民主党政権の菅首相は、1月4日の年頭記者会見で「小沢切り」を宣言したのに引き続き、5日には官房長官である仙石氏を交代させる検討に入ったことを表明した。
事の詳細を朝日新聞1月6日朝刊一面トップ記事より要約して、以下に記述しよう。
菅首相は「通常国会開催までに、最も力が発揮できるような党と内閣の体制を整備したい」と明言し、野党側を審議に呼び込む考えを示した。 菅氏は13日の定期党大会で政権の方針等を説明する考えで、翌14日から18日頃までの間に内閣改造を行う事を想定している。 ねじれ国会で参院において野党が多数を占めている中、国会冒頭から野党側に審議拒否の口実を与えない事を狙っている。 内閣改造に踏み込む場合、参院で問責を受けた馬渕国交省大臣を交代させる考えであると共に、小沢氏の離党勧告を念頭に、党常任幹事会メンバーを執行部よりの議員に差し替える方針だ。 仙石氏については政治責任を負わせての更迭ではないことを示すため党の要職などで処遇する方向だが、政権内には仙石氏の続投を望む声もある。
この菅氏の表明を受けて仙石氏の官房長官続投を望む政権内部の声を、原左都子も7日昼のNHKニュースで見聞した。 それを語っていたのが昨夏の参院選に敗北した責任を取らされ、昨9月の菅内閣発足時点で民主党幹事長を更迭された枝野氏である。
一昨年8月の衆院選による劇的政権交代以前よりずっと民主党を一切支持して“いない”原左都子であるが、枝野氏の仙石官房長官続投要望にはとりあえず同意したい思いである。
ここで、参院議長である西岡氏が菅首相及び仙石官房長官を批判している記事を紹介しよう。(同じく朝日新聞記事より引用要約)
参院議長の西岡氏が、8日発売の「文芸春秋」に菅総理を「国家観、政治哲学を欠いたままで国を担う資格なし」、仙石氏を「放言はとどまるところを知らず、問責決議を受けたのは当然」などと批判する手記を寄せた。 手記の表題は「菅・仙石には国を任せられない」であるのだが、民主党出身議長の厳しい政権批判は異例だ。 問責決議を受けながら辞任しない仙石氏には「法的拘束力のなさを理由に平然としているのはいかがなものか」と西岡氏は述べている。
一旦、原左都子の私論に入ろう。
上記の参院議長であられる西岡氏の政権幹部二者批判は大いに的を射ていると原左都子も受け止める。
首相である菅氏に関してはまさに西岡氏の発言通り、一国の首相として何ともふがいない感覚が国民の間にも蔓延り、それ故に民主党政権は菅内閣発足後支持率を下げ続けることを強いられているであろう。
一方、仙石官房長官に対する西岡氏の批判の矛先はあくまでも仙石氏の“放言”に留まっていることにご注目願いたいのだ。
もちろん政権の要人たる者、国民に発する言動には最大限の注意を払うべきである。 過去においても、“放言”故に国の要人たる自らの地位を退かねばならなかった輩は数知れない。
原左都子の記憶によれば、かつての自民党政権の麻生首相など国会答弁において用意された原稿の漢字が読めないことで大いに国民の失笑を誘ったものだ。この事例など、そもそも一国を統制する首相たり得ないお粗末な失態であろう。
はたまた「放言」ならぬ「暴言」をを叩かれた要人は数知れない。早い話が昨年11月に法務大臣辞任に追い込まれた柳田氏など、そもそも工学部出身で何故に法務大臣になど任命されたのか不可解極まりない。
その点、官房長官の仙石氏の“放言”とはあくまでも“放言”の域を超えていないのではなかろうかと弁護する原左都子なのである。
確かに仙石氏の公的場面での“放言”は多岐に渡っているのだが、仙石氏擁護意見も交えつつ原左都子の私論を以下に展開することにしよう。
昨年11月には沖縄尖閣諸島の「盗撮」がインターネットに流出した問題に触れて、仙石氏が「盗撮」と表現した事に対して撤回と謝罪を求められたのに応えて、「 時代とともに撮影のあり方も考え直す必要がある」と述べ、氏は取材の規制強化に言及した。
さらにその後の記者会見において国交省大臣である馬淵氏に関して「政治職と執行職のトップの責任のあり方は違う」と述べたことに関して野党側から政治職の側がきちんと責任を担う必要があるとの批判を受けた仙石氏である。
