昨夜一家で外食したのだが、その帰りに娘と二人で書店へ立ち寄った。
「何か本を買って帰って、連休中に読もうか?」と私が娘に声をかけると、娘は何冊がパラパラと立ち読みし、2冊の本を買うことに決めたようだ。
帰宅後、「どんな本を買ったの? 見せて。」と言いつつ、娘が買い求めた本のタイトルを見た私は、一瞬我が目を疑った。
まずはここでその本のタイトルのみを紹介すると、「私の嫌いな10の人びと」「私の嫌いな10の言葉」である。
本のタイトルのみを一見した私の頭の中に、様々な思いがよぎった。
(我が娘もまた随分と否定的で退廃的な本を読みたいと思っているものだなあ。 これはどうしたことか? 人間関係において現在何か悩みでも抱えているのだろうか? 親の目には私に似なかったのが幸いして至って素直で温順で、否定的な思考なぞするはずもないと信じている我が娘に、実は嫌いな人物がいて、日常的に嫌な言葉を投げかけられ、日々悶々と過ごしていたのであろうか?)
(ぎょっ!! もしかしたらそれは私のことではないのか?? 実は、我が娘は日頃一番かかわりが深く親密な母の私に嫌気がさしているのではなかろうか? 私が普段娘に対して何気なくかけている言葉が、大いに娘を傷つけているのだろうか?)
(そうだよなあ。 そう言えば昨日も娘に対して「さっさとしなさい!」「何ボーッとしてるの!」どうのこうのと責めたよなあ…。どう考えても鬼母の私は、いずれ娘に嫌われる運命にあったのか?? 娘が高校へ進学して、その時期が到来したのか!? 娘が親に向かって金属バッドを振り回し始める日も近いのか!!? それはそれで親としては自業自得だ。 娘の“鬼の征伐”を堂々と受けて立とうじゃないか!! )
元々想像力豊かな私の妄想は尽きない。
その傍らで、明日から学校が4連休に入る娘はいつもよりもさらに気分が解放されているようで、無邪気にはしゃいでいる。幼少の頃から小学校高学年までリビングに学習机を置き母子二人三脚で学習に励んできているせいか、娘は高校生になった今尚、自分の部屋よりもリビングの方を好んでいる。(それで、私の「とっとと自分の部屋へ行って勉強しろよな!!」等の堪忍袋の緒が切れた罵声が飛び交うのだが…)
今日になって改めて、娘がこの連休中に読もうとしている上記の 中島義道氏著 の「私の嫌いな…」の2冊の本の“目次”に目を通してみた。
な~~るほど。
中島義道氏著のこれらの本は、決して“否定的”でも“退廃的”でもなく、むしろ私が今までの人生において培ってきている思想とほぼ一致しているのではないか、ということに気付かされたのである。
その中島氏著による2冊の本の“目次”をここで紹介してみよう。
まずは、「私の嫌いな10の言葉」から。
「相手の気持ちを考えろよ!」 「ひとりで生きているんじゃないからな!」
「おまえのためを思って言っているんだぞ!」 「もっと素直になれよ!」
「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」 「謝れよ!」
「弁解するな!」 「胸に手を当てて考えてみろ!」
「みんなが厭な気分になるじゃないか!」 「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」
ここで私論になるが、まさに“なるほど!なるほど!”でガッテンである。
これらの言葉とは、“単純馬鹿”なくせにどういう訳か人の上に立ってしまっている人物(例:学校の熱血教師等)から、日常的によく発せられる言葉である。
