素材として活用したいものである。 その目標の内容は何であってもよいと思う。
自らの長所をこの若者が自己の何らかの「成功」に結び付けることにより達成感が得られたならば、きっと世に対する視界も少しずつ違ってくるのであろう。
人生とは、“目標設定”とその目標到達への努力、そして目標到達後の達成感、満足感の享受、これらの繰り返しで年月が過ぎ去っていくものと私は心得ている。
その過程において、「他者との比較」が自己評価を行うためには欠かせない一指標と成り得ることは確かである。 ただし、元々人それぞれの「目標設定」が千差万別であるが故に、その比較はあくまでも一指標としか成り得ないことも明白であろう。
以上の私論に基づいた上で、今回の相談者の若者の心情はこの原左都子おばさんにも重々理解できるのだ。
ちょっと似てると思うのよ、私はあなたと。
若かりし頃は「すべて他人より上でいないと」気が済まないとの強迫観念に駆られて、下手なりに我武者羅に頑張ってきたような気が私もするのだ。
今だってそうだよなあ。
何でこんな一銭にもならないブログを、日々貴重な時間を割いて執拗なまでに綴り続けているかというと、それはまだ自分の人生の「ゴールが見えない」からだと自己診断してるよ。
だけど、どういう風に生きたって、ゴールとは一生見えないものかもしれないね。
そしてその方が、この先もずっと我が人生を楽しめそうにも思えるのがこれまた不思議だよね。