原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

放任と過保護の狭間で…

2009年05月23日 | 教育・学校
 自分を棚に上げて言うが、近頃の親は子どもとのかかわりの様々な場面において、放任か過保護かの両極端な対応をしている感が否めない。


 先日、ある旧友と久々に会ったのだが、大学へ入学させるために上京させた子どもが1年足らずで勝手に大学を退学してしまったのだと言う。そして退学後も東京に残り、そのままフリーターをしながら東京で遊んで暮らし続けたいという本人の意向であるらしい。 その子どもに対し、東京での家賃と携帯料金は今尚親が負担し続けていると言うのだ。
 この話、“放任”要素と“過保護”要素が入り乱れているのであるが、子を持つ同じ親としてこの状態を放置しておいてよいのか、どう考えても合点がいかない内容である。


 そこで私は、話の要素の一つひとつを整理しつつ旧友に確認した。

 まず、子どもが大学を中退することに関して正当な理由があったのか、という点だ。
 これについては、そもそも大学入学時点で学業に関するポリシーは何らなく、単に本人が東京で暮らしたい気持ちのみで受験し入学したとのことである。この家庭の場合その子どもが家を出てくれた方が好都合だという、一種深刻な特殊事情を抱えている。(この特殊事情に関してはプライバシー上の問題があるため記述を避けるが、この私もある程度納得できる話ではある。)そのため、親としてもその子が学業にはポリシーがないことを承知の上で上京させ大学に入学させているため、中退に関してはある程度想定内だったそうだ。
 それはそうとして、家庭内の特殊事情があることはこの私も了解しつつも、フリーターをしながら遊んで暮らしたいと言う子どもの家賃や携帯料金を親が負担している現状は、いくら何でも過保護である。 友人が言うには、もちろん本人には定職に就くように勧めていて本人も様々な就職試験にチャレンジしているらしい。晴れて定職に就いた暁にはそれらの援助は全面的に切るのだと言う。 ただこの厳しい不況の真っ只中にあって、大学中退者の就業は困難を極めることであろう。子どものフリーター生活が長引いた場合、一体いつまで援助を続けるつもりなのだろうか? 援助が出来る経済力がある家庭だからこういう事が可能なのだろうが、今後大学へ進学させる子を持つ親である私としてはやはり解せない話である。

 この友人との付き合いは長いのだが、何分遠距離であるため日頃頻繁に顔を合わせることはなく、連絡はほとんど電話かメールによる関係である。 そのため、この友人が今までどのようなポリシーで子育てに臨んできているのか、また普段子どもとどのようにかかわってきているのかの詳細については私は把握できていない。それ故に、一友人の立場として意見できる範囲も限られてしまう。


 そんな中、唯一救われる要素は、その友人の子ども本人の“したたかさ”である。
 今回友人の子どもにも私は会ったのだが、私の目から見て、その子は既に親をはるかに超える強さと、都会を生き抜くために欠かせない“ある種のセンス”をわずか1年にして培ってきている様子だ。 自分の人生にとってさほど重要性がないと判断した大学を自らの意思でとっとと切り捨てて、フリーターをしながら大都会東京をエンジョイしつつ“したたかに”生き伸びる覚悟が、この子には確かに出来ていると私は見た。
 ウン十年前に故郷を後にして単身で上京した私とその姿がダブり、その子に我が青春時代の“都会で一人生き抜く決意”のノスタルジーを見る思いであった。


 たかだか大学を出ただけで就職などあるのか、その先々生き延びられるのかは闇の世の中である。大学に在籍し続けているからと言って、卒業できたからと言ってその学歴に頼っても、何の保証もない今の時代の厳しい現実である。
 言い換えれば、親としては我が子を無事大学卒業させたから、定職をつけさせたから親の責任を果たせたなどという、取るに足りない自己満足に浸っている場合ではない時代でもある。

 子どもとは、愚かな親どもの“放任”や“過保護”の狭間でそれぞれの人格を育んでいく動物なのであろう。
 結局は、親とは子どもを前にして空回りばかりしている無力な存在であることを実感する私である。

 それを承知の上で、子どもとかかわりいつまでもその成長を見届けたいこの私は、今後共我が子に対して“放任”と“過保護”を繰り返し続けるのだろうなあ。
     
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