常に社会情勢を見据え世の動向を把握していたいと考え、有用な情報を積極的に収集しつつ日々生きている私であるが、時流に乗り遅れてはならぬとの発想は、分野にもよるがほとんどない人間であると自己分析している。
そんな私は、 “恥ずかしながら「ワンセグ」の意味がわからない”と以下のごとく述べられている落語家の林家正蔵氏と同類であるかもしれない。
6月16日(火)朝日新聞夕刊のコラム“東京歳時記”において、林家氏が「便利な物は人を困らせる」と題して、上記のごとく「ワンセグ」の意味を知らないことについて述べておられる。
この記事によると、林家氏は時流に遅れたくはないが、その一方でちゃんと自分流も持っていたいとのことである。
その林家氏は、先だってテレビの仕事に関連した会議の中で“ワンセグ機能搭載カーナビ”の話題に直面したらしい。会議室のみんなから「へえ~」という驚きの声が上がる中、氏のみは恥ずかしながら「ワンセグ」を知らない。しかし流行に遅れると悔しい氏は、「へえ、ワンセグかあ…」とうなずいて話を合わせて何とかその場を乗り切った。 会議の後、心を許せるスタッフに「あのー、恥ずかしながらワンセグって何ですか?」と氏が聞くと、そのスタッフは目を丸くして驚きつつ「師匠、ワンセグですよ」 「ええ、何ですか?」 「師匠、携帯ワンセグですよ」 「は?」 「つまり、師匠。携帯とかでテレビが見られたり、とても便利なような物なんですけども」 「だからワンセグって何ですか?」 最後にスタッフ曰く「すいません、恥ずかしながら、私もわかりません」……
便利なものって人を困らせるんだな、とあらためて感じ入った次第の林家氏による朝日新聞の上記の記事である。
そうか、そうか。 「ワンセグ」って携帯とかでテレビが見られたりするとても便利な物なのだな。 この記事を読ませていただいて、初めて「ワンセグ」の意味を大まかに把握できた私である。
それさえ知らなかった私より、林家氏は数段上級者でいらっしゃる。
何分、携帯は基本的に“要らない主義”の私であるため、3年前までは周囲から“変わり者”と蔑まれようが持たずにやり過ごしてきたのだが、当時就いていた仕事の都合で強制的に携帯を持たされるはめになった。やむを得ず当時0円で契約できた“ジュニア携帯”を現在も愛用中である。 とにもかくにも我が愛娘との安全連絡のための携帯通話と家族間無料のCメールは外せないのだが、それ以外はEメールですら事務的野暮用以外はほとんど利用することのないまま現在に至っている。(携帯写真を時たま撮るけどね。)
要するに、私にとっては“携帯”自体が有用ではないのである。この手の分野で時流に乗り遅れたくないとの発想が一切ない私にとっては「ワンセグ」が何であれどうでもいい話のため、それに関する情報が目や耳に入りにくいのだ。
中には、そんな時代遅れの私をまるで“原始人”であるかのごとく“哀れんで”くれて、親切に説明して下さる人もいる。せっかくの好意を無にしても申し訳ないため聞く振りだけはするのだが、何分興味がないので話が右から左に抜けていく。「これで、大体わかったでしょ?」と言われても「ごめん、やっぱり興味ないわ」と答えるしかない。「絶対便利だから、次の携帯は多機能付きにした方がいい」と念を押されても「今度、買い換える時に考えるね」とごまかすしかない。
それにしても、物に対する“便利さ”の価値基準も人それぞれであることを思い知らされる。
携帯に関して言うと、携帯内に「テレビ」を装備して持ち歩くことがそれ程便利なことなのか? 携帯で「本」を読むことが便利なのか?(これに関しては、電車の中で本を読みたい場合などは役に立つかもしれない。でも、目に大きな負担がかかりそう…)。 携帯で「音楽」を聴く事に関しては音楽好きな私も多少納得できる。(だが今の時代、安全面で問題がある。昨年起きた秋葉原事件でも、携帯で音楽を聴いていて周辺状況の把握に遅れた通行人が刺されたという報道もあるようだ。)
私はパソコンに関しても未だに何の知識もないし、知識を得ようともしていないズブの素人である。 普段はメールの利用と必要情報の検索と、後はこのようにブログを綴っているのみである。 それ故にパソコンの専門用語に関しても未だにまったく受け付けない体質のままである。カタカナの専門用語を並べ立てられても、携帯同様アレルギーが起きそうである。
(現在、とてもうれしいことに当ブログへのアクセス数が急増している。それを何らかの形で私なりに有効利用したいと考え策略を練ったり、また知人よりそれに関する周辺情報を得たりもするのだが、ネット世界の不確実性や危険性も鑑みると二の足を踏んでばかりいる私でもある。)
科学技術革新が進み“便利な物”が世に氾濫する現代社会に生を受けている現代人は、幸にも不幸にもこの現実を受け入れざるを得ない現状である。
その時代を今まさに謳歌している人々(特に若者)にとっては、例えば「ワンセグ」は自分の生活上外すことのできない機能であるのかもしれない。
しかし、そうではない人間が存在する事も事実なのである。ある人物にとって“便利”である物が他者にとってはさほど“便利”ではないことは、人類の太古からの歴史や宇宙の永遠にまで思いを馳せた場合、大いにあり得るのだ。
