原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人は“プライド”を守るためにクレームを発するのか??

2011年10月15日 | 自己実現
 無宗教の原左都子としては、宗教色が強い見解に対して異議反論を述べることを控えるべきと常々考えている。
 そう心得てはいるのだが、先だって朝日新聞記事の中に宗教家による“どうしても捨て置けない”論評を発見してしまったため、今回は例外的にその論評に対する異議反論を述べさせていただくことにする。


 早速上記記事を紹介しよう。
 朝日新聞10月13日夕刊のコラム“小池龍之介の心を保つお稽古”とのコーナーにおいて 「プライドは価値を示したい煩悩」 と題するエッセイが掲載されていた。
 参考のため、著者である小池氏の肩書は“月読寺・正現寺住職”と記されている。
 
 このエッセイの題目に興味を持った私は、人間のプライドについて分析した前半部分に関してはほぼ同意しつつ読み進めていた。

 それではまず、小池氏によるエッセイの前半部分を以下に要約して紹介しよう。
 今回は、プライドという煩悩から心を守るお稽古をしてみよう。 人間のプライドが傷つくきっかけとはほんのささいなものである。 例えば、恋愛・夫婦関係で何かをするとき誘うのはいつも自分となると、愛されているのか不安になる。その背後ではプライドが傷ついている。 この例においては相手から誘ってもらえると自分の価値(魅力)が強いのだと実感できるからこそ、そうでない現実に心が乱れる。 自分の力を示したい、というプライドの煩悩が強すぎるほど、私たちはちょっとしたことで傷つき怒るハメになる。

 一旦私論に入ろう。 
 私の場合、海千山千人生を歩む中で、人に誘ってもらえたからうれしいだのどうだのとの感受性を既に失いつつある。 そのためか、上記のごとくの恋愛関連事例を持ち出して人間の“プライド”を分析する事自体にピンと来ない、と言うのが正直なところではある。 ただ、この私にも過去において小池氏がおっしゃるような恋愛時代があったことは確かなため、“プライド”とはその種のちょっとした事で傷つけられ怒るハメになるとの氏のご見解には同意する。

 さて、問題は後半部分だ。
 何故か小池氏の後半部分の論調が、前半部分に比して急に感情的で荒々しく変調しているのを私は直感した。
 もしかしたら新書も発刊されているらしい小池氏は読者等よりクレーム意見を寄せられる等の実質的被害を受け、それに傷ついておられるのかと察したりもする…。
 (何故ならば、この私も一般庶民の立場で綴って公開しているこの「原左都子エッセイ集」にバッシングコメントを頂戴する機会が少なくないからである。) 

 それでは、その後半部分を以下に要約して紹介しよう。
 実は、今の世に溢れるモンスターペアレンツもクレーマーも、ネット上にたくさんある匿名での悪口も、相手をボコボコに叩いて屈服させることによって「自分は価値がある」と錯覚したい“プライド”が原因と思われる。 学校や企業や有名人とは“失うものが多い”ため、ほんのちょっとした過ちでも「すみません、不手際でした」と屈服せざるを得ないのだ。 そんな卑怯な戦いを挑みたくなるほど心が惨めになる前に、自分の価値をつり上げたくてしょうがない愚かさにハッと気付きましょう。
 (以上、小池氏の論評後半部分を要約)


 再び、原左都子の私論に入ろう。
 おっと。 宗教家小池氏の結論とは庶民をバッシングしようとの意図に移り変わってしまいましたね。

 「モンスターペアレンツ」に関しては私も本エッセイ集のバックナンバーで既に取り上げ論評している。 一方、小池氏が言われる「クレーマー」と「ネット上に沢山ある匿名での悪口」の具体像が私には捉え切れず不明瞭である。(もしかしたら、この「原左都子エッセイ集」もその範疇なのか??