私など、幼少の頃からこういう“アホ臭い”言葉に先天的なアレルギーがあったものだ。こういう種の、一見もっともらしいが実は周囲の微細な心情が見えていない自分本位の言葉に嫌悪感を抱きつつ、私の確固たる反骨精神が培われてきたとも言える。
次に「私の嫌いな10の人びと」の“目次”を紹介しよう。
「笑顔の絶えない人」 「常に感謝を忘れない人」
「みんなの喜ぶ顔が見たい人」 「いつも前向きに生きている人」
「自分の仕事に『誇り』を持っている人」 「『けじめ』を大切にする人」
「喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人」 「物事をはっきり言わない人」
「『おれ、バカだから』という人」 「『わが人生には悔いはない』と思っている人」
私論であるが、いやはや、中島義道氏の「お嫌い」な人物像のご指摘は、これまた私の見解と一部を除き一致する。
(中島氏と見解が一致しない“一部”に関して先に述べると、「「物事をはっきり言わない人」と「『わが人生において悔いはない』と思っている人」である。この私はその時々の諸状況に応じて、自分が結果として損を被ることは承知の上で、あえて物事をはっきり言わない場面はよくある。そして私は至って未熟ながらも「悔いのない」人生を刻み続けるべく、あくまでも私なりではあるが日々努力しているつもりでもある。)
その上でこの私も、日本の“いわゆる”良識において“善人”であるとされているような、中島氏が羅列されている人物像が実は大の苦手である。いい年をしてこのような人物像を目指そうとする人々の、やはり“単純馬鹿”さ加減には申し訳ないが私はちょっとついて行けない気がするし、“あまのじゃく”を自負する私自身がそういう通り一遍の善人のような人生を、微塵も歩みたくないと思いつつ日々を送っている。
(これら2冊の本の著者でいらっしゃる中島義道氏には、“目次”に目を通したのみでこのような勝手な論評をさせて頂きましたことを、ここでお詫び申し上げます。 貴著を娘が読ませていただいた後に、私も拝読したく存じております。)
幼少の頃より母(私のことだが)の影響を大きく受けて育ってきている我が娘は、実は本屋の店頭でこの本の“目次”を一覧して私同様に中島氏に同感して、この2冊を読みたいと欲したのだろうか?
そういうことはまだ詮索せずに、娘が読み終わった後で軽く感想などを聞くことを、親としては今は楽しみにしていようかな。
「何か本を買って帰って、連休中に読もうか?」と私が娘に声をかけると、娘は何冊がパラパラと立ち読みし、2冊の本を買うことに決めたようだ。
帰宅後、「どんな本を買ったの? 見せて。」と言いつつ、娘が買い求めた本のタイトルを見た私は、一瞬我が目を疑った。
まずはここでその本のタイトルのみを紹介すると、「私の嫌いな10の人びと」「私の嫌いな10の言葉」である。
本のタイトルのみを一見した私の頭の中に、様々な思いがよぎった。
(我が娘もまた随分と否定的で退廃的な本を読みたいと思っているものだなあ。 これはどうしたことか? 人間関係において現在何か悩みでも抱えているのだろうか? 親の目には私に似なかったのが幸いして至って素直で温順で、否定的な思考なぞするはずもないと信じている我が娘に、実は嫌いな人物がいて、日常的に嫌な言葉を投げかけられ、日々悶々と過ごしていたのであろうか?)
(ぎょっ!! もしかしたらそれは私のことではないのか?? 実は、我が娘は日頃一番かかわりが深く親密な母の私に嫌気がさしているのではなかろうか? 私が普段娘に対して何気なくかけている言葉が、大いに娘を傷つけているのだろうか?)
