報道によると、出生率がここのところ3年連続で増加し続け、08年の統計結果は1,37で前年より0,03ポイント上回ったとのことである。
先だって、40歳を目前にしている知人女性から、第二子を希望してもう何年にもなるのだがどうも希望通りに授からないため、不妊治療に踏み切るかどうか大いに悩んでいる最中だという話を耳にした。
この女性に限らず、私の周囲には不妊に悩む女性は今までに数多かったものだ。中には、実際に不妊治療に踏み切った女性も何人か存在した。
私の場合、子どもを持つことに関して元々さほどの思い入れはなかった。授かれば産むし、そうでなければ子どもは持たなくてもよいと考えていた。 もし子どもを持つとしても最初から一人限定の希望だった。 その結果、ラッキーにも思い通りの展開となっているため、不妊云々とは何の縁もない人生を歩んでいる。
そんな中、決して子ども好きのタイプという訳でもなさそうなのに、そして失礼ながら経済的余裕がありそうでもないのに、多額の費用を注ぎ込んで不自然な不妊治療に頼ってまでもどうしても子どもを持ちたいと言う不妊夫婦も存在する。 何故それほどまでに子どもを持つことにこだわるのか、その心理とは一体どういう本能に由来するものなのか、正直なところ理解し難い部分があるのは否めない。
朝日新聞6月2日(火)の生活面に、この不妊治療に関して、体外受精児として誕生した(させられた)子どもの立場からのある深刻な事例が取り上げられていた。
「父以外の人口受精で生まれた子」と題するこの記事においては、体外受精児として世に送り出され既に43歳になる女性の困惑と苦しみが語られていた。
その内容を要約して以下に紹介しよう。
夫以外の男性から精子の提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)により自分が出生したことを知ったのは10年前だった。父は自分が小さい頃に家を出て月に一度戻ってくる程度で、母が内職をして育ててくれたのだが、いつも家族の中に違和感を感じていた。 結婚して長男が生まれた時に皆で「誰に似ているか」という話になった時、父は何も言わず家から出ていった。 AIDにより出生したことを知った自分にとっては、父が違うということよりも、それを母が隠していたことに裏切りを感じた。 精子の提供者が誰なのか、知りたくてたまらない。そんな時、新聞で同じAIDで生まれた人が日本にもいることを知り、会って同じ思いを共有した。自助グループ会も立ち上げ、会員が増えている。(体外受精に関しては)子どもを授かることを願う夫婦の思いばかりが注目されるが、本当に人を救う医療なのか?(との疑念を抱く)。
では、私論に入ろう。
子どもを産む決断をする場合、生まれてくる子どもの幸せと人権にこそ思いを馳せるべきであるのに、人はとかく親となる自分の都合や体裁や、自分自身の幸せばかりを優先しがちであるようだ。
上記のAIDに関して言うと、他人の精子の提供を受けてまで、そこまでして片親が血縁ではない子どもを設けるなどというとんでもない“冒険”を企てるのは何故なのか? 子どもを神から授かる事が出来ない夫婦の、一時の切羽詰ったとも捉えられる心理が哀れですらある。
この朝日新聞記事の事例のごとく、その一時の行動の行き着く先とは家庭崩壊の道程を辿り、子どもに一生重荷を背負わせる運命にあることが自明の理ではなかろうか。 夫婦共に類稀な強靭な意志の持ち主で、尚且つ経済力もあり、生まれてくる子どもを生涯に渡り幸せにできる自信とキャパシティが持続可能な場合にのみ、このAIDのような不妊治療に踏み切るべきであろう。
私事になるが、私が子どもを一人しか産まなかった事に関して、未だに周囲から“ご意見”を承る機会が後を絶たない。
私の場合、当初より自分のポリシーで確固たる自信を持ってそういう選択をしているためその旨伝えるのだが、「一人じゃ可哀そう…」「一人目が高齢出産だったとは言え今時40代の出産も珍しくないのだから、もう一人位産めたでしょうに」等の意味不明で“お節介”極まりない言葉を、この私にすら浴びせられる現実でもある。
何故に人間とはそれ程“子ども”にこだわるのか??
それはもしかしたら、子孫繁栄や遺伝子継承の思想が人間の本能にあるためなのか? はたまたお国の未来を本気で考えているのか? そうではなくて、単なる挨拶、社交辞令程度の会話なのか???
