いえ、決して原左都子の人生が辛く悲しくて日々泣いて暮らしている訳ではありません。
それにしても、実際泣かない日は皆無であると言える我が人生なのだ。
何故に私が毎日泣いて暮らしているのかというと、それは感激派で「涙もろい」せいである。
そんな私は、朝日新聞1月22日別刷“between”の今回のテーマ 「最近泣いたことある?」 を一見して、 (えっ?、人って毎日涙流すのが当たり前じゃないの?) との意外な感覚を抱いたものである。
この朝日新聞読者アンケート記事“between”の今回の回答は、「はい」が77%、「いいえ」が23% との結果である。
最近泣いた人の中では、その回数が1回~2、3回が過半数であり、私のように毎日泣いて暮らしている人種はやはり少数派であるようだ。
そして、泣いた理由としては原左都子同様に「感動した」との回答が最多であり、次点には「悲しい」が位置し、3位が「感情移入した」、4位が「悔しい」、5位「うれしい」、以下「怒った」「痛い」と続く。
私事になるが、原左都子の場合「悲しく」て泣く事は今となっては皆無である。 と言うよりも「悲しい」との感情を抱かない精神構造を自ら創り上げてきたとも分析できよう。 「悲しい」という感情とは一種受身の心理状態であるように感じるのだが、精神面において受身発想を排除したい意識が強い人間であるのかもしれない。
身内が亡くなった時など通常は「悲しく」て泣くのであろう。 確かに私も身内や近親者の葬儀の時には涙を流すのだが、これが純粋に「悲しい」感情から来ている涙なのかと考察してみるに、もっとより複雑な涙のように感じるのだ。 単に悲しいのみならず、故人との生前の出来事を思い起こした感慨深さや、あるいは“死”という現象に対する未知の不思議さに対する摑みどころのない感情等々が入り乱れた涙であると分析する。
次に「怒る」事とは人間の成長にとってプラスの感情であると捉えつつ、ご覧のように「原左都子エッセイ集」においていつも世の不条理や理不尽さに対する「怒り」の感情をメッセージに転化している私である。
「怒り」の発散手段を見出している私は、今となっては「怒って」泣くこともほとんど無いと言える。
一方、「悔しく」て泣く事は多い。 「感動」や「感情移入」以外のマイナー感情で私が涙するのは、ほとんどがこの「悔しい」時である。
これが多発するのが夜中に見る“夢”の中に於いてなのだ。 どういう訳か若かりし頃より今に至るまで「悔しい」夢がよく出現する私なのであるが、当の昔に過ぎ去った出来事が夢の中でフラッシュバックして、未だに「悔しさ」に悶えつつ布団の中で泣きじゃくることが多い原左都子である…。
この読者アンケート記事である“between”では 「大人が人前で泣くのは恥ずかしいこと?」とのアンケート結果も同時に掲載している。
「はい」回答が34%、「いいえ」回答が66%と、以外や以外、人前で泣く事を容認する派が多数を占めている。
いくら涙もろい原左都子とは言えども、大の大人が人前で涙することは避けるべきと判断している。 そのため、私が涙を流すのは専ら家庭内においてである。 では身内なら甘えていいのか?に関しても意見は分かれるであろうが、「感動」や「感情移入」の涙に関しては「甘えてよい」との結論を導いている身勝手な私である。 (反面、「悲しい」や「怒った」等の理由による涙は、たとえ身内と言えども決して見せてはならないと肝に銘じている私である。)
そのため、我が娘など私が「感動」したり「感情移入」して泣く姿を幼き頃よりずっと見て育っている。 (参考のため、我が娘は産まれ持った事情によりややその種の“心のひだ”が育ちにくいのかと思われるふしもあったのだが、幼き頃より親である私が感激して泣く姿をみて、間接的に「感動」の意味を感じ取りつつ自分の感性を育てているようにも考察できるのである。)
原左都子が“涙もろい”ことに関しては、「原左都子エッセイ集」バリバリ開設当初の2007年9月9日のバックナンバー 「涙もろさと感性との相関関係」 においても述べている。
その記事においては、“涙もろい”こと イコール 感性が豊かであるとも言えないのではないかとの私論を展開しているのだが、今読み返してみると自分ながら興味深いものがあるのだ。 その内容を以下に少し紹介することにしよう。
<< ところで、原左都子の涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らくホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず醜態をさらすこととなる。