(そうだよなあ。 そう言えば昨日も娘に対して「さっさとしなさい!」「何ボーッとしてるの!」どうのこうのと責めたよなあ…。どう考えても鬼母の私は、いずれ娘に嫌われる運命にあったのか?? 娘が高校へ進学して、その時期が到来したのか!? 娘が親に向かって金属バッドを振り回し始める日も近いのか!!? それはそれで親としては自業自得だ。 娘の“鬼の征伐”を堂々と受けて立とうじゃないか!! )
元々想像力豊かな私の妄想は尽きない。
その傍らで、明日から学校が4連休に入る娘はいつもよりもさらに気分が解放されているようで、無邪気にはしゃいでいる。幼少の頃から小学校高学年までリビングに学習机を置き母子二人三脚で学習に励んできているせいか、娘は高校生になった今尚、自分の部屋よりもリビングの方を好んでいる。(それで、私の「とっとと自分の部屋へ行って勉強しろよな!!」等の堪忍袋の緒が切れた罵声が飛び交うのだが…)
今日になって改めて、娘がこの連休中に読もうとしている上記の 中島義道氏著 の「私の嫌いな…」の2冊の本の“目次”に目を通してみた。
な~~るほど。
中島義道氏著のこれらの本は、決して“否定的”でも“退廃的”でもなく、むしろ私が今までの人生において培ってきている思想とほぼ一致しているのではないか、ということに気付かされたのである。
その中島氏著による2冊の本の“目次”をここで紹介してみよう。
まずは、「私の嫌いな10の言葉」から。
「相手の気持ちを考えろよ!」 「ひとりで生きているんじゃないからな!」
「おまえのためを思って言っているんだぞ!」 「もっと素直になれよ!」
「一度頭を下げれば済むことじゃないか!」 「謝れよ!」
「弁解するな!」 「胸に手を当てて考えてみろ!」
「みんなが厭な気分になるじゃないか!」 「自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!」
ここで私論になるが、まさに“なるほど!なるほど!”でガッテンである。
これらの言葉とは、“単純馬鹿”なくせにどういう訳か人の上に立ってしまっている人物(例:学校の熱血教師等)から、日常的によく発せられる言葉である。
私など、幼少の頃からこういう“アホ臭い”言葉に先天的なアレルギーがあったものだ。こういう種の、一見もっともらしいが実は周囲の微細な心情が見えていない自分本位の言葉に嫌悪感を抱きつつ、私の確固たる反骨精神が培われてきたとも言える。
次に「私の嫌いな10の人びと」の“目次”を紹介しよう。
「笑顔の絶えない人」 「常に感謝を忘れない人」
「みんなの喜ぶ顔が見たい人」 「いつも前向きに生きている人」
「自分の仕事に『誇り』を持っている人」 「『けじめ』を大切にする人」
「喧嘩が起こるとすぐ止めようとする人」 「物事をはっきり言わない人」
「『おれ、バカだから』という人」 「『わが人生には悔いはない』と思っている人」
私論であるが、いやはや、中島義道氏の「お嫌い」な人物像のご指摘は、これまた私の見解と一部を除き一致する。
(中島氏と見解が一致しない“一部”に関して先に述べると、「「物事をはっきり言わない人」と「『わが人生において悔いはない』と思っている人」である。この私はその時々の諸状況に応じて、自分が結果として損を被ることは承知の上で、あえて物事をはっきり言わない場面はよくある。そして私は至って未熟ながらも「悔いのない」人生を刻み続けるべく、あくまでも私なりではあるが日々努力しているつもりでもある。)
その上でこの私も、日本の“いわゆる”良識において“善人”であるとされているような、中島氏が羅列されている人物像が実は大の苦手である。いい年をしてこのような人物像を目指そうとする人々の、やはり“単純馬鹿”さ加減には申し訳ないが私はちょっとついて行けない気がするし、“あまのじゃく”を自負する私自身がそういう通り一遍の善人のような人生を、微塵も歩みたくないと思いつつ日々を送っている。
(これら2冊の本の著者でいらっしゃる中島義道氏には、“目次”に目を通したのみでこのような勝手な論評をさせて頂きましたことを、ここでお詫び申し上げます。 貴著を娘が読ませていただいた後に、私も拝読したく存じております。)
幼少の頃より母(私のことだが)の影響を大きく受けて育ってきている我が娘は、実は本屋の店頭でこの本の“目次”を一覧して私同様に中島氏に同感して、この2冊を読みたいと欲したのだろうか?
そういうことはまだ詮索せずに、娘が読み終わった後で軽く感想などを聞くことを、親としては今は楽しみにしていようかな。