原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「体罰」と「指導」の狭間

2009年05月05日 | 教育・学校
 小学2年生の男子児童の胸倉を掴んでその児童を背中から廊下の壁に押し付けた教員の行為が、「体罰」にあたるかどうかが争われた裁判において、「体罰」であると認めて損害賠償を命じた一審、二審判決をこの度最高裁は破棄し、原告側の賠償請求を棄却する逆転判決を言い渡した。

 先日、私はこのニュース報道をNHKテレビで見聞したのであるが、その見聞に基づいて“事件”の詳細をここで紹介することにしよう。
 小学2年生の男児2人(?)が、廊下を歩いていた小学5年生の女児数人にいきなり“蹴り”を入れた。そこをたまたま通りがかった教員が2年生男児を叱咤したところ、通り過ぎようとしているその教員の背後から男児の一人が“蹴り”を入れた。教員はその児童の胸倉を掴み廊下の壁に押し付けて大声で叱った、というのが今回の“事件”の全貌であるようだ。


 早速私論に入ろう。
 今回のニュース報道を見聞した限りにおいて当該教員の行為のみをピックアップした場合、これは明らかに「体罰」(と言うよりも)、とっさの個人的感情による「暴力」に当たるのではないかと私は判断する。
 (いい大人、しかも義務教育過程の教員として採用されているべく人物が、いかなる理由があれ何故に幼少の児童の胸倉をとっさに摑まねばならぬのか…)


 この最高裁判決に関しては、世に様々な見解が交錯している模様だ。

 例えば、生徒と教員の間に信頼関係があったならばこれは「体罰」ではなく「指導」として容認される、という見解もある。

 あるいは、この男子児童の親こそが非難されるべきであり、子どもが教員に“蹴り”を入れたことを保護者が当該教員に対して謝らせるべきだった、との見解もある。

 法廷において判決を導くためには、法律に準拠して議論がなされるべきである。その法的手続きと、事件に関する世間の民意との間にはそもそも埋められない“溝”が存在する。
 一応法律を学問としてたしなんできている私は今回の民意に添えず申し訳ないが、この記事においてはその辺の議論は避けて通らせていただくことにする。


 ガラリと話を変えて、私自身の幼少の頃の「体罰」体験を綴ることにしよう。

 私は学校では一応真面目な児童生徒だったためか(??)、教員からの“精神的嫌がらせ”らしき行為を被った経験は何度かあるものの、「体罰」を受けた体験は皆無である。
 私自身の義務教育期間は今から遡る事ウン十年前の話なのだが、時代背景的には義務教育過程の教員の「体罰」が教育現場で容認され、正当な指導としてまかり通っていた頃である。そのような環境の中、私自身は体罰を経験せずとも、周囲の児童が教員から「体罰」を受けるのを学校現場で日々目の当たりにせざるを得ず、その残影に今尚トラウマを抱えていると言っても過言ではない。

 一方で私は家庭内において、私の記憶では2、3度、我が父親から「体罰」を受けている。これに関しては、一生忘れもしない大きな傷跡となって今尚我が心に刻み付いているのだ。
 その一つをここで紹介しよう。 私が小学2年生の時の出来事である。
 当時、女の子の間で“ひだスカート”が流行っていた。私も日々この“ひだスカート”を着用して小学校に通うのだが、潔癖症の私は子供心にこの“ひだ”にピシッと折りが入っていないと気持ちが悪いのだ。それを重々承知の母が、毎晩布団の下に敷いて「寝押し」をしてくれるのだが、ある日、共働きで忙しい母が「寝押し」を忘れた。それを翌朝、私が責めた。「こんなみっともないスカートじゃ、学校に行けない!!」
 自分が寝押しを忘れていた母は、慌ててアイロンを取り出してスカートにひだを入れてくれようとした時に、父の怒りが爆発したようだ。
 父は無言で私に近づき、思い切り私を床に投げ飛ばした。
 腰を床に打ち付けた痛みで一瞬息が止まり起き上がれず、しばらく訳が分からなかった私も、すぐさま状況を把握した。朝の皆が忙しい時間に私の我がままが過ぎたことは、すぐに幼少の私にも理解できた。
 息を整え、腰の痛みに耐え、ひたすら黙り通して“ひだのとれた”ままのスカートを履き健気に学校へ行った私の心の中には、一生消えることのないトラウマのみが残った。

 いい年をした大人が、自分のその場の激昂した感情に任せて幼い子どもにいきなり体罰を与えて自分一人が一瞬せいせいするのではなく、間髪をおいて、論理的な言葉で子どもに誤りを伝える余裕が欲しかったものだ…。 それが理解できない娘ではないことを、我が父も既に重々承知していたはずなのに…。 その場に直面した母とて、本来ならば幼少の私をかばいつつ、我が子の直前で父が犯した過ちを訂正させるのが片方の親としての役割だったはずだ。それが出来なかった母に対しても、その軟弱ぶりを私は心の片隅で未だに根に持っている。

 以上のように、自己の幼き日の経験に基づくトラウマを今尚抱えているという理由もあって、「体罰」(イコール「暴力」)にはあくまでも否定の立場を貫き通したい私である。
 

 5月4日付「徳島新聞」の社説に“「体罰」最高裁判決 容認とみるのは早計だ”と題する、私論とほぼ一致する見解を先程ネットで発見した。
 その「徳島新聞」の社説の要約を紹介して、私論の結論としよう。

 いじめや暴力行為、学級崩壊といった児童生徒の問題行為が深刻化する中、批判を恐れて厳しい指導が難しくなっている学校現場の実情に、今回の最高裁判決は一定の配慮を示したとみる専門家は少なくない。
 だが、これで児童生徒に対する教員の体罰が、教育目的であったら許されると考えるのは早計に過ぎる。
 この判決を契機に、安易な体罰容認論が広がることのないようにしたい。
 安倍元首相の肝入りで発足した教育再生会議における見直し提言を受けて、文科省は教職員が暴力制止等の目的で「実力行使」に及ぶことを容認する判断を提示している。
 今回の最高裁判決は、こういった文科省の見解に沿ったものとみられる。
 児童生徒へ毅然とした態度を示す上で「体罰」が必要不可欠だとは思えない。体罰とは、感情的になり易い教育手法だ。子どもの心にも傷を残す。プロの教師であるならば、安易な体罰に頼ることなく子どもの「指導」ができるよう研鑽を積んで欲しい。
 教育行政も、教職員に過剰なストレスが掛からないよう支援を充実させる必要がある。 
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