原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「逆上がり」の屈辱

2009年05月26日 | 教育・学校
 今の小学校でも、全員が必ず「逆上がり」が出来なくてはいけないなどという“意味不明な縛り”を、まだ全児童に課し続けているのであろうか?


 5月の連休中の朝日新聞の「ひととき」欄に、公園で子どもの「逆上がり」の練習に付き合っていて、「逆上がり」が出来なかったはずの母親である自分が思いがけず出来てしまい、公園で注目の的になったという、30歳代の女性からのほほえましい投書があった。

 似たような経験は私にもある。我が子が小学生の頃までは子どもが苦手なスポーツ種目等様々な事柄に付き合って、公園等でよく一緒に練習したものだ。
 例えば「持久走」であるが、これは私も子どもの頃は苦手だった種目である。ところが子どもと一緒に公園を走ると、以外や以外いつまででも走れるのだ。先に音(ね)を上げた子どもを休憩させて、一人で連日一体どれ位の距離を走ったことだろう。
 それから「縄跳び」である。体力には自信がないもののリズム感には自信のある私は「縄跳び」は子どもの頃から比較的得意種目だったのだが、何十年かのブランクを物ともせずやはり我が子よりも数段上手い。子どもの指導も放ったらかして、公園で一人で没頭して跳びまくったものだ。
 「ボール投げ」もやったなあ。折れそうな細腕だった小学生の頃の私は9m投げるのがせいぜいだったのに、今投げると20m程飛ばせるから不思議だ。

 
 何年か前に、テレビの対談番組で女優の桃井かおり氏も同様のことを話していた。
 昔子どもの頃できなかった「逆上がり」等のスポーツ種目が、50歳を過ぎて体が老化の一途を辿っている今、不思議と何でも出来てしまうのだと。それは単に体力や技術的な問題のみならず人間的成長がものを言っている、云々… そのような趣旨の話をしていたと記憶している。

 まさに私も同感なのである。
 人生経験を積み重ねていく中で自然と体力面や技術面の力が向上し、体の各部位の効率的な使い方というものを誰に教わる訳でもなく心得てくるように感じる。子どもの頃には訳がわからずただただやみくもに頑張っていたことが、今では力加減を心得るようになっている。
 それに加えて、人間としての“成功感”が大きくものを言うようにも私は感じる。人生における様々な分野での成功体験を通じて自信が芽生え、チャレンジする対象事象の如何にかかわらず「自分は出来るぞ!」とのごとくのエネルギーが内面から湧き出てくるのだ。このような精神力が力強い後ろ盾となって、体を突き動かしてくれるように感じることをよく経験する。


 話を冒頭の小学校の頃の「逆上がり」に戻すが、この私もなかなかクリア出来ずクラスで最後の2、3人にまで残った“「逆上がり」落ちこぼれ”児童だった。 
 あれは、我が幼き日の屈辱的な光景として今尚忘れずにいる。

 上にも書いたが、まず我が折れそうな細腕が体を支えられない。
 それ以前の問題として、昔の小学校には体育専任教師など配備されていなかったため、技術的に「逆上がり」を指導できる指導者が誰一人いないのだ。そんな環境の中で、ただただ周囲の児童が成功するのを見よう見真似で頑張るのだが、どう足を上げても成功には程遠く疲れ果てるばかりだ。
 更に極めつけは、昔の学校においては“出来の悪い子を責める”教育がまかり通っていたのだ。「皆出来るのに、何であんたは出来ないの!」との教員の罵声が「逆上がり」が出来ない児童の劣等感に追い討ちをかける。 「だったら、あんたがちゃんと教えろよ!」と今なら言い返すだろうが、当時の幼き私に教員に逆らう手立ては何もない。

 それでも、その“出来の悪い”2、3人で日が暮れるまで学校の校庭で毎日頑張った。一緒に残って元気に遊び回っている“出来る子”をお手本にしつつ、ある日、何とか「逆上がり」が出来た私であった。
 残念ながら“ひねくれ者”の私には何の達成感もなく、豆だらけで血が滲み鉛筆を持つにも痛む手と、“劣等感”を抱かされた屈辱的な「逆上がり」を、もう金輪際しなくて済むという開放感のみが我が幼な心に残った。

 昔の小学校の体育教育において、何故にたかだか鉄棒の一種目でしかない「逆上がり」ごときに、教育行政があれ程までにこだわったのかは不明である。(当時教員経験等がおありで、その教育的理念の背景をご存知の方がいらっしゃれば是非ともお教えいただきたいものである。)
 もしかしたら、東京オリンピックで男子体操チームが大活躍したことに、単に浮かれたて連動した安易な教育行政だったのだろうか??? 

 現在高校生になっている我が子も、所属小学校から「逆上がり」をクリアする事を強制されてはいなかったようだ。 恐らく現在では「逆上がり」クリアを全員強制とするがごとくの子どもの個性や多様性を無視した安直な教育理念は、教育現場から排除されていると信じたい。


 そのような教育現場における時代の進化を喜びつつ、さて明日は公園へでも行って、今度は「逆上がり」にでも挑戦してみようかな!! イエイ!
 (えっ? 原左都子の場合、今となっては骨粗しょう症対策が先決問題だろう、ですって???)  
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