数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで涙などとはまったく無縁の場であるのに、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。 私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今思い返してみても何ともみっともない限りの醜態である。
さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常涙もろい人は感受性が強く感性が豊かであることには間違いはないと思われる。ところが私の場合、プレ更年期以降は例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。 別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。 >>
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部引用)
上記朝日新聞“between”の記事内には、その道の専門家と称する大学教授によるコメントも掲載されている。 「泣く事はストレスに対する一種の防御機能であるため、泣く事によりストレスが緩和される。 … 涙は我慢するとストレスになるため、他人の迷惑にならないなら大いに泣きましょう。」
片や、泣く事に対して批判的な読者からは、 「幼い時に母から人前で泣いてはいけないと厳しくしつけられた」 「時には歯を食いしばって我慢することも必要」 そして「メディアのわざと泣かせる演出が嫌い。感動を強要されている気がする」等々の意見もあるようだ。
「幼い頃に泣く事を制御された」ご意見に関しては、原左都子も幼き頃、父親から同様の身勝手な仕打ちを受けた人間である。 その種の抑制が及ぼす子供の健全な精神発達の阻害の反省から、私は決して我が子に同じ過ちを繰り返してはいない。
「“メディア”の泣かせることの演出」に関しては重々それを認識しつつも、その演出力が合格点をクリアしている場合は、泣いて(あげる)原左都子でもある。 どうしてもその演出がアホらしい場合は、失笑を誘われるだけで泣けもしないというものである。
まあ、皆さん、場をわきまえつつも、泣きたい時には大いに泣こうではありませんか!!
それにしても、実際泣かない日は皆無であると言える我が人生なのだ。
何故に私が毎日泣いて暮らしているのかというと、それは感激派で「涙もろい」せいである。
そんな私は、朝日新聞1月22日別刷“between”の今回のテーマ 「最近泣いたことある?」 を一見して、 (えっ?、人って毎日涙流すのが当たり前じゃないの?) との意外な感覚を抱いたものである。
この朝日新聞読者アンケート記事“between”の今回の回答は、「はい」が77%、「いいえ」が23% との結果である。
最近泣いた人の中では、その回数が1回~2、3回が過半数であり、私のように毎日泣いて暮らしている人種はやはり少数派であるようだ。
そして、泣いた理由としては原左都子同様に「感動した」との回答が最多であり、次点には「悲しい」が位置し、3位が「感情移入した」、4位が「悔しい」、5位「うれしい」、以下「怒った」「痛い」と続く。
私事になるが、原左都子の場合「悲しく」て泣く事は今となっては皆無である。 と言うよりも「悲しい」との感情を抱かない精神構造を自ら創り上げてきたとも分析できよう。 「悲しい」という感情とは一種受身の心理状態であるように感じるのだが、精神面において受身発想を排除したい意識が強い人間であるのかもしれない。
身内が亡くなった時など通常は「悲しく」て泣くのであろう。 確かに私も身内や近親者の葬儀の時には涙を流すのだが、これが純粋に「悲しい」感情から来ている涙なのかと考察してみるに、もっとより複雑な涙のように感じるのだ。 単に悲しいのみならず、故人との生前の出来事を思い起こした感慨深さや、あるいは“死”という現象に対する未知の不思議さに対する摑みどころのない感情等々が入り乱れた涙であると分析する。
次に「怒る」事とは人間の成長にとってプラスの感情であると捉えつつ、ご覧のように「原左都子エッセイ集」においていつも世の不条理や理不尽さに対する「怒り」の感情をメッセージに転化している私である。
「怒り」の発散手段を見出している私は、今となっては「怒って」泣くこともほとんど無いと言える。
一方、「悔しく」て泣く事は多い。 「感動」や「感情移入」以外のマイナー感情で私が涙するのは、ほとんどがこの「悔しい」時である。
これが多発するのが夜中に見る“夢”の中に於いてなのだ。 どういう訳か若かりし頃より今に至るまで「悔しい」夢がよく出現する私なのであるが、当の昔に過ぎ去った出来事が夢の中でフラッシュバックして、未だに「悔しさ」に悶えつつ布団の中で泣きじゃくることが多い原左都子である…。
この読者アンケート記事である“between”では 「大人が人前で泣くのは恥ずかしいこと?」とのアンケート結果も同時に掲載している。