 ここで、原左都子も過去に本エッセイ集にて分析した「モンスターペアレンツ」から取り上げることにしよう。
 小池氏が「モンスターペアレンツ」を如何なる像と把握した上で今回のエッセイにおいてバッシングされたのかを私は存じないが、現実を鑑みた場合その実態は多様であろう。
 そして教員経験もある私から言わせてもらうと、学校側が「すみません、不手際でした」と言って保護者に屈服しているとお考えの小池氏は、申し訳ないが“実に甘い”と申し上げるしかない。 それどころか、学校現場とは基本的に“無視を決め込む図太さ”で成り立ち生き延びている組織なのである。
 私自身の保護者としての過去の経験によれば、保護者側こそがそれにも屈服せずに意見書を提出し続けるとやっとこさ議論を初めてもらえるのが現状なのだ。 むしろそれ程に学校とは“失うものなど何も無い”事を信じ切る無神経さにより存続している組織と言えよう。

 次に、小池氏が書かれている「クレーマー」とは何を指すのか不明であり、「ネット上にたくさんある匿名での悪口」に関しては、私はネット上の交流サイトを一切利用していないため論評不能である。 
 私の場合この「原左都子エッセイ集」を通じてのみその一端を経験しているため、その経験に基づき小池氏の見解に対して反論を述べさせていただくことにしよう。
 「原左都子エッセイ集」にも予期せぬアクセスが昨今を問わず寄せられる。(今現在尚、ネット上で原左都子を誹謗中傷するべくサイトが公開されていることも承知している。)  それら世間からのマイナー反応に対し、この私とて時には不快感に苛まれ時には傷付けられるのが正直なところである。 
 ただ私は、それらマイナー反応が小池氏がおっしゃるがごとく「自分の価値をつり上げたくてしょうがない愚かさ」でやっているとは到底思えない。 原左都子が分析するところによれば、彼ら(彼女ら?)とは結局「寂しい」のではなかろうかとの結論に達するのだ。 “プライド”どうのこうのよりも、人間関係が希薄な世に生かされている身にとってはただ寂しくてネット上を彷徨い、プラスマイナス何でもいいから反応を欲して自らのメッセージを発信し救いを求めているように捉えられる気がする。

 そのように考察した場合、私は彼らが発した「原左都子エッセイ集」に対するバッシングがいつまでもネット上で彷徨っていたとしても特段の不都合はないのである。 むしろ、彼らがネット上でたまたま発見した見知らぬ気に食わない相手を一時の感情でバッシングした事を後に反省しているにもかかわらず、それがいつまでもネット上で消去されない現状を悔やんでいるのではなかろうかとすら気遣うのだ。


 小池氏は仏教の伝達師として今後益々ご活躍の事と拝察する。

 冒頭でも記した通り私は無宗教の立場でこの世を生き延びている関係上、仏教の教えを全く心得ないままこの記事を綴った事をとりあえずお詫び申し上げたい。
 仏教の教えによれば人間が“プライド”を持つこととは煩悩と解釈しているのかもしれないが、私は無宗教ながら人間が“プライド”を持つ事を肯定的に捉えている事をここで申し上げておこう。

 そして表題に掲げた通り、庶民が世の上位(?)に当たる対象にクレームを発する動機とは、必ずしも「自分の価値を吊り上げたくてしょうがない愚かさ」に基づいている訳ではない事も伝授申し上げよう。
 庶民よりのクレームとはある時は真に世を改革したい意向に基づいた行動であろう。 またある時は“プライド”どうのこうの以前の問題として単に自分が今ここに存在する事実を認めて欲しいだけのメッセージであり、むしろ“プライド”を喪失している状態、と捉えている私のような人間が下界に存在することもお伝えしておこう。
                  

 (加えて、小池氏とは仏教家として修行を重ねこの世から超越した存在になられているにもかかわらず、傷つき易い人物であられるのか?などとの要らぬお節介をする私をお許し願いたいものである。
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