仙石氏の「自衛隊は暴力装置」発言 に関しては、“左”を売り物にしている原左都子にとっても確かにインパクトがあった。 この発言に対し自民党の抗議を受け、仙石氏は「実力組織と言い換える。自衛隊の皆さんには謝罪する」と発言を撤回・謝罪したが、身内である北沢防衛相の遺憾の声をはじめとして自衛官からも失望の声が上がり、仙石氏に対する「特異な言葉がとっさに飛び出す背景には、かつて学生運動に身を投じた氏独特の思想・信条がある」とのメディアからの反論も受けた。
その中、自民党の石破茂氏は「暴力装置」という用語を使用して仙石氏が警察や軍隊などを説明したからと言って、必ずしも独特の思想・信条あるいは「左翼」などに直結していると断じられないと言えるとの見解を発したのであるが、この種の野党からの仙石氏発言に対する擁護意見も存在するのだ。
その他、仙石氏の“放言”とは、憲法解釈にからむ発言が多いのが特徴であろうと原左都子は捉える。
国政において与野党の憲法解釈は分かれ、右派、左派、中立派、その他諸々多岐に及ぶことであろうが、これぞ今後の国会で議論されるべき核心の課題ではないのだろうか。
憲法解釈に関して、元弁護士でもある官房長官の仙石氏が専門家の立場から何某かの言及をしてもいいはずなのだ。
もちろん国政を担う政治家たる者に“暴言”は決して許されるべきではなく、“放言”も慎んだ方が得策ではあろう。
ただ、政治家が公の場でそれぞれの専門分野に関して発したすべての言及を野党(及び力無き身内)が叩いていたのでは、今後の国政の発展は望めないのではあるまいか。
現在の菅首相のごとく一国の総理の立場で「国家観、政治哲学を欠いたまま」首相を続行したのでは、一国民として到底受け入れ難いが、一方で私は官房長官仙石氏の今尚“熱い”とも言える法的政治哲学にある程度同意できる思いなのである。
これは決して、原左都子が仙石氏と“同郷のよしみ”故にひいき目に見て発している論評ではない。
法的専門力を確固としたバックグラウンドとして持ちつつ、政権において官房長官の立場でリーダーシップ力を発揮しようとしている仙石氏に対して日頃感じている原左都子の論理なのですが、皆さん如何思われますか?
事の詳細を朝日新聞1月6日朝刊一面トップ記事より要約して、以下に記述しよう。
菅首相は「通常国会開催までに、最も力が発揮できるような党と内閣の体制を整備したい」と明言し、野党側を審議に呼び込む考えを示した。 菅氏は13日の定期党大会で政権の方針等を説明する考えで、翌14日から18日頃までの間に内閣改造を行う事を想定している。 ねじれ国会で参院において野党が多数を占めている中、国会冒頭から野党側に審議拒否の口実を与えない事を狙っている。 内閣改造に踏み込む場合、参院で問責を受けた馬渕国交省大臣を交代させる考えであると共に、小沢氏の離党勧告を念頭に、党常任幹事会メンバーを執行部よりの議員に差し替える方針だ。 仙石氏については政治責任を負わせての更迭ではないことを示すため党の要職などで処遇する方向だが、政権内には仙石氏の続投を望む声もある。
この菅氏の表明を受けて仙石氏の官房長官続投を望む政権内部の声を、原左都子も7日昼のNHKニュースで見聞した。 それを語っていたのが昨夏の参院選に敗北した責任を取らされ、昨9月の菅内閣発足時点で民主党幹事長を更迭された枝野氏である。
一昨年8月の衆院選による劇的政権交代以前よりずっと民主党を一切支持して“いない”原左都子であるが、枝野氏の仙石官房長官続投要望にはとりあえず同意したい思いである。
ここで、参院議長である西岡氏が菅首相及び仙石官房長官を批判している記事を紹介しよう。(同じく朝日新聞記事より引用要約)
参院議長の西岡氏が、8日発売の「文芸春秋」に菅総理を「国家観、政治哲学を欠いたままで国を担う資格なし」、仙石氏を「放言はとどまるところを知らず、問責決議を受けたのは当然」などと批判する手記を寄せた。 手記の表題は「菅・仙石には国を任せられない」であるのだが、民主党出身議長の厳しい政権批判は異例だ。 問責決議を受けながら辞任しない仙石氏には「法的拘束力のなさを理由に平然としているのはいかがなものか」と西岡氏は述べている。