話を大きくしても収拾がつかなくなるが、「ワンセグ」の意味を知らずとも皆と対等に共存しつつ、充実して生きられる人々が少なからず存在し得るこの世界でありたいよね。
そんな私は、 “恥ずかしながら「ワンセグ」の意味がわからない”と以下のごとく述べられている落語家の林家正蔵氏と同類であるかもしれない。
6月16日(火)朝日新聞夕刊のコラム“東京歳時記”において、林家氏が「便利な物は人を困らせる」と題して、上記のごとく「ワンセグ」の意味を知らないことについて述べておられる。
この記事によると、林家氏は時流に遅れたくはないが、その一方でちゃんと自分流も持っていたいとのことである。
その林家氏は、先だってテレビの仕事に関連した会議の中で“ワンセグ機能搭載カーナビ”の話題に直面したらしい。会議室のみんなから「へえ~」という驚きの声が上がる中、氏のみは恥ずかしながら「ワンセグ」を知らない。しかし流行に遅れると悔しい氏は、「へえ、ワンセグかあ…」とうなずいて話を合わせて何とかその場を乗り切った。 会議の後、心を許せるスタッフに「あのー、恥ずかしながらワンセグって何ですか?」と氏が聞くと、そのスタッフは目を丸くして驚きつつ「師匠、ワンセグですよ」 「ええ、何ですか?」 「師匠、携帯ワンセグですよ」 「は?」 「つまり、師匠。携帯とかでテレビが見られたり、とても便利なような物なんですけども」 「だからワンセグって何ですか?」 最後にスタッフ曰く「すいません、恥ずかしながら、私もわかりません」……
便利なものって人を困らせるんだな、とあらためて感じ入った次第の林家氏による朝日新聞の上記の記事である。
そうか、そうか。 「ワンセグ」って携帯とかでテレビが見られたりするとても便利な物なのだな。 この記事を読ませていただいて、初めて「ワンセグ」の意味を大まかに把握できた私である。
それさえ知らなかった私より、林家氏は数段上級者でいらっしゃる。
何分、携帯は基本的に“要らない主義”の私であるため、3年前までは周囲から“変わり者”と蔑まれようが持たずにやり過ごしてきたのだが、当時就いていた仕事の都合で強制的に携帯を持たされるはめになった。やむを得ず当時0円で契約できた“ジュニア携帯”を現在も愛用中である。 とにもかくにも我が愛娘との安全連絡のための携帯通話と家族間無料のCメールは外せないのだが、それ以外はEメールですら事務的野暮用以外はほとんど利用することのないまま現在に至っている。(携帯写真を時たま撮るけどね。)
要するに、私にとっては“携帯”自体が有用ではないのである。この手の分野で時流に乗り遅れたくないとの発想が一切ない私にとっては「ワンセグ」が何であれどうでもいい話のため、それに関する情報が目や耳に入りにくいのだ。
中には、そんな時代遅れの私をまるで“原始人”であるかのごとく“哀れんで”くれて、親切に説明して下さる人もいる。せっかくの好意を無にしても申し訳ないため聞く振りだけはするのだが、何分興味がないので話が右から左に抜けていく。「これで、大体わかったでしょ?」と言われても「ごめん、やっぱり興味ないわ」と答えるしかない。「絶対便利だから、次の携帯は多機能付きにした方がいい」と念を押されても「今度、買い換える時に考えるね」とごまかすしかない。
それにしても、物に対する“便利さ”の価値基準も人それぞれであることを思い知らされる。
携帯に関して言うと、携帯内に「テレビ」を装備して持ち歩くことがそれ程便利なことなのか? 携帯で「本」を読むことが便利なのか?(これに関しては、電車の中で本を読みたい場合などは役に立つかもしれない。でも、目に大きな負担がかかりそう…)。 携帯で「音楽」を聴く事に関しては音楽好きな私も多少納得できる。(だが今の時代、安全面で問題がある。昨年起きた秋葉原事件でも、携帯で音楽を聴いていて周辺状況の把握に遅れた通行人が刺されたという報道もあるようだ。)
私はパソコンに関しても未だに何の知識もないし、知識を得ようともしていないズブの素人である。 普段はメールの利用と必要情報の検索と、後はこのようにブログを綴っているのみである。 それ故にパソコンの専門用語に関しても未だにまったく受け付けない体質のままである。カタカナの専門用語を並べ立てられても、携帯同様アレルギーが起きそうである。
(現在、とてもうれしいことに当ブログへのアクセス数が急増している。それを何らかの形で私なりに有効利用したいと考え策略を練ったり、また知人よりそれに関する周辺情報を得たりもするのだが、ネット世界の不確実性や危険性も鑑みると二の足を踏んでばかりいる私でもある。)
科学技術革新が進み“便利な物”が世に氾濫する現代社会に生を受けている現代人は、幸にも不幸にもこの現実を受け入れざるを得ない現状である。
その時代を今まさに謳歌している人々(特に若者)にとっては、例えば「ワンセグ」は自分の生活上外すことのできない機能であるのかもしれない。
しかし、そうではない人間が存在する事も事実なのである。ある人物にとって“便利”である物が他者にとってはさほど“便利”ではないことは、人類の太古からの歴史や宇宙の永遠にまで思いを馳せた場合、大いにあり得るのだ。
話を大きくしても収拾がつかなくなるが、「ワンセグ」の意味を知らずとも皆と対等に共存しつつ、充実して生きられる人々が少なからず存在し得るこの世界でありたいよね。