「はい」回答が34%、「いいえ」回答が66%と、以外や以外、人前で泣く事を容認する派が多数を占めている。
いくら涙もろい原左都子とは言えども、大の大人が人前で涙することは避けるべきと判断している。 そのため、私が涙を流すのは専ら家庭内においてである。 では身内なら甘えていいのか?に関しても意見は分かれるであろうが、「感動」や「感情移入」の涙に関しては「甘えてよい」との結論を導いている身勝手な私である。 (反面、「悲しい」や「怒った」等の理由による涙は、たとえ身内と言えども決して見せてはならないと肝に銘じている私である。)
そのため、我が娘など私が「感動」したり「感情移入」して泣く姿を幼き頃よりずっと見て育っている。 (参考のため、我が娘は産まれ持った事情によりややその種の“心のひだ”が育ちにくいのかと思われるふしもあったのだが、幼き頃より親である私が感激して泣く姿をみて、間接的に「感動」の意味を感じ取りつつ自分の感性を育てているようにも考察できるのである。)
原左都子が“涙もろい”ことに関しては、「原左都子エッセイ集」バリバリ開設当初の2007年9月9日のバックナンバー 「涙もろさと感性との相関関係」 においても述べている。
その記事においては、“涙もろい”こと イコール 感性が豊かであるとも言えないのではないかとの私論を展開しているのだが、今読み返してみると自分ながら興味深いものがあるのだ。 その内容を以下に少し紹介することにしよう。
<< ところで、原左都子の涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。恐らくホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう。とは重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず醜態をさらすこととなる。
数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。研究成果の発表、ディスカッションという科学的な会合でのスピーチで涙などとはまったく無縁の場であるのに、とんだ場違いで穴があったら入りたい心境であった。 私の涙で会場全体がワークショップらしからぬ異様な雰囲気になってしまい、スピーチの最後を締めくくる学会長も話す言葉に困惑しておられた。私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあり、それがスピーチ時に涙となって漏出してしまったと分析しているのではあるが、今思い返してみても何ともみっともない限りの醜態である。
さてここで、この“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。通常涙もろい人は感受性が強く感性が豊かであることには間違いはないと思われる。ところが私の場合、プレ更年期以降は例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックしたりして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。 別の観点から考えると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。 >>
(以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部引用)
上記朝日新聞“between”の記事内には、その道の専門家と称する大学教授によるコメントも掲載されている。 「泣く事はストレスに対する一種の防御機能であるため、泣く事によりストレスが緩和される。 … 涙は我慢するとストレスになるため、他人の迷惑にならないなら大いに泣きましょう。」
片や、泣く事に対して批判的な読者からは、 「幼い時に母から人前で泣いてはいけないと厳しくしつけられた」 「時には歯を食いしばって我慢することも必要」 そして「メディアのわざと泣かせる演出が嫌い。感動を強要されている気がする」等々の意見もあるようだ。
「幼い頃に泣く事を制御された」ご意見に関しては、原左都子も幼き頃、父親から同様の身勝手な仕打ちを受けた人間である。 その種の抑制が及ぼす子供の健全な精神発達の阻害の反省から、私は決して我が子に同じ過ちを繰り返してはいない。
「“メディア”の泣かせることの演出」に関しては重々それを認識しつつも、その演出力が合格点をクリアしている場合は、泣いて(あげる)原左都子でもある。 どうしてもその演出がアホらしい場合は、失笑を誘われるだけで泣けもしないというものである。
まあ、皆さん、場をわきまえつつも、泣きたい時には大いに泣こうではありませんか!!