もしそうだとするならば、そういった(言葉を発している本人すらも“たわいない”と考えている)一言が、不妊症の夫婦を大いに傷つけている現実なのかもしれない。
そうであるとしても、やはり親(になる人間たるもの)にとって、子どもの誕生とは人生最高のビッグイベントと私は位置づける。
一時の周囲のお節介や蔑みに翻弄されることなく、元より、真に夫婦にとっての子どもの存在価値を考慮し、生まれてくる子どもの未来にまで思いを馳せ、その子の人生を保証できる行動を誕生以前より取るべきである。
親に如何なる事情があろうとも、子どもを不幸にすることは到底許されない。
この朝日新聞記事のAID女性のごとくの“犠牲者”を、先進医療の名の下に倫理観を欠いた(?)不妊治療により産出し続けることを、社会的に容認してよいのであろうか。
どうか不妊症のご夫婦の方々、生まれてくる子どもの人権と生涯に渡る幸せにまで思いを馳せつつ、不妊治療に頼ってまで子どもを産むのかどうかの究極の選択をされますように。
先だって、40歳を目前にしている知人女性から、第二子を希望してもう何年にもなるのだがどうも希望通りに授からないため、不妊治療に踏み切るかどうか大いに悩んでいる最中だという話を耳にした。
この女性に限らず、私の周囲には不妊に悩む女性は今までに数多かったものだ。中には、実際に不妊治療に踏み切った女性も何人か存在した。
私の場合、子どもを持つことに関して元々さほどの思い入れはなかった。授かれば産むし、そうでなければ子どもは持たなくてもよいと考えていた。 もし子どもを持つとしても最初から一人限定の希望だった。 その結果、ラッキーにも思い通りの展開となっているため、不妊云々とは何の縁もない人生を歩んでいる。
そんな中、決して子ども好きのタイプという訳でもなさそうなのに、そして失礼ながら経済的余裕がありそうでもないのに、多額の費用を注ぎ込んで不自然な不妊治療に頼ってまでもどうしても子どもを持ちたいと言う不妊夫婦も存在する。 何故それほどまでに子どもを持つことにこだわるのか、その心理とは一体どういう本能に由来するものなのか、正直なところ理解し難い部分があるのは否めない。
朝日新聞6月2日(火)の生活面に、この不妊治療に関して、体外受精児として誕生した(させられた)子どもの立場からのある深刻な事例が取り上げられていた。
「父以外の人口受精で生まれた子」と題するこの記事においては、体外受精児として世に送り出され既に43歳になる女性の困惑と苦しみが語られていた。
その内容を要約して以下に紹介しよう。
夫以外の男性から精子の提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)により自分が出生したことを知ったのは10年前だった。父は自分が小さい頃に家を出て月に一度戻ってくる程度で、母が内職をして育ててくれたのだが、いつも家族の中に違和感を感じていた。 結婚して長男が生まれた時に皆で「誰に似ているか」という話になった時、父は何も言わず家から出ていった。 AIDにより出生したことを知った自分にとっては、父が違うということよりも、それを母が隠していたことに裏切りを感じた。 精子の提供者が誰なのか、知りたくてたまらない。そんな時、新聞で同じAIDで生まれた人が日本にもいることを知り、会って同じ思いを共有した。自助グループ会も立ち上げ、会員が増えている。(体外受精に関しては)子どもを授かることを願う夫婦の思いばかりが注目されるが、本当に人を救う医療なのか?(との疑念を抱く)。
では、私論に入ろう。
子どもを産む決断をする場合、生まれてくる子どもの幸せと人権にこそ思いを馳せるべきであるのに、人はとかく親となる自分の都合や体裁や、自分自身の幸せばかりを優先しがちであるようだ。
上記のAIDに関して言うと、他人の精子の提供を受けてまで、そこまでして片親が血縁ではない子どもを設けるなどというとんでもない“冒険”を企てるのは何故なのか? 子どもを神から授かる事が出来ない夫婦の、一時の切羽詰ったとも捉えられる心理が哀れですらある。
この朝日新聞記事の事例のごとく、その一時の行動の行き着く先とは家庭崩壊の道程を辿り、子どもに一生重荷を背負わせる運命にあることが自明の理ではなかろうか。 夫婦共に類稀な強靭な意志の持ち主で、尚且つ経済力もあり、生まれてくる子どもを生涯に渡り幸せにできる自信とキャパシティが持続可能な場合にのみ、このAIDのような不妊治療に踏み切るべきであろう。
私事になるが、私が子どもを一人しか産まなかった事に関して、未だに周囲から“ご意見”を承る機会が後を絶たない。
私の場合、当初より自分のポリシーで確固たる自信を持ってそういう選択をしているためその旨伝えるのだが、「一人じゃ可哀そう…」「一人目が高齢出産だったとは言え今時40代の出産も珍しくないのだから、もう一人位産めたでしょうに」等の意味不明で“お節介”極まりない言葉を、この私にすら浴びせられる現実でもある。
何故に人間とはそれ程“子ども”にこだわるのか??
それはもしかしたら、子孫繁栄や遺伝子継承の思想が人間の本能にあるためなのか? はたまたお国の未来を本気で考えているのか? そうではなくて、単なる挨拶、社交辞令程度の会話なのか???
もしそうだとするならば、そういった(言葉を発している本人すらも“たわいない”と考えている)一言が、不妊症の夫婦を大いに傷つけている現実なのかもしれない。
そうであるとしても、やはり親(になる人間たるもの)にとって、子どもの誕生とは人生最高のビッグイベントと私は位置づける。
一時の周囲のお節介や蔑みに翻弄されることなく、元より、真に夫婦にとっての子どもの存在価値を考慮し、生まれてくる子どもの未来にまで思いを馳せ、その子の人生を保証できる行動を誕生以前より取るべきである。
親に如何なる事情があろうとも、子どもを不幸にすることは到底許されない。
この朝日新聞記事のAID女性のごとくの“犠牲者”を、先進医療の名の下に倫理観を欠いた(?)不妊治療により産出し続けることを、社会的に容認してよいのであろうか。
どうか不妊症のご夫婦の方々、生まれてくる子どもの人権と生涯に渡る幸せにまで思いを馳せつつ、不妊治療に頼ってまで子どもを産むのかどうかの究極の選択をされますように。