一旦、原左都子の私論に入ろう。
上記の参院議長であられる西岡氏の政権幹部二者批判は大いに的を射ていると原左都子も受け止める。
首相である菅氏に関してはまさに西岡氏の発言通り、一国の首相として何ともふがいない感覚が国民の間にも蔓延り、それ故に民主党政権は菅内閣発足後支持率を下げ続けることを強いられているであろう。
一方、仙石官房長官に対する西岡氏の批判の矛先はあくまでも仙石氏の“放言”に留まっていることにご注目願いたいのだ。
もちろん政権の要人たる者、国民に発する言動には最大限の注意を払うべきである。 過去においても、“放言”故に国の要人たる自らの地位を退かねばならなかった輩は数知れない。
原左都子の記憶によれば、かつての自民党政権の麻生首相など国会答弁において用意された原稿の漢字が読めないことで大いに国民の失笑を誘ったものだ。この事例など、そもそも一国を統制する首相たり得ないお粗末な失態であろう。
はたまた「放言」ならぬ「暴言」をを叩かれた要人は数知れない。早い話が昨年11月に法務大臣辞任に追い込まれた柳田氏など、そもそも工学部出身で何故に法務大臣になど任命されたのか不可解極まりない。
その点、官房長官の仙石氏の“放言”とはあくまでも“放言”の域を超えていないのではなかろうかと弁護する原左都子なのである。
確かに仙石氏の公的場面での“放言”は多岐に渡っているのだが、仙石氏擁護意見も交えつつ原左都子の私論を以下に展開することにしよう。
昨年11月には沖縄尖閣諸島の「盗撮」がインターネットに流出した問題に触れて、仙石氏が「盗撮」と表現した事に対して撤回と謝罪を求められたのに応えて、「 時代とともに撮影のあり方も考え直す必要がある」と述べ、氏は取材の規制強化に言及した。
さらにその後の記者会見において国交省大臣である馬淵氏に関して「政治職と執行職のトップの責任のあり方は違う」と述べたことに関して野党側から政治職の側がきちんと責任を担う必要があるとの批判を受けた仙石氏である。
仙石氏の「自衛隊は暴力装置」発言 に関しては、“左”を売り物にしている原左都子にとっても確かにインパクトがあった。 この発言に対し自民党の抗議を受け、仙石氏は「実力組織と言い換える。自衛隊の皆さんには謝罪する」と発言を撤回・謝罪したが、身内である北沢防衛相の遺憾の声をはじめとして自衛官からも失望の声が上がり、仙石氏に対する「特異な言葉がとっさに飛び出す背景には、かつて学生運動に身を投じた氏独特の思想・信条がある」とのメディアからの反論も受けた。
その中、自民党の石破茂氏は「暴力装置」という用語を使用して仙石氏が警察や軍隊などを説明したからと言って、必ずしも独特の思想・信条あるいは「左翼」などに直結していると断じられないと言えるとの見解を発したのであるが、この種の野党からの仙石氏発言に対する擁護意見も存在するのだ。
その他、仙石氏の“放言”とは、憲法解釈にからむ発言が多いのが特徴であろうと原左都子は捉える。
国政において与野党の憲法解釈は分かれ、右派、左派、中立派、その他諸々多岐に及ぶことであろうが、これぞ今後の国会で議論されるべき核心の課題ではないのだろうか。
憲法解釈に関して、元弁護士でもある官房長官の仙石氏が専門家の立場から何某かの言及をしてもいいはずなのだ。
もちろん国政を担う政治家たる者に“暴言”は決して許されるべきではなく、“放言”も慎んだ方が得策ではあろう。
ただ、政治家が公の場でそれぞれの専門分野に関して発したすべての言及を野党(及び力無き身内)が叩いていたのでは、今後の国政の発展は望めないのではあるまいか。
現在の菅首相のごとく一国の総理の立場で「国家観、政治哲学を欠いたまま」首相を続行したのでは、一国民として到底受け入れ難いが、一方で私は官房長官仙石氏の今尚“熱い”とも言える法的政治哲学にある程度同意できる思いなのである。
これは決して、原左都子が仙石氏と“同郷のよしみ”故にひいき目に見て発している論評ではない。
法的専門力を確固としたバックグラウンドとして持ちつつ、政権において官房長官の立場でリーダーシップ力を発揮しようとしている仙石氏に対して日頃感じている原左都子の論理なのですが、皆さん如何